田内洵也「深川のアッコちゃん」インタビュー――桑田佳祐が見出した"流し"発のシンガソングライター!
──音楽に目覚めたきっかけから聞かせてください。
「小学生の時にザ・ビートルズと出会いました。最初に聴いたのは青盤(『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』)で、そこから少し時間が経って、ジョン・レノンの没後20周年にリリースされたベストアルバム『ザ・ビートルズ1』が家にあって、小学校6年生の時に聴いた「レット・イット・ビー」が僕の音楽人生の一番最初の大きいインパクトでした。“この音楽は一体何なんだ?”というぐらいの衝撃を受けました」
──そこでアコギを始めたのですか?
「その1年後、中学1年生の時に父の仕事の関係で愛知県の春日井市からタイのバンコクの引っ越したんです。当時のバンコクはいろんなところで生演奏をしていて…そこでタイ人のミュージシャンが大好きなビートルズを生で演奏しているのを聴いて、またとてつもない感銘を受けて、“楽器を自分で弾いてみよう”と始めました。ザ・ビートルズの弾き語りが僕の第一歩でした」
──バンコクでスタートしているんですね。
「はい。中学1年生の時に路上で弾き語りを始めました。タイは治安がそんなに悪くないので、勝手にギターを弾いていても大丈夫だったんです。ギターケースを開けて弾いていると、お金を投げてくれる方がいたり、一緒に歌い始める旅行者の人がいたりして。当時から世界中のバックパッカーが集まっていたので、ものすごくインターナショナルな路上で歌っていました」
──そのときにはもう“ミュージシャンになろう”と決めていましたか?
「いえ、当時は映画の仕事をしたいと思っていました。子供の頃から映画が好きで、映画を見て育っていたので、“自分も作品を作りたい”という気持ちはずっとあったんです。漫画も描いていましたし、いわゆる創作物が大好きだった中でたまたま音楽と出会いました。音楽は趣味というか…ただただプレジャーでやっていました。“音楽の道に行く”ということは意識せずに、楽器を弾く楽しさに酔いしれていました」
──何か分岐点はあったのでしょうか?
「バンコクには3年ほどいて、中学卒業の段階で、また愛知県の春日井市に戻りました。高校生になって、路上だけではなく、ライブハウスにも出始めて…僕はブルースやカントリーを弾いていたので、少しませていたんです。だから、当時、関わってくれた大人の人たちから“音楽でやっていけばいいじゃん”、“プロになりなよ”と言われて。“そんな選択肢が人生にあるんだ?“と、その時からだんだんと意識するようになって…本格的に目指すようになったのは17歳の時からです」
──ちなみにサザンとの出会いは?
「タイに住んでいた時に日本人学校の親友が桑田佳祐さんの大ファンで、僕にCDを貸してくれたんです。最初は桑田さんソロの「波乗りジョニー」のシングルだったんですけど、それで初めて桑田さんのことを知って、ハマってしまいました。その後に、日本からくる親戚のおばさんに“CDを買ってきてほしい”ってお願いをしたんです。おばさんは何の知識もないんですけど、当時リリースされたばかりのサザンオールスターズのアルバム『世に万葉の花が咲くなり』と桑田さんのソロ・ベスト・アルバム『TOP OF THE POPS』の2枚を買ってきてくれて。それが本当の出会いで、そこからはずっと桑田さんの大ファンで、路上でもビートルズやクラプトンの曲と一緒の桑田さんの曲をカバーしたりしていました」
──高校生の頃に音楽の道を進むことを決意し、いよいよ上京ですか?
「まず、東京に出る前に“ルーツのアメリカの音楽を生で見たい“という気持ちがあって…地元の工場で働いて、お金を貯めて、渡米しました。アメリカだけではなくて、ヨーロッパもバックパッカーで回って。実際に現地のミュージシャンの演奏を聴いてとても刺激を受けて、そこで一旦満足して、帰国しました。”音楽をやるならやっぱり東京でやりたい“と思っていたので、東京に行くことにしました。二十歳の時に東京の大学に遅れて入学して、4年間の間に就職活動のように音楽でご飯を食べていく方法を考えていました。そこで編み出したのが”流し“でした」
──どうして“流し”だったんですか?
「僕より先に上京した名古屋の先輩が、“人と同じことやっとったらダメ。音楽関係者のいるバーにギターを持って行って、そこでコネクションを作るのがいいんじゃない?”というアイデアをくれたんです。まずはお金を稼がないと暮らしていけないわけですし、それだったら飲食店さんで弾かせてもらおうと思っていたんですけど…」
──けど…?
