【宮女たちに殺されかけた明の皇帝】13〜14歳の宮女から「ある物」を採取して怒りを買う
皇帝とは
東アジアにおいて「皇帝」という称号を初めて用いたのは、秦の初代皇帝である始皇帝である。
紀元前221年、彼が中国を統一した際、自ら「皇帝」という称号を採用した。
「皇」という字は、最も尊い存在や神聖な存在を意味し、古くから神話や伝説で神々や天子を表す言葉として用いられていた。また、「帝」という字も古代中国で支配者や神に仕える王を表し、特に神格化された存在を示すために使われていた。
それ以来、約2千年にわたって「皇帝」は中国の最高権力者の称号となり、国民から崇拝される存在となった。
歴史を通じて、国や民族が変異するなかで数多くの皇帝が登場してきた。その中には、歴史に残る偉業を成し遂げた有能な皇帝もいれば、無能な皇帝もいた。
今回は、明朝における一人の残念な皇帝について掘り下げてみようと思う。
嘉靖皇帝とは
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝第12代皇帝であり、諱は厚熜(こうそう)。
その治世は1521年から1567年に及んだが、道教への傾倒と権力闘争に彩られた時代であった。
先代である11代正徳帝(明武宗)の急逝後、直系の皇子がいなかったため、従弟であった嘉靖帝が後を継ぐことになった。このような背景から、嘉靖帝の治世は当初から宮廷内部の激しい権力争いに包まれた。
嘉靖帝は、10代弘治帝から従兄の11代正徳帝を経て帝位を継承したため、形式上は弘治帝の子になり、弘治帝及びその皇后を父母とする必要があった。
しかし、嘉靖帝は、実父である興献王を「皇考(先代の皇帝を指す語)」として扱うことを主張し、明朝の血統を維持するために「弘治帝を父とすべき」とする廷臣たちの意見と激しく対立した。
この「大礼の議」と呼ばれる論争では、皇室の系譜上、弘治帝系が消滅する問題が発生し、何百人もの廷臣が異議を唱えた。しかし嘉靖帝はこれを強引に押し通し、反対意見を持つ廷臣200人余りを処罰、解任または投獄に追い込んだ。
このような厳しい弾圧により、嘉靖帝に異を唱える廷臣が激減し、皇帝の権威が確立されたが、廷臣と皇帝の間に深い溝が生まれ、政治は次第に嘉靖帝の意向に従属するものとなっていった。
嘉靖帝は最終的に、興献王を「興献帝」とし、その廟号を「睿宗」と定めることで自らの主張を正当化した。
改革の功績と「嘉靖中興」
即位当初の嘉靖帝は積極的な政治改革を行い、朝廷内の腐敗を一掃しようと試みた。
前朝からの奸臣とされた王綸、銭寧、江彬を粛清し、過剰に肥大していた錦衣衛の兵員も17万人削減するなど、徹底した改革が行われた。
こうした改革により、当時は「嘉靖中興」と称され、嘉靖帝は一時的に明朝を再興させた皇帝と見なされていた。
しかしその後、嘉靖帝は次第に道教にのめり込むようになり「不老不死」を求める荒淫な生活が始まる。
道教と錬金術
嘉靖帝は、道教の「修仙」に強い関心を示した。
修仙とは「仙人になる修行をする」と言う意味で、その最も大きな目標は、肉体の老化を防ぎ、死を超越することだ。つまり、歴代の古代中国皇帝たちが血眼になって手に入れようとした「不老不死」である。
彼は術士や道士を宮中に召し入れ、秘薬の製造に励ませた。
その中で特に異常であったのが、若い女性の体から「ある物」を採取するという方法であった。
嘉靖帝は、13歳から14歳の若い宮女たちに特別な養生法を課し、食事を与えず、露水と桑の葉のみを摂取させる生活を強いた。
この目的は、彼女たちの体を清浄な状態に保ち、初潮を迎えた際にその血液を採取することにあった。
