湯の花トンネル 戦中の列車銃撃 語り継ぐ 裏高尾町で慰霊の集い
太平洋戦争末期の1945年8月5日、新宿から長野へ向けて走行中の列車が八王子市裏高尾町の「湯(い)の花トンネル」付近で米軍戦闘機の銃撃を受け、乗客133人が負傷、52人以上が亡くなった。この事件から79年を迎えた今年8月5日、現場近くの慰霊碑で恒例の慰霊の集いが催され、遺族や地域住民らが犠牲者の冥福を祈った。
当時は戦時下の情報統制で詳しい被害が公表されず、戦後になって初めて家族がこの事件で亡くなったことを知った遺族も少なくなかったという。後に行われた市の戦災調査をきっかけに、40年ほど前に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足。悲劇を語り継ぐため毎年、慰霊の集いを開催している。
「伏せろ」父の声
現在羽村市に住む榎本久子さん(89)は当時9歳。3日前の八王子空襲で自宅が焼失し、母の実家がある山梨に久子さんを預けるため、父と列車の1両目に乗車していた。トンネルに差しかかった頃、突然轟音が響き、父の「伏せろ」の声に慌てて腹ばいになったという。乗っていた車両がトンネルに入っていたため親子共に難を逃れたが、現場で多くの遺体を目にして「自分が生きていることが不思議なぐらいだった」と回顧する。
この日初めて慰霊に訪れたという武蔵野市の男性(64)は、当時中学1年生だった父が列車に乗っていた。「生きのびた父は多くを語らないまま7〜8年前に亡くなったが、本で事件の詳細を知り、一度は訪れなくてはと思った」と26歳の息子と参列、慰霊碑に手を合わせた。
慰霊の集いには、今年1月に就任した初宿和夫市長も参列。遺族会会長で、銃撃で同乗していた2歳上の姉を亡くした黒柳美恵子さん(92)らに挨拶し、「八王子にとって忘れてはならない事件。戦争の悲惨さと平和の大切さを子どもたちに語り継いでいきたい」と語った。慰霊の会の齊藤勉会長は「来年、戦後80年の節目を迎えるが、そこで終わりではない。この惨劇を次の世代に伝え続けていくことが大切」と語り、慰霊の集いの継続を誓った。