【昭和の春うた】松田聖子「赤いスイートピー」作曲者の呉田軽穂っていったい誰だろう?
リレー連載【昭和・平成の春うた】VOL.9
赤いスイートピー / 松田聖子
▶︎作詞:松本隆
▶︎作曲:呉田軽穂
▶︎編曲:松任谷正隆
▶発売:1982年1月21日
聖子の曲のクレジットに必ず名を連ねるようになった “松本隆” という作詞家
春色の汽車に乗って
海に連れて行ってよ
初めて「赤いスイートピー」を聴いたのは1982年1月、私は卒業を間近に控えた中学3年生だった。まず思ったのは、“春色の汽車って、いったいどんな汽車だろう?” パッと浮かんだ色は、暖色系のオレンジと桜色が混じる中にタンポポのように黄色のアクセントが散りばめられた―― そんな色だった。さらに歌詞はこう続く。
煙草の匂いのシャツに
そっと寄りそうから
何故 知りあった日から半年過ぎても
あなたって手も握らない
主人公が慕うこの “彼” は、ちょっと不器用で照れ屋だけれど、根は優しくて誠実な男性で、彼女からするとそこに惹かれるのだろう。でも一方で、積極的にアプローチしてこない彼がもどかしくてならない… この冒頭の4行だけで、恋愛経験などまったくない中坊にも、背景と主人公の気持ちがはっきりわかる。聖子の曲のクレジットに必ず名を連ねるようになった “松本隆” という作詞家が気になり始めたのは、いま思うとこの頃だったかもしれない。
松本隆が手がけた「白いパラソル」は3作連続となるオリコン1位を獲得
もう1つ気になったのは、作曲のクレジットにある “呉田軽穂” という人物だった。どう見てもペンネームっぽいが(往年のハリウッド女優、グレタ・ガルボのもじり)正体はいったい誰なのか? 程なく松任谷由実だと聞いて、あ〜、そうなんだと納得。同時にこう思った。“なんで隠すんだろう?”
ここでちょっと、時計の針を戻す。松本隆が松田聖子の曲の作詞を手掛けるようになったのは、1981年7月発売、通算6枚目のシングル「白いパラソル」からだ。聖子を発掘し、初期のディレクター&プロデューサーを務めた若松宗雄氏(以下:若松P)に以前インタビューした際、当時の聖子の状況についてこう語ってくれた。
スケジュールが多忙すぎて、持ち前の天に突き抜けるような歌声が出せなくなっていたんです。聖子は毎日泣いてましたよ
声の変調は、おのずと楽曲づくりにも影響を及ぼした。「青い珊瑚礁」(1980年)や「夏の扉」(1981年)のように、伸びやかな声で聴かせるアップテンポな曲から、声を張らず細やかな情感で聴かせる曲へ。この苦しい時期に、繊細な詞が書ける松本に出逢えたことは、聖子にとって幸いだったともいえる。松本作詞、財津和夫が作曲した「白いパラソル」は3作連続となるオリコン1位を獲得。聖子は逆境を乗り越え、歌手としての幅を広げた。
次は誰に曲を依頼しようか? 白羽の矢を立てたのがユーミンだった
当時の聖子の楽曲づくりは、タイトルと大枠の世界観をまず若松Pが決め、ディテールの部分は作詞家・作曲家に任す。というやり方だった。「白いパラソル」に次ぐ第7弾シングル「風立ちぬ」もそうで、堀辰雄の小説『風立ちぬ』は若松Pの愛読書だった。松本にそのイメージで行くと伝えると、松本にはひらめくものがあったのだろう。作曲に盟友・大滝詠一を推薦。若松Pの想定とは違うナイアガラ流のゴージャスな作りになったが、みごとオリコン1位を維持した。
この成功をきっかけに、パートナーを選ぶ権利を獲得した松本は、歌謡曲畑の外にいる仲間たちを聖子の楽曲づくりにどんどん引き込んでいく。次は誰に曲を依頼しようか? 松本が白羽の矢を立てたのがユーミンだった。この頃、聖子ファンは圧倒的に男性が多かったが、若松Pは女性ファンをもっと増やそうと考えていた。その意向をふまえ、女性の支持が高いユーミンが曲を書けば、女性層を取り込めて一石二鳥、という思惑も松本には当然あっただろう。
ただ、ユーミンは “ライバルに曲を書いてみない?” という、いかにも松本流のオファーを最初は断った。曲を書くこと自体はやぶさかではないが、ユーミンブランドに寄りかかった形で曲を売ることを嫌ったのだ。“私の名前が表に出なければいいよ” という条件の結果、作曲:呉田軽穂となったのである。
