『難攻不落の美女』女好きな皇帝ナポレオン3世が虜になった貴族令嬢、ウジェニーとは
ナポレオン1世の甥にあたり、フランス第二帝政の皇帝として君臨したナポレオン3世こと、ルイ=ナポレオン・ボナパルト。
彼には、16歳年下の妻ウジェニーがいました。
ウジェニーはその美貌と気高さから「鉄の処女」とまで称され、周囲からは容易には落とせぬ女性と見なされていました。
王室同士の政略結婚が当たり前だった当時、一貴族の娘を妃として迎えたこの結婚は、大変センセーショナルなものでした。
今回は、この2人がどのような関係を築き、どのような足跡を残したのかを辿っていきます。
ナポレオン3世と難攻不落の美女
1851年12月2日、ルイ=ナポレオン・ボナパルトはクーデターによって権力を掌握し、翌1852年11月には帝政の復活を宣言して「ナポレオン3世」として即位しました。
皇帝となった彼の次なる重要な課題は、未来の皇后選びでした。
皇位を子孫に継承させるためには、帝室を創始せねばならなかったのです。
そのため、ナポレオン3世がどのような女性を選ぶのかに、国内外の注目が集まりました。
そんな中、彼がまだ即位する前から「ある女性にご執心らしい」との噂が人々の口にのぼるようになります。
その相手が、スペインの名門貴族出身で、フランスとのつながりも深いウジェニー・ド・モンティジョでした。
すらりとした長身に、洗練された美しさと装い。すでに多くの求婚者が列をなしていた彼女は、社交界でも注目の的だったのです。
しかし、ルイ=ナポレオンは女性関係の奔放さで知られていたため、人々は「ウジェニーも、多くの愛人の一人に過ぎないだろう」と見ていました。
ところがある日、ウジェニーと母親のもとに、パリ郊外のサン=クルー城で開かれる夜会への招待状が届きます。
正装で出向いた母娘を迎えたのは、ルイと親戚のバチョッキ伯爵だけという、あまりに内輪な集まりでした。
ウジェニーはこれに驚き、相手の振る舞いに不満を示し、礼儀のなさを咎めると、さっさとパリに戻ってしまいました。
気まずい思いをしたルイは改めて2人をエリゼ宮に招待をし、今度は丁寧な応対で名誉挽回を図ります。
さらに後日、従妹マティルダ邸で開かれた夜会に再び母娘を招き、ルイはウジェニーに対して「ここ数ヶ月、貴女に会いたくてたまらなかったのです」と率直に思いを伝え、彼女への好意を隠さなくなりました。
そしてある夜会の席で0時を回った時、ルイは「皆さんキスをしあいましょう!」と言い、機嫌よくウジェニーに近づきました。
しかし、ウジェニーはこの時も「スペインではそんな習慣はありません!」とルイをはねつけ、丁寧なお辞儀だけを返したのです。
他のどんな女性とも違い、追えば逃げるウジェニーに、ルイはすっかり夢中になってしまいました。
ルイが皇帝ナポレオン3世となっても、彼女が決して愛人の立場に甘んじないことを悟ったルイは、1853年1月5日、側近とウジェニーの母を通じて正式に結婚を申し込んだのです。
大不評だったプリンセス選び
こうして、プロポーズと婚約が正式に発表されると、その選択はフランス内外で大きな波紋を呼びました。
皇帝自らがこの結婚について弁明する場を設け、自身の意思でウジェニーを選んだ理由について力強く語ったのです。
ナポレオン3世は「王族の政略結婚とは、即ち君主同士の和睦のために行われる偽りの安心感であり、国全体の利益が一族の利益に置き換わってしまう。ゆえに自分は愛し尊敬する女性を選ぶのである」と主張したのです。
しかし、当時のヨーロッパ諸国の宮廷では、そうした価値観は容易に受け入れられませんでした。
ウィーン、ロンドン、サンクトペテルブルクといった大国の王室では、血統と格式を重視する伝統が根強く残っており、皇帝が王族の出ではない貴族の娘を娶るという決断は、型破りで悪趣味だと受け取られたのです。
特にイギリスのヴィクトリア女王は「王家の婚姻は、国家の威信を高めるための公的な行為である」という強い信念を持っていました。