「上京する日にギターを盗まれたんです」
──ええええ!
「アルバイトして買ったギブソンのギターが車上荒らしに遭って…」
──まるで映画のようなお話ですね。外から見ている分には面白い話ですけど。
「今の言葉で僕も少し救われました(笑)。当時はすごくショックでしたし、絶望に打ちひしがれました。警察に届け出を出して、その日の夜に親戚にもらった1万円くらいのギターだけを持って、夜行バスで東京に行きました。本当に文字通り、“ゼロから始まった”という感じで、1万円のギターを持って、まずは浅草のバーからスタートして、人形町の方にも進出していって。だんだんと知り合いが増えていって、お客さんの紹介で、今度は港区のディープでオーセンティックなバーに連れて行ってもらいました。そこから、毎週歌う場所が1つずつ増えていったんです。24、5くらいの時にはもう音楽だけで食べていけるようになっていました。それにプラスして、イベントやライブハウスにも出演するようになって…」
──桑田さんとの出会いもそのバーですよね。
「そうです。2017年に初めてお会いしました。そのバーに僕もお世話になっている、桑田さんのご友人の方がよく来られていて、たまたま僕が入っている日に桑田さんが来られて。当時、歌っていない時はカウンターに立って、お客さんと喋っていたんです。桑田さんが来るというのは当日に知って…マスターが“歌う機会ないかもしれないけど、いい経験になるから、立ってなよ”と言ってくれて。だから、ずっとカウンターに立っていたんですけど、桑田さんがリラックスされたタイミングで、桑田さんのご友人の方が“今だ、歌え!”って顔をしたんです」
──あはははは。
「桑田さんが飲まれているところに、ギターを持ってきて、もうほんとうに空気を読まずに、“すいません、失礼します!”と、歌ったのがエディ・コクランの「Twenty Flight Rock」なんですけど…」
──どうしてこの曲を選んだんですか?
「歌い回しも自分に合っているし、なおかつ、ポール・マッカートニーとジョン・レノンが初めて会った時にポールがこの曲を弾いてみせたっていう、ザ・ビートルズの出会いの曲なので。音楽の歴史上ですごく接点のある曲なんです」
──桑田佳祐と田内洵也もこの曲で出会ったわけですね。
「おこがましいんですけど、“桑田さんに会ったらその曲をやる“って、桑田さんに会う可能性すらない頃から思っていたんです。実際に目の前で演奏した時は…頭は真っ白でしたけど、僕が歌っているうちに、桑田さんが少し乗り始めた時の嬉しさといったらなかったです。本当に優しかったです」
──その出会いからは8年経ってますね。
「コロナ禍でしばらく桑田さんにお会いしていない期間があったのですが、去年の秋に久しぶりにお会いして。そのときに“最近、曲書いていないの?”と聞いていただいたので、“実は桑田さんの曲にすごくインスパイアされた曲があります”と言って、「深川のアッコちゃん」を弾いたら、“いい曲じゃん。でも、もっとここのコードをこうした方がいいんじゃない?”とか、その場で言ってくださったんです。まだ具体的な話になる全然前の話なんですけど、サビのコードを桑田さんが1つ付け加えてくださって。その瞬間に僕は、“あの数々の名曲をこの人が生み出している”ということを生で知れた…みたいな。そのコード進行で作った曲を自分のアルバム『Traveling Man』に収録したたんですけど、その後にまた桑田さんとお会いした際に、“あの曲さ、もう少し俺、手直ししたいんだよな”と言ってくださって」
──リリース後の話ですよね?
「はい。桑田さんは僕のアルバムを買って聴いてくださっていたんです。“もうアルバムに収録されている曲だけどさ、もう少し手を加えたい部分ががあるんだよ”と言ってくださいました。“5月にツアーが終わるから、この曲をアレンジし直して録ってみようよ”って。予想外すぎて、最初僕は何が起きてるのか訳がわからなくなっていました…(笑)」
──あははははは。想定外の展開ですしね。
「もう現実なのかどうかわからなかったです。そしたら、本当にアミューズさんから連絡が届いて。僕からすると、“夢が現実になってきた”って感覚だったんですけど、集合場所に行ったらもっとすさまじくて! 千駄ヶ谷のビクタースタジオに桑田さんがいて、レコーディングエンジニアの谷田(茂)さんがいて、アレンジャーの片山(敦夫/Key)さんと角谷(仁宣/Mnp)さんがいて…」
──サザンの最新アルバム『THANK YOU SO MUCH』の制作チームじゃないですか!
