Yahoo! JAPAN

『忠臣蔵』で知られる「赤穂浪士討ち入り事件」、そのあらすじや登場人物、歴史的背景を話して参る!

さんたつ

赤穂城忠臣蔵

皆々、息災であるか前田又左衛門利家である。2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、江戸幕府での政争や江戸の民の暮らしとともに、主人公・蔦屋重三郎殿の生業である出版の世界について描かれておるじゃろう。天下泰平の江戸時代はまさに民の文化が花開いた時代。現世ではそれこそドラマなるものやアニメなるものがその中心であろうが、我らの時代は書か能狂言から始まるいわゆる芝居が娯楽文化の中心であった。そしてこれは現世でも同じくだと思うが、娯楽にも流行があるわな。江戸時代でいえば、源義経様を描いた『勧進帳』や悲恋を描いた『曽根崎心中』、そして『忠臣蔵』である!『忠臣蔵』とは元禄15年(1702)に起きた赤穂浪士による討ち入り事件をもとにした題目である。『べらぼう』の時代より80年ほど昔の出来事じゃな。現世においても割と名が知られておると聞くが、江戸時代に書や芝居として流行ったがゆえに、さまざま脚色が強くなされておる。故に此度は、『忠臣蔵』ではなく「赤穂浪士討ち入り事件」について話をして参ろうではないか!

赤穂浪士討ち入り事件のあらすじ

先ずはこの事件のあらすじを話して参ろう。

赤穂藩主である浅野長矩(ながのり)殿が、高家・吉良義央(よしひさ)殿からの度重なる嫌がらせに腹を立て、江戸城内で切り掛かった。

じゃが長矩殿はすぐに取り押さえられ、吉良義央殿は傷を負ったものの命に別状はなく、城内で刃傷沙汰を起こした長矩殿は即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなった。

藩が取り潰しになった赤穂藩士たちは浪人となるも、翌年、赤穂藩筆頭家老であった大石良雄殿の指揮で吉良義央殿の屋敷に討ち入り、義央殿を討ち取った。

討ち入りを果たした者たちはその後、幕府の指示に従い切腹して果てた。

と、簡単にまとめるとこんな具合じゃな。

なんとなく、かような内容であったと思い出した者も、初めて聞く話じゃと申す者もおるじゃろう。

ここからはもう少し込み入った話をして参るで、分からなくなったらばこのあらすじに立ち返るが良いぞ!

それでは改めはじめに登場人物の紹介といたそうではないか!!

赤穂藩主・浅野長矩は暗君だった?

先ずは赤穂藩主・浅野長矩殿じゃ。

浅野家といえば秀吉の妻・おね殿の親戚筋にあたる家系。

赤穂藩は分家であって、本家・広島藩は42万石という外様有数の大きな藩である。

ちなみに、浅野本家には我が孫娘の満が正室として嫁いでおって、浅野長矩殿は儂の孫娘の義従姪孫(ぎじゅうてっそん)にあたるそうじゃな。

長矩殿は両親を早くに亡くし、幼くして藩主となった。

赤穂城。

じゃが決して暗君ではなく、火事が頻発した江戸時代において防火で功を立て火消し大名の異名で呼ばれておるし、不本意な沙汰で改易となり抵抗の恐れがあった備中松山藩・水野家から争うことなく松山城の明け渡しを成功させるなど才覚を見せておった。

江戸城での刃傷沙汰について家臣や領民のことを顧みぬ行いとして横柄に捉えられることもあるが、即日の切腹という異例の出来事にも抵抗せず、罪深きことをしたのにも関わらず、打首ではなく切腹の沙汰が降ったことに感謝の意を示しておることからも、その人柄をうかがい知ることができるわな。

辞世の句は「風さそう はなよりもなお われはまた 春の名残りを いかにとやせん」

花よりも早く散る自分はいかにしてこの世に名残を残せば良いのか、という意味の歌であるな。

源氏の血を引く名門の出・吉良義央

吉良家とは足利家の分家。

即ち源氏の血を引く名門である。

ちなみに今川家は吉良家の分家であって、徳川家からすればかつての主君の本家にあたるわけじゃ。

加えて、家康殿の叔母上が吉良家に嫁いでおるから、家康殿から見て義央殿は従曾姪孫(じゅうそうてっそん)である。

名門・吉良家は幕府と朝廷を取り次ぐ高家であって、義央殿はその中でも筆頭の立場にあった。

幕府の行事や儀式においても指南役を務めたことから、各大名とのつながりも大きく、義央殿の正室・梅嶺院(ばいれいいん)殿は上杉景勝殿の孫、謙信殿の養曽孫である。

上杉家の後継が絶えた折には、義央殿と梅嶺院殿の子が庄内藩主となり、家格に加えて15万石を持つ庄内藩が後ろ盾を持つ有力者であったわけじゃ。

刃傷沙汰の原因とされる浅野家へ対する嫌がらせは、幕府の行事の指南係として世話をしておるにも関わらず、浅野家から謝礼金がなかったためとも言われておるぞ。

じゃが、義央殿の人物像については『忠臣蔵』が美化され流行したことによって、長矩殿や赤穂藩士を正当化するために過剰に悪く書かれることが少なくないでつかみかねるところではある。その立場から疎まれやすかったことは事実であろう。

事件の後に吉良家は揉め事を起こしたことを咎められ、改易となっておる。

大石良雄は中間管理職の鏡?