そのため、いくら成り上がり者とはいえ、皇帝ナポレオン3世が一スペイン貴族の娘と結婚することは、皇帝としての品格に欠け、国家の格を貶める行為だと映ったのです。
ヴィクトリア女王はこの結婚を「下品で気が利かない」とまで言い放ったのでした。
ところが1855年、ウジェニーと実際に対面したヴィクトリア女王は、その印象を一変させました。
知性と品格、そして洗練された物腰に心を打たれた女王は、ウジェニーを深く気に入り、やがて2人は親密な友情を育んでいくことになります。
ヨーロッパの保守的な視線を受けながらも、ウジェニーはその気高さと人柄で次第に評価を高めていったのです。
皇后として
結婚後、ナポレオン3世は積極的な外交政策を展開し、帝国主義の拡大を目指しました。
1853年から1856年にかけてのクリミア戦争、1859年のイタリア統一戦争への介入、そして1861年から始まるメキシコ出兵など、フランスの国際的な影響力を強化するため、次々と軍事行動を起こしました。
ウジェニーもまた夫に加勢すべく、特にイタリア統一の支持に積極的に関与し、フランスの皇后として多くの政治的手紙を送るなど、外交の舞台でも重要な影響を与えました。
また、ウジェニーはフランス帝国の文化面にも大きな貢献を果たしました。
彼女はフランスの宮廷文化を育む一方で、芸術やファッションの発展にも影響を与え、「ウジェニー風」として知られる独特のファッションスタイルを生み出したのです。
このように、ウジェニーは単なる皇后にとどまらず、政治と文化の両面で重要な役割を果たしました。
フランス帝国の崩壊
ナポレオン3世とウジェニーの支配が続く中、フランスは重大な試練に直面します。
1870年、ドイツ統一を目指すプロイセンとの間で戦争が勃発し、いわゆるプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)が始まったのです。
この戦争は、フランス第二帝政の命運を決定づける転機となります。
ナポレオン3世は病をおして前線に赴き、戦争の指揮にあたりましたが、プロイセン軍の軍事力は圧倒的でした。
フランス軍はセダンの戦いで壊滅的な敗北を喫し、ナポレオン3世自身も捕虜となってしまいます。
これにより、国内では帝政の正当性が完全に失われ、パリで蜂起が起きた結果、第二帝政は崩壊。
フランスは第三共和制へと移行しました。
敗戦の報が届いたとき、ウジェニーは臨時政府の成立を前に急ぎ逃亡し、イギリスへと亡命します。
後に釈放されたナポレオン3世も彼女と合流しましたが、栄華を誇ったフランス皇后の立場は大きく変わらざるを得ませんでした。
この敗戦と帝政の終焉は、ウジェニーにとっても精神的な痛手であり、以後の人生に深い影を落とすこととなったのです。
ナポレオン3世亡き後も
1873年、再起を望みながら病に倒れたナポレオン3世の死後も、ウジェニーは長い亡命生活を送り続けました。
フランスに帰国することはなかったものの、イギリスでは主に社交界に関与し、貴族としての地位を維持しました。
彼女は生涯、自らを「皇后ウジェニー」と名乗り、ナポレオン家の名誉と記憶を守ることに努めたのです。
1920年、ウジェニーはスペインの親族を訪れていた際に病に倒れ、そのまま故国で静かに息を引き取りました。享年94。
彼女はその後、亡き夫ナポレオン3世と、早世した一人息子ナポレオン・ウジェーヌと共に、ファーンバラの聖マイケル修道院にある一族の墓所に葬られました。
ウジェニーが夫ナポレオン3世と歩んだ生涯は、まさにフランス第二帝政の栄華と没落を象徴するものでした。
政略を拒み、皇帝の心を射止めた難攻不落の美女は、フランス皇后として歴史に深い足跡を刻みました。
そしてその足跡は、今なお激動の時代を映す鏡として、静かに語りかけてくるのです。
参考文献:
『ロイヤルカップルが変えた世界史 下:フリードリヒ・ヴィルヘルム三世とルイーゼからニコライ二世とアレクサンドラまで』/ジャン=フランソワ・ソルノン(著),神田 順子(翻訳),清水 珠代(翻訳)
『美女たちの西洋美術史~肖像画は語る~』/木村 泰司(著)