「これ以上ないですよね。で、レコーディングした後も、リリースするかどうかも全く決まっていなかったんですけど、桑田さんから“この曲どうしたい?”という話をしていただいて。僕は“こんなに素晴らしいものを作っていただいたので、仮に埋もれてしまったら、それはもう悲しくてたまりません。僕は、絶対に世に出したいと思っております”とお伝えしたら、“わかった”と言って、そこからリリースに向けて動いてくださって…」
──桑田さんにそう言われて、どんな心境でしたか?
「去年の秋にお会いして、初めてこの曲をやったときに、最後に桑田さんが、“今度さ、何か一緒にやろうよ”とおっしゃってくれて…“そんなの絶対ないだろうな”と思うじゃないですか! それがこういう形になって。“桑田さん、本当にあの時にそういう風に思ってくださっていたんだ”ということに感動しています。僕は未だに夢の中です」
──あははは。最初のコード進行から関わってらっしゃるので、ほぼコライトですよね。
「桑田さんは最初に僕がこの曲を弾いた瞬間から、もうここまで見えていたんだと思います。だから、今回のアレンジが終わって、それを知ったときに鳥肌が立ちました。“だから、桑田さんって日本一のミュージシャンなんだ”って。作りながら直していくというよりは、きっと最初にもう絵があったんだと思います。スタンリー・キューブリックじゃないですけど、頭の中にある絵を具現化する作業をされているように、僕には見えました」
──ちなみにインスパイアされた桑田さんの曲というのは?
「3曲あるんですけど、「ラチエン通りのシスター」と「素敵なバーディー(NO NO BIRDY)」、あと、「涙のキッス」です。僕は「素敵なバーディー(NO NO BIRDY)」がサザンで一番好きな曲なんです。情景が浮かびますし、切ない感じがして。“こういう歌を作りたい”ってずっと思っていたので、それが「深川のアッコちゃん」に入っています」
──もともとはどんな成り立ちの曲だったんですか?
「20代の頃に深川の近くに住んでいたんですけど、一人で居酒屋に行くのが大好きでした。コの字のカウンターがある昔ながらの居酒屋に入ると、お客さんが全員、60代くらいの年配の男性で、60代の女性が5〜6人でやっている居酒屋だったんですけど、皆さんすごく綺麗な人達ばかり。いわゆる地元のマドンナたちにかつて惚れてたおじさんたちみんながカウンターで飲んでいるわけです。同じように歳を重ねて、みんな所帯を持っているけど、今でも初恋の人のことを忘れられない…そんな景色がすごくドラマチックで。その店の外に出ると深川なわけです。“本当に映画の世界みたいだな“って感じて、そこから歌詞を作りました」
──歌詞はアルバム『Traveling Man』収録時とは変えていますよね。言い回しを変えているところなど、細かい調整もありつつ、原曲にない部分として特筆すべきは、やはり<深川にゃ海などありゃしないさ>ですね。
「桑田さんは、基本的には僕の言葉をすごく尊重してくださって。天下の桑田さんにこんなにも気を使っていただけるなんて…という感じだったんですけど、<深川にゃ海などありゃしないさ>はもう完全に夏(桑田)先生のアイデアです」
──江戸時代は海があったらしいですけど…。
「今の永代橋くらいから海だったらしいんですけど、今は海から2〜3kmは内陸に入っています。その前の歌詞、<『不動』の鐘が優しく鳴る>の<『不動』の鐘>は、最初は<波音>でした。そこに関して桑田さんが、“深川って海ないよね”と言って…」
──波音から鐘の音に変わったんですね。
「そうなんです。“深川になにか鳴るももないの?”と言われて。深川不動は門前仲町というだけあって、大きいお寺があるんです。“でも、お寺はあるけど鐘、鳴らないんですよね“という話をしていたら、”それはもう鳴らしてしまおうよ“となって。ここからまだストーリーが続くんですけど、曲の中で鐘を鳴らした後に深川不動について調べてみると、深川不動には平和の鐘という鐘が保存されていたんです。深川一帯は東京大空襲で一番爆撃が激しかったところで、B -29が投下した爆弾の金属片を集めて作った、平和の鐘という慰霊の鐘が」
──おおー。
「たまにイベントで鳴らすらしいですけど、この歌詞の舞台は、僕が生まれる前の昭和30年代とか40年代をイメージして作っていて。戦争が終わって、平和が訪れて、若者が自由に恋愛ができる時代になった時に、空襲でかつて落とされた爆弾で作った平和の鐘が鳴る。それって、とてもいいストーリーになったと思いました。桑田さんにも“鳴っていなかったけど、平和の鐘というのがあった”という経緯をお伝えしたらすごく興味津々で聞いてくださっていて。そういうところも含めて“桑田さんって超越している”っていうか…」
──その話まで見えてたんじゃないか?っていう気すらしてきますね(笑)。アレンジ、歌詞だけでなく、歌い方も変えていますよね。
「桑田さんからレコーディングの時に直接、歌唱指導をしていただいたので。それもまたすごくいい経験でした。本当に一文字一文字ディレクションが入るくらい細かくやっていただきました。僕からすると、『九段下フォーク・フェスティバル’25』のオープニングアクトとして日本武道館のステージに立ったのと同じぐらい緊張しました。もう信じられなかったです」
──これまでやってきたことどんな違いを感じましたか?
