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YMOがもっともバンドらしかった時代のアルバム「BGM」と「テクノデリック」の音

Re:minder

1981年03月21日 イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「BGM」発売日

YMOにおけるバンド性


以前に寄稿した記事の中で、ザ・バンドの足跡を辿りながら “バンドとは何か” ということについて考えてみました。どういうことかというと、バンドという形でミュージシャンの個性と個性が出会うと、時には “化学変化” が起きて、とてつもない音楽作品が生まれたりする。だけど長続きは難しく、すれ違ったり喧嘩をしたり、憎み合ったりすることも多い。それはやはり、人間というものが不完全かつ不安定だから。神がかってるとしか思えないような素晴らしい作品の裏側にはたいてい、様々な人間臭いドラマが展開している…

それでふと考えたのは、たとえばイエロー・マジック・オーケストラ(以下:YMO)のような、コンセプトありきでスタートしたバンドの、“バンドのあり方” ってどうなのかな?ということです。

1978年2月19日の夜、細野さんが高橋幸宏さんと坂本龍一さんを自宅に呼び《マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」を、シンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコにアレンジして、世界的ヒットをねらう。目標400万枚》という手書きのメモを見せたというのが、YMO結成時の有名なエピソードですね。

イエロー・マジック… 白魔術でも黒魔術でもない “黄魔術”、つまり黄色人種とされる日本人による “魔法のような楽しい音楽 = ちゃんこ(ごった煮)+ ファンキー = チャンキー” なディスコミュージックを、その頃登場したシーケンサーを使った機械のリズムで、“海外でヒットするもの” をつくろうという、シンプルで分かりやすいながら的を得た、立派なコンセプトだと思います。

バンドらしからぬバンド


『イエロー・マジック・オーケストラ』(1978年)と『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)という最初の2枚のアルバムは、このコンセプトに基づいてつくられました。収録された「東風」「中国女」「テクノポリス」「ライディーン」「ビハインド・ザ・マスク」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」といった曲たちは、いずれもメロディ的に素晴らしいし、ダンサブルで分かりやすい上に、当時としては斬新そのもののサウンドでした。売れないわけがないと思います。

彼らは一貫して、スタジオに入ってから曲をつくり始めるというスタイルだったそうですが、この時期は個性がぶつかり合うというよりは、明確な役割分担の下に進められました。たとえば教授は “参謀” で、アレンジをしたり譜面を書いたり 演奏したりしますが、その指示と判断は “提督”である細野さんの役目、というように。

また、まるでYMOという “音楽マシン” が演奏しているように演出したかったので、3人とも卓越した演奏家でしたが(実はこの時代、マシンに演奏させるより人がやるほうが早かったから)教授がシンセを弾くときも、教授だと分からないように、マシンになりきって弾いたそうです(とはいえ、幸宏さんじゃないとあのドラムは叩けないですけどね)。

つまり、この時期のYMOは、極めてバンドらしからぬバンドだったのです。

誤算は売れすぎたこと


で、細野さんとしては、計画が首尾よく達成できて(さすがに400万枚には届きませんでしたが)、めでたしめでたしということで、これでおしまいのつもりだったんじゃないでしょうか。1970年に結成した “はっぴいえんど” は1972年に解散、アルバムは3枚でした。“ティン・パン・アレー” は活動期間約3年、アルバムは2枚。トロピカルものは『トロピカル・ダンディ』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)の3部作。ひとつのコンセプトにつき2〜3年、アルバム2〜3枚もつくれば、もう次に行きたい人なんだと思います。松本隆さんがどこかで語っていましたが、“はっぴいえんど” がまだまだこれからって頃に、移動の列車の中で、細野さんが手帳に何かしきりに書いていたので、それは何かと訊いたら、“次のバンドの名前の案” だったとか。

