歓声飛び交う休日の千葉公園。ひっそりとたたずむ旧陸軍鉄道連隊の残り香
千葉駅から徒歩でも行ける千葉公園は、大勢の人が遊ぶ憩いの場です。その公園内には旧陸軍鉄道連隊の遺構が点在し、コンクリート構造物が静かにたたずんでいます。2024年10月14日の鉄道記念日に、鉄道連隊の遺構に出合いました。
公園内に点在する遺構探求。最初は駅前のトンネル
千葉駅の北側は住宅地が広がっています。住宅地を歩いてものの15分、千葉公園が現れました。敷地は広大で、芝生、競技場、池、レクリエーション施設など、市民の憩いの場となっており、陽気のいい秋の土曜日は、大勢の歓声が響き渡っていました。
なぜこの公園へ訪れたかというと、旧陸軍鉄道連隊の遺構が眠っているからです。千葉公園は、終戦まで鉄道連隊の演習地作業場でした。私は、千葉経済大学内にある『旧鉄道連隊材料廠(通称・煉瓦棟)』の見学会へ参加後、千葉公園へとやってきました。ここには、材料廠に隣接した演習地作業場の遺構が点在しています。
千葉都市モノレール千葉公園駅高架橋の下に到着しました。駅前広場の端にはコンクリート製の大きな遺構があります。馬蹄型の形状をしたコンクリート製のトンネルです。
これはトンネル工事演習用の擬似トンネルです。長さは5mもありません。全てコンクリートで造られており、単線トンネルの形状です。上部に鉄道連隊のマークが残されていました。
駅広場の脇にたたずむ演習トンネルは唐突感があって、何かのオブジェかと思ってしまうほど、異物のようです。形状からしてトンネルだとすぐ分かるので、「ここに山があったのか?」「何のためのトンネルなのか?」「そもそも長さが短すぎる」などなど、見れば見るほど疑問が浮かぶ不思議な遺構で、これが演習用と知らなければ、頭に「?」がいくつも浮かんでしまいますね。
ただ、地元民にとっては当たり前すぎる存在なのか、気にする人はほとんどいません。老婦が一人、しばらく見つめて去っていきました。
戦後にできた池のほとりにコンクリート台座がある
そもそも千葉公園の場所が鉄道連隊の演習地作業場となったのは、明治のころまで遡ります。明治時代、千葉県には陸海軍の基地、学校、演習地などが集中的に整備されました。千葉駅の北側は現在こそ住宅地が広がり、学校が点在しますが、それらの場所はかつて陸軍の敷地で、防空、戦車、歩兵の各陸軍学校、病院、気球連隊、兵器補給廠、そして鉄道連隊がありました。
明治41年(1908)、鉄道連隊本部と鉄道第一連隊が同地へ移転してきました。大正7年(1918)に鉄道連隊が改編され、同地に第一連隊、津田沼に第二連隊が設置されました。津田沼の鉄道連隊線路の跡地は新京成電鉄となって、急カーブの続く線形がその名残となっています。
演習地作業場は、明治時代末期から大正時代にかけて整備されたのだと思われます。公園内にある「綿打池(わたうちいけ)」は戦後の公園造成に伴ってできた人工池で、終戦直後の米軍撮影航空写真では窪地となった田畑でした。
綿打池のほとりには「ウインチ台跡」呼ばれる、コンクリートの塊があります。“ある”と言ってもコンクリートはボロボロで、おどろおどろしい雰囲気を感じ、人々が行き交うにぎやかな空間では、ここでも異物感がじわぁっと伝わってきます。
コンクリートの塊は、平行になったものが二つ。垂直に並ぶものが一つ。上面は窪んでいたりスジが入っていたりと、その上に何かを設置するような仕組みになっています。この塊はクレーンの台座だったとか。
先ほどの米軍航空写真でも、かなり不鮮明ながら、同じ地点にクレーンのようなものが見えなくもない……という状態で写っています。
ここでも、行き交う人々は関心を向ける目がありませんでした。私が塊を観察していると家族連れが寄ってきて、何だろうと見ていましたが、程なくして去っていきました。形状はベンチのようにも見えますが、それにしては腰掛が高く、上面が凸凹かつザラザラなので、座り心地も良くないです。
撤去に手間取ったのでこのまま放置したのでしょうか。この上部にどんな形状のクレーンがのっていたのか、どのような作業をしていたのか気になるところです。
斜面に佇む橋脚を見て「ぬりかべ」を連想する
演習地作業場には橋梁もありました。これも演習用のもので、実際に川を渡っていたわけではありません。公園内に掲げられた写真には、先ほどの演習用トンネルと共に、窪地を活用して橋脚が数脚並ぶ訓練光景がありました。鉄道連隊は、作戦によって線路の破壊と復元を行うため、演習用橋脚を使用して架橋したり撤去したりと訓練がされていました。
古写真には橋脚が並んでいますが、公園内には見当たりません。戦後の公園整備で撤去されてしまったようです。しかし、一脚だけ残されています。邪魔にならなかったからなのか、あえて残したのか定かではありませんが、『運動広場』の反対側の斜面に黒ずんだコンクリート橋脚が“鎮座”しています。
橋脚の前は散策道で、ここも人通りが多いのですが、誰も見向きもしません。もう当たり前の光景になっているのです。橋脚は木立の中に佇んでおり、飾り気のないのっぺらな風貌から、妖怪ぬりかべを連想してしまいました。ぬりかべと思ってしまうと、威厳ある鉄道連隊の遺構もコミカルに見えてきてしまって……。いかんですね。
橋脚は単線用です。上部には桁を固定する金具があるかもしれませんが、演習用のために最初から設けられていたのか謎です。橋脚の位置は斜面の中ほどにあって、散策道を上っていくと橋脚の裏側も見えます。が、こちらものっぺらです。至ってシンプルな橋脚でした。
橋脚を前にしてしばらく観察していましたが、ほんと誰も関心がないように見向きもしません。戦後80年の月日が経ち、千葉公園の開園時にはすでに遺構としてあったので、この光景が人々にとっての日常なのでしょう。周辺の道路は、鉄道連隊演習線路の跡をそのまま活用したところもあります。千葉駅の北側には、鉄道連隊の残り香がほのかに漂っていました。
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。