「“同じ音楽じゃないくらい違う!”という衝撃を受けました。歌だけではなくて、レコーディングも、ライブのリハーサルも、今まで自分の見てきた世界からまたもう1つ違う人生が始まった…みたいな感じです。音楽人生が本当に違うチャプターにジャンプしたような感覚です。僕の勝手な解釈なんですが、自分の想像以上に、“桑田さんってすごくリスナーのことを考えられている人だな“と思って。今回の音源のこだわりに関しても、何百回何千回と聴いても飽きないように作ってくださっているんです。ボーカルは如実にそれが反映されていて、一番と二番との違いも明確で、できる限りきちんと言葉が通じるように歌っています。一回聴いて、”今、なんて歌ってたんだろう?“というのがないように、言葉を大切にして歌う。そこが一番違うんだと思います」
──完成してみてご自身ではどんな感想を抱きましたか?
「もともとは昭和歌謡チックになるのかな?と思っていました。でも、桑田さんがつけてくださった伴奏は、どちらかというと同じ昭和30〜40年代のアメリカにあったペットサウンズ…ビーチボーイズやドーワップが入っていて。それを片山さんと一緒に和風テイストで仕上げてくださいました。同じ時代背景で、ちゃんと日本っぽさを濃く残していることにすごく感動しました。今でも毎日何回も聴いています。ほんとうに幸せです」
──先ほどあった日本武道館にオープニングアクトとして出演された感想も聞いてもいいですか?
「本当に緊張しました。本番前にカーテンの後ろで、“今から歌うのか…”と思っていたら、7人くらいの方々が歩いてくるのが見えて。舞台裏が暗いので、青白いライトでシルエットだけ近づいてくるんです。よく見ると斎藤誠さんや片山さん、桑田さん達でした。僕はガチガチに緊張していたんですが、皆さんが“大丈夫、大丈夫、いつも通りやればいいから”と言ってくださって、一人ずつ握手してくださって。最高の先輩方に励まされて、ステージに出ていきました。本番は集中していたので、あまり覚えていないんですけど、終わって舞台の裏に戻ると、桑田さんが待ってくださっていて、“よかったよ!”と握手してくださいました。最高に嬉しかったです。自分の出番が終わってから舞台袖から見させていただいたんですけど、本当に先輩方の完璧な演奏で…“弟子にしてください!”って気持ちになりました」
──新たな音楽人生が始まって、これからというのはどう考えていますか?
「“アコースティック系のカントリーやブルースをルーツとした日本語の音楽をやりたい“という気持ちはそのままに、今まではパーソナルな曲が多かったんですけど、もっと出会ったことがない、顔が見えない方の人生の場面場面に寄り添えるような曲を書いていきたいです。それが一番の目標です。そして、再び自分のワンマンライブで日本武道館に立つこと。あと、今回、携わっていただいた片山さんをはじめ、ドラムの(川村)カースケさん、ベースの山内(薫)さんもこれ以上ないくらいカッコ良かったんです。誰もカッコつけていないのに、自然体でカッコよくて。本当に心から、”これからの人生、こういう人たちと一緒に音楽を作れたら、これ以上の幸せないことはない”ということを感じたので、いつかまた401スタジオに戻って、あんなにも素晴らしい人たちと一緒に自分のアルバムを作れるようになりたいです」
(おわり)
取材・文/永堀アツオ
写真/本人提供
ライブ写真(日本武道館)/西槇太一
RELEASE INFORMATION
2025年11⽉19⽇(水)タワーレコード限定発売
田内洵也「深川のアッコちゃん (produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE)」