では、実際の曲づくりはどんな形で進んでいったのか? 松本によると、若松Pから “赤いスイートピーっていうタイトルを考えたんだけど、それで詞を書いて” と言われたそうだ。ただ1つ問題があった。これはよくネタにされるのでご存じの方も多いと思うが、当時自然界には “赤いスイートピー” が存在しなかったのである。実際に生花店で売っているスイートピーはピンクか白がほとんど。そのことを若松Pも松本も知らなかった。松本は曲のリリース後にそのことを指摘され “ヤバい!” と思ったそうだ。まあ、歌の世界の話ですからね…。
若松P × ユーミン × 松本隆の3者がバチバチと火花を散らして曲が完成
さて、本曲は曲先で作られたそうで、まずユーミンが曲を書いた。発注の段階で、若松Pはユーミンにこんなリクエストをしたそうだ。“聖子のノドに負担が掛からないように、キーを抑えたスローバラードを作ってほしい”。上がってきた曲は、われわれが今聴いているバージョンとは違い、サビの最後の部分「♪ I will follow you」のところのメロディが下がっていたという。
“春の歌なんで、気分的に下がると良くないなと思って、直してもらいに行ったんです” と言う若松P。ユーミンは超多忙だったため、コンサートのリハーサル会場にまで出向いてこう言ったそうだ。“気分として、ここはアゲてくれませんかね?” ユーミンの返事は “私、直してって言われたことないです”。思わず “すみません!” と謝った若松P。しかし、ユーミンは偉かった。“責めてるんじゃないんですよ。逆に参考になりました” と言って、書き直しを快諾してくれたという。
一方、曲を受け取った松本の第一印象は “これ、普通に詞を乗っけてくと、ユーミン風の語感になっちゃうぞ”。松本はユーミンに負けないよう、あえて “松本隆ワールド” 全開の詞を書いた。その象徴が冒頭の「♪春色の汽車」である。どこか気弱でナイーブな彼、その心をはかりかねて心が揺れる主人公… 線路の脇で、ツボミの状態で花咲く時を待っているスイートピーは、まさに彼女の心そのものだ。スイートピーの花言葉はいくつかあるが、中にはこんな言葉も。“私のことを忘れないで” ……実にいじらしいではないか。
そんなふうに、若松P × ユーミン × 松本隆の3者がバチバチと火花を散らして曲が完成。それぞれの強い思いがこもっているこの曲、並の歌い手であれば、間違いなく曲に呑まれてしまうことだろう。しかし松田聖子はやはり只者ではなかった。曲を聴いて、3者それぞれの思いをすぐに把握し、自分の解釈を加えて、この曲を “聖子ワールド” に変えてしまったのである。
幻想の世界に、聖子の歌声はリアルな色をつけてくれる
若松Pは言う。
聖子は常に感覚が鋭くて、どんな曲を与えられても、すぐにその曲のキモになる部分をパッと把握して、自分のものにしてしまう天才だった。
だからこそ若松Pは、レコーディングの際、あえて聖子にギリギリまで譜面を渡さず、何度も歌わせないようにしていたそうだ。その理由はーー
曲をヒットさせる上で大事なのは、理屈と娯楽のバランスなんですよ。理屈が前に立つと、娯楽は後ろに行っちゃう。そうすると売れないんです。娯楽が前に立たないと、絶対にヒットは生まれない。娯楽を立たせるためには、むしろ完璧を目指したらダメなんです
思えばこの曲、若松Pが “赤いスイートピー” という実際には存在しない花を(そうとは知らず)タイトルにしようとひらめいたことから誕生した。その時点ですでに理屈から逸脱していたわけで、“春色の汽車” もそうだ。“そんなもん、あり得ないだろ” という幻想の世界に、聖子の歌声はリアルな色をつけてくれる。それが “娯楽が前に立つ” ということなのだ。
ユーミンの名を前面に出さずとも「赤いスイートピー」は堂々のオリコン1位を獲得。聖子の代表作になっただけではなく、女性の共感も集め、以降女性の聖子ファンが増えるきっかけになった。また歌の力というのはすごいもので、たぶん注文が殺到したのだろう。その後スイートピーの品種改良が進められ、現在 “赤いスイートピー” は普通に販売されている。理屈を超えた名曲は、時に現実を変えるのだ。