だけどこの時は、周りがやめさせてくれませんでした。“はっぴいえんど” はたいして売れなかったから、解散しても誰も文句を言わなかっただけ。アルバムがミリオンセラーになったのだから、次作もその先も求められるのは当然です。それで1980年は、ライブアルバム『パブリック・プレッシャー / 公的抑圧』と、(オリジナル新曲2曲で実質シングル並の内容をカバーとコントで膨らませた)企画アルバム『増殖 - X∞ Multiplies』でなんとか乗り切りましたが、次はやはりオリジナルアルバムを、とアルファレコードから1981年3月21日の新作リリースを設定されてしまいました。それが『BGM』です。

この時点で、細野さんは相当まいってしまったようです。レコードのヒットや海外でのライブが好評だったことは嬉しかったでしょうが、外を歩くだけで騒がれたり、マスメディア向けの仕事がやたら忙しかったり、レコード会社からの期待値が爆上がりしたりなど、音楽に関係ないことを含めての環境の激変は苦痛だったと思います。それまで、こんなヒットの経験はなかったですからね。

一方、坂本 “教授” も既にやめたくてしょうがなかったそうですが、それは別の理由からでした。当時彼はクラシックや現代音楽を自身の本業と考えており、ポップスの仕事は言わばアルバイト感覚、YMOも、彼にとっての初めてのバンド加入だったとはいえ、“細野さんに頼まれたから手伝った” 程度の意識だったと思います。音楽以外のことであれこれ拘束されるのは、さぞ不本意だったでしょう。結局、アルファレコードが “ソロアルバム『B-2ユニット』の制作費を出す” という条件を提示して、なんとか脱退を思いとどまらせたのです。

「BGM」で芽生えたバンドの力


ともかく、次のアルバムをつくらねばなりません。どうしよう… 並の人なら、“二番煎じ” な作品をつくって、本人もリスナーも新鮮味を感じないながら、しばらくは余韻で売れつつ、やがてフェイドアウトしていく、なんてパターンを踏みがちですが、細野さんは並ではない。同じ路線を繰り返すのは飽きたし、やりたくない。むしろ逆方向へ進もう。

“コンセプトに沿ったポップ路線” がそれまでの方向なら、逆は “売れることを意識しない、本当にやりたいこと” と考えました。これからつくるアルバムに、既に予約が25万枚入っていたので、何をやっても怖くないという、滅多にない状況も背中を押してくれました。で、やりたいこと、それは “音響重視の音楽” でした。メロディや和声より、刺激的な音色やビートを重視した音楽。

実は、教授も幸宏さんも “音響派” でした。それを知ってバンドを組んだわけじゃないのに、こういうところもYMOの奇跡的なことのひとつです。そして、YMOの音楽は楽器の進化と密接に関連していました。そもそも、シーケンサーというものが登場したことから、結成のコンセプトが生まれました。そしてこの方向転換の時、これまたタイミングよく、ローランドのリズムマシン『TR-808』が発売され、『Prophet-5』というシンセサイザーがありました。『Prophet-5』は1978年の発売ですが、この頃、ノイズ系の音色を出すのに、これ以上の楽器はないということが分かってきたのです。

『BGM』というタイトルは、ある海外のメディアから “YMOはBGMだ” と批判されたことがきっかけです。“BGM” は和製英語で、ほんとは “ミューザック”(muzak)と言われたのですが、ならばメロディも捨てて、バックグラウンドに徹してみようと考えたのです。

で、細野さんにとって、具体的なお手本になったのが、教授のソロアルバム『B-2ユニット』(1980年)でした。特に収録曲「Riot in Lagos」は、YMOの第2回ワールドツアーのオープニング曲にしたくらい、細野さんも幸宏さんも大好きな曲でした。ただ、教授は『B-2ユニット』をYMOではできない音としてつくったつもりなので、作品を褒められることはうれしいけれど、複雑な気持ちでした。YMOへの残留を決めたことで、逆に改めてYMOの一員としての自覚が強くなったそうですが、教授が考えていたYMOの方向性はそうではなかった。教授はポップ路線を続けるべきだと考えていたようです。そして、そんなズレから、細野さんへの反発心が膨らんでいったようです。

教授は『BGM』に3曲しか出しておらず、しかもそのうちの「千のナイフ」はセルフカバーだし、「HAPPY END」は完成形があったのに(1ヶ月後の自身のソロシングル「Front Line」のB面に収録)、メロディとリズムを取り払って、ボヨボヨしたシンセ音だけが4分30秒も続く退屈なものになっています。ともかく、教授はスタジオでも、なるべく細野さんとは一緒にいないようにしていたほど、険悪ムードだったそうですが、細野さんは別に敵対していたわけではありません。教授が反抗期の子供みたいな感じだったのかなと思います。体調がよくなかったのかもしれませんね。

細野さんと幸宏さんはスタジオで「CUE」をつくりました。どちらか1人ではできなかった、初めて本当の意味で共作した曲だそうです。そう、ここへ来て、ようやくバンドらしさが出てきたようです。教授の反発もそれはそれでバンドにはよくあること。何かの気づきにつながったり、コヤシになったりするのです。

YMOがもっともバンドらしかった頃


進むべき方向がハッキリと見え、細野さんは閉塞感から開放されたようで、『BGM』の発売日に、次作のレコーディングを開始したそうです。ただしスケジュールの関係で半年かかったのですが、同じ1981年の11月21日にアルバム『テクノデリック』がリリースされました。

その半年の間に、教授も吹っ切れたようです。細野さんとの人間関係も回復し、打って変わって積極的に制作に向き合いました。韓国旅行へ行ってから心身が元気になったと言われますが、サンプラーの登場が大きいと思います。

商品としてのサンプラーはまだ『フェアライトCMI』という1,200万円もするシンセサイザーに付属したものくらいしかなかった時代で、まだ “サンプラー” という言葉もなかったそうです。そんな時期に、フェアライトより高性能なサンプリングマシーン『LMD-649』をYMO第4の男、松武秀樹さんが東芝EMIのエンジニアらと開発したのです。どんな音でも(長さは1.2秒まで)デジタル化して、コンピュータで駆動できるこのマシーンにYMOの3人は驚喜して、『テクノデリック』を世界初の本格的サンプリングサウンド作品に仕上げました。またしても、新しい楽器がYMOを次のステップに牽引したのです。“サンプラーがなければYMOはもっと早く解散していた” と細野さんは語っています。

『テクノデリック』はYMOがもっともバンドらしかった、つまりバンドの力が発揮された作品だと言えます。ただ売上的には、『BGM』が『SOLID STATE SURVIVER』の約4分の1、『テクノデリック』は10分の1程度に落ちてしまいました。分かりやすくキャッチーなメロディを望んでいた多くのリスナーは離れていったのだと思います。そこで、約1年間のブランクを経て、今度は再び、ポップ職人に戻り、「君に、胸キュン。」(1983年)を大ヒットさせ “散解" に向けての “終活” に入っていくことになります。

音楽作品ということでは、私も最初の2アルバムの各曲は優れていると思いますし、やはりYMOと言えばあの曲たちなんですが、今聴き返すと、音的にはやや古いと感じます。一方、『BGM』『テクノデリック』はこれというメロディこそないけれど、とても44年前の作品とは思えません。音的にはまったく古くない。これからも古くならないんじゃないですかね。特にアナログレコードで聴く『BGM』は、スネアの音などほんとに気持ちよいです。

細野さんと幸宏さんがいちばん好きなYMOのアルバムは『BGM』で、教授がいちばん好きなのは『テクノデリック』だそうです。そして、ファンの中にもこの2作がベスト&セカンドベストという人が増えているそうです。

参考文献:田中雄二『シン・YMO』(DU BOOKS)

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