最後に紹介致すは討ち入りを指揮した赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄殿である。

恒例の家系の話をいたせば、関ヶ原前夜に伏見城で果てた徳川十六神将・鳥居元忠殿の曾孫にあたるわな。

若き藩主・長矩殿を支え、先に紹介した備中松山藩の受け渡しの折に抗戦の構えを見せる松山城に単身乗り込み説得してみせるなど、非凡さを示す話も残っておる。

備中松山城。日本で天守が現存する唯一の山城だ。

刃傷沙汰が遠い赤穂の地に届いたのは、無論ではあるが長矩殿の死後であった。主君が事件を起こしたこと、即日の切腹、そして藩の取り潰しが、突然伝えられ家中は大混乱となる。

抗戦すべし、あるいは皆で切腹するべき、そして恭順派と多くの意見が入り乱れる中、良雄殿は長矩殿の弟・長広殿を主君として浅野家再興を目指す形で家中をなんとかまとめあげ、赤穂城は幕府方へ引き渡されることとなった。

これに加えて、価値を失う赤穂藩の藩札の交換に応じ、経済の混乱を防いだそうじゃ。

なんの前触れも無しに主君の死と改易が決まる、江戸時代の中でも屈指の修羅場あろう。

良雄殿は幕府に対し浅野家の再興と吉良家への処罰を幾度も嘆願するも聞き入れられることはなく、主君の汚名を雪(そそ)ぐため討ち入りを決意することとなった。

かつての赤穂藩士は散開し足並みを揃えるのが困難な中、はやる藩士たちを抑えつつ討ち入りの計画を練るのは偉業とも呼べよう。

じゃが、見事と言って良いかわからぬが良雄殿と赤穂藩士たちは宿願を叶え、討ち入りに参陣した47人は一人を除いて切腹して果てたのであった。

肥後細川家に預けられ、切腹の折には三枚の畳と介錯人には譜代家臣が任じられるなど、最大限の礼を持って扱われたようじゃ。

「あら楽し おもいは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」

この時に大石良雄殿が残した辞世の句は、軽妙な語り口が悲しさを誘う屈指の名句として伝わっておる。

主君を思い家臣をまとめる、現世で良雄殿は中間管理職の鏡のような描かれ方をするそうじゃな。

ちなみに良雄殿の屋敷の長屋門は現存しておって、赤穂城に行けば見ることがかなうぞ。

大石邸跡。

終いに

赤穂浪士討ち入りについて話して参ったが如何であったか!

この事件は太平の世で刺激が薄まった時代に幕府への不満と合わさって民に刺さりに刺さったのじゃ。

そしてこれは現世でも同じくかもしれんが、人は主従愛やら仇討ちやら信念や忠義の話が好きじゃろう。

故に大流行したわけじゃ。

はじめにも申したが、『忠臣蔵』とは江戸の文化の象徴的存在で脚色と美化に加えて、検閲よけのためにさまざまな話が付け加えられ、もはや実像をとどめておらんほどに変容しておる。

討ち入り事件をそのまま描くと幕府に禁止されてしまうでな、鎌倉時代の話として描いたり人物を変えたりさまざまな工夫がなされておったのじゃ。

いずれにせよ赤穂浪士たちは民の英雄として、あらぬ形で主君と自らの汚名を返上したというわけじゃ。

じゃが、これは江戸を中心とした話であって、他の地域ではこの赤穂浪士に対して批判的なものも少なくなかった。

長矩殿が刃傷沙汰を起こしたのは朝廷をもてなす催しの前であったことも相まって、即日は強硬とはいえ妥当とも言えなくはない処分である。

特に、吉良家の根拠地である三河や尾張、愛知県においては今でも「忠臣蔵」なぞとは呼ばず、御法度と称すべしとされておったりする。

確かに、突如切りつけられた上に後日再び攻め入られ討ち取られ、さらには改易されるなど吉良家にゆかりあるものからすればたまった話ではない。

どころか後世まで極端な悪役として描かれ続けるとは同情すら覚える話でもあるわな。

故に尾張や三河に住まう者は「忠臣蔵」ではなく「御法度」や「討ち入り」と申した方が通(つう)ぶれるで、試してみるが良いぞ!

歴史は後世で、片方の視点から正当化した形で語られることが多いが、一度視点を広く持って同じ出来事を見てみると新たな楽しみ方ができるであろう!

と言った具合で此度も終いと致すのじゃが、実は江戸時代、江戸城での刃傷沙汰はこの事件の他に幾度も起きておるのじゃ!

故にその話もいずれいたそうではないか!

それでは次回の戦国がたりで会おう!

さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。

【関連記事】

おすすめの記事