【伊達家の謎】美しく聡明だった五郎八姫が再婚しなかった衝撃の理由とは?
日本の歴史に名を残す人物には難読な名前を持つ者が多数いるが、「五郎八姫」もその中の1人と言って良いだろう。
五郎八姫とは初代仙台藩主・伊達政宗とその正室の間に生まれた長女で、「五郎八(いろは)」という名は、父である政宗が直々に命名したものだ。
政宗と、その正室である愛姫(めごひめ)の間には、結婚してから10年以上経っても子供ができなかった。五郎八姫は政宗夫妻の結婚15年目にして生まれた待望の嫡出子だった。
奥州に華々しく君臨した名将・伊達政宗の娘として生まれ、大変美しく聡明であったと評される五郎八姫だが、ただ蝶よ花よと愛されながら過ごしたわけではない。
特に彼女の前半生は、他の戦国武将の娘たちと同様に、有力大名らの政治的謀略に翻弄され続けた日々だった。
今回は、そんな五郎八姫の波乱万丈な生涯と、あるミステリーについて探っていきたい。
京都の聚楽第で誕生
五郎八姫は1594年の旧暦6月16日に、京都聚楽第にあった伊達屋敷で生まれた。
五郎八姫の母である伊達政宗正室の愛姫(めごひめ)は、陸奥国の舞鶴城主(三春城)田村清顕(たむら きよあき)と、その正室である於北(おきた)の一人娘で、数え年12歳の時に1つ年上の政宗と結婚したが、2人の間にしばらく子供は生まれなかった。
それというのも、愛姫が政宗のもとに嫁いで間もなく、愛姫の乳母が政宗暗殺未遂事件への関与を疑われて殺害され、他の多くの愛姫付きの侍女たちも処刑されてしまうという事件が起きた。このことで一時的に、政宗と愛姫の夫婦仲が悪くなったという経緯がある。
その後、愛姫と政宗の関係は徐々に修復へと向かったが、奥州仕置で政宗が豊臣秀吉に恭順したことにより、愛姫は人質の意味をもって、京都の聚楽第内に建てられた伊達屋敷での生活を送るようになった。
愛姫が五郎八姫を生んだのは、聚楽第に移ってから4年後の27歳の時であった。
政宗は既に側室との間に息子(伊達秀宗)をもうけていたが、嫡男の誕生を強く望んでいたため愛姫の懐妊を喜び、生まれてくる子供は男子であると信じて疑わずに「五郎八(ごろはち)」という名前を考えて、無事の誕生を心待ちにしていた。
しかし愛姫が生んだのは、玉のように愛らしい女児だった。
政宗は「次こそ男子が生まれてくるように」という願いを込めて、生まれてきた娘に「五郎八(いろは)」と名付けたのである。
5歳の時に徳川家康の六男・忠輝と婚約、12歳で結婚
五郎八姫誕生の翌年の1595年7月、第2代関白となり聚楽第を邸宅としていた豊臣秀次が、秀吉に謀反の疑いをかけられて「豊臣秀次切腹事件」が起きた。
これにより聚楽第は破却され、幼い五郎八姫と母・愛姫は、京都伏見や大坂を転々としながら暮らすことになる。
そして秀吉が没した翌年の1599年、天下を取るために動き出した徳川家康から政宗に対して、家康の庶子であり六男である辰千代(後の松平忠輝)と、五郎八姫の縁談が持ち掛けられた。この時、五郎八姫は5歳、辰千代は7歳だった。
いくら家康の血を引いてるとはいえ、辰千代は当時石高3万5000石の皆川城主・皆川広照(みながわ ひろてる)に預けられた身であり、政宗は当初この縁談に対して難色を示していたといわれる。
しかし、庶民出身で家康の側室の中でも特に身分の低い母から生まれ、実父の家康から「鬼っ子」と呼ばれ忌み嫌われていた辰千代に何か感じるものがあったのか、政宗は家康の提案を受け入れた。
こうして五郎八姫と辰千代は、お互い幼くして婚約を果たした。
この婚約は秀吉の遺言に反するものであり、関ヶ原の戦いが起きた要因の1つでもあるといわれている。
辰千代が元服して「忠輝」と名乗るようになった翌年の1903年に、五郎八姫は伏見から江戸に移り、その3年後の1606年12月24日に忠輝と正式に結婚した。この時、五郎八姫は12歳、忠輝は14歳だった。
政宗は嫁入り直前の五郎八姫を一度仙台城に呼び寄せた。そして盂蘭盆の夜には仙台中の町屋や武家屋敷に灯篭を吊るさせて、その光景を仙台城の懸造から五郎八姫に見せたという。『伊達政宗記録事蹟考記』
一部の資料においては「粗暴で醜い容貌をしていた」と伝わる忠輝だが、聡明で武芸に秀でた人物で、政略結婚ではあったが五郎八姫との夫婦仲はとても良好だった。
しかし2人の間には、子供はいなかったと伝えられている。
そして結婚から10年後の1616年、忠輝は兄である徳川秀忠の命により改易、流刑となり、2人は離縁することとなってしまった。
忠輝と離縁後は、仙台に定住
忠輝と離縁した後、五郎八姫は父である政宗が治める仙台に帰り、以後は仙台城の本丸西館で暮らした。
京都で生まれ育った五郎八姫は、仙台入った当初は東北の言葉や暮らしになかなか慣れず、苦労したといわれる。
聡明で美しい女性に育った五郎八姫は、政宗に「五郎八姫が男子であれば、家督を継ぐに十分な器量があったのに」と嘆かれた。同母弟であり2代目仙台藩主となった伊達忠宗も、優れた知見を持つ五郎八姫を頼りにしていたという。
政宗は若くして離縁した五郎八姫に度々再婚を勧めたが、五郎八姫は断固としてそれを受け入れず、忠輝との離縁後は生涯独身を通した。
この五郎八姫の再婚を拒む頑なな態度は、後述する彼女の信仰が理由であったともいわれる。
母である愛姫が1653年に死去した後、1958年に五郎八姫は出家して「天鱗院」と号し、1661年にその生涯を終えた。
五郎八姫はキリシタンだった?仙台に伝わる奇祭との関り
晩年は出家して尼僧として過ごした五郎八姫だが、彼女は「キリシタン」だったのではないかという説がある。
その理由の1つとして挙げられるのが、五郎八姫の実母である愛姫の影響だ。
愛姫は聚楽第で過ごしていた時期に、親交を持っていたといわれる細川忠興の正室・細川たまの影響を受けて、一時期キリスト教を信仰していたという話が伝わっている。
細川たまは明智光秀の娘であり、洗礼名に由来した細川ガラシャの通称でよく知られる人物である。
そのため、愛姫の娘である五郎八姫が、キリスト教の洗礼を受けていた可能性があるという。
しかし、当時は