嘉靖帝は、この血液と水銀を混ぜて「赤鉛丸」という怪しい丹薬を作らせ、これこそが「不老不死の秘薬」であると信じていたのだ。
宮女たちの反乱「壬寅宮変」
嘉靖21年(1542年)10月21日の夜、遂に宮女たちの怨念が爆発し、皇帝暗殺未遂事件「壬寅宮変(じんいんきゅうへん)」が勃発する。
この事件は、楊金英ら数十名の宮女が嘉靖帝の寝室に押し入り、彼の首に紐をかけて絞殺しようとしたものであった。
宮女たちは嘉靖帝が眠りについたことを確認し、紐を引く者、体を押さえつける者に分かれて襲撃を試みた。
しかし、彼女たちは当然誰も人殺しの経験はなく、紐の結び方が甘かったために計画は失敗に終わり、騒ぎを聞きつけた皇后方氏が侍従を連れて駆けつけ、宮女たちは全員が捕えられることとなった。
暗殺未遂に加担した宮女たちは激しい拷問にかけられ、主犯格の楊金英らは凌遅刑(生きたまま切り刻む刑)に処せられるという苛烈な処罰が下された。
事件の背景と理由
「壬寅宮変」は、嘉靖帝の行動がいかに宮女たちを追い詰めていたかを物語るものであった。
なんと言っても相手は皇帝である。
彼女たちが皇帝を暗殺しようとした理由としては、前述した「赤鉛丸」だけではなく、他にも様々な要因があったと考えられている。
亀の育成失敗説:嘉靖帝に神聖な亀が献上され、その育成を任された楊金英らが失敗して亀が死んでしまい、嘉靖帝の怒りを買って処刑される前に先手を打った。
寵愛の争奪戦説:嘉靖帝が後宮に引きこもりがちで、寵愛を得る機会の少なかった宮女たちが、寵愛を得られない恨みを抱いていたことが動機となった。
残虐さへの恐怖説:嘉靖帝は些細な失態でも殴り殺しにするなど非常に残虐であり、宮女たちがその恐怖から自身を守るために暗殺を決意した。
これらの要因が絡み合い、宮女たちの恨みが頂点に達した結果として、この暗殺未遂事件が起こったとされる。
事件後の嘉靖帝と後宮の惨劇
一命を取り留めた嘉靖帝は、その後ますます後宮に引きこもり、宮廷外の政務からは距離を置くようになった。
命を救った皇后方氏は一時的に嘉靖帝の寵愛を得たが、拷問の中で口を割った宮女たちの証言によって、事件に関与したとして嘉靖帝が寵愛していた曹氏と王氏が処刑された。
後に、この二人が冤罪だった判明すると、嘉靖帝は方皇后に対して不信と怨みを抱くようになった。
そして、事件から5年後の1547年、方皇后の宮殿が火災に遭った際も嘉靖帝は救援を出さず、結果として彼女を見殺しにした。
嘉靖帝の晩年と後世への影響
嘉靖帝は、晩年になるとますます道教に傾倒していった。
宮廷内では道教の儀式や修行に専念し、引きこもって暮らし続けた結果、政治の実権は厳嵩(げんすう)とその子の厳世蕃(げんせいばん)に委ねられるようになる。
厳嵩父子はその地位を利用し、朝廷内で賄賂や汚職を蔓延させ、彼らの専権政治は国家体制を大きく揺るがした。
さらに、嘉靖34年(1556年)に発生した陝西大地震(華県地震)は、明朝の財政に深刻な打撃を与えた。
この大災害により明朝の国庫はさらに逼迫するが、嘉靖帝はこの国難にも関心を示さず、道教の修行と不老不死の探求に多額の財政を費やし続けた。
そして嘉靖45年(1567年)、嘉靖帝はついに崩御する。
即位当初は「嘉靖中興」と称賛された功績も、晩年の道教狂いと政務の放棄により大きく損なわれる結果となった。
嘉靖帝が追い求めた不老不死の夢は、明朝の衰退と崩壊への道を開く引き金となったのである。
参考 : 『壬寅宮変的地点 起因和事后 故宮博物院』『明代の専制政治 岩本真利絵』
文 / 草の実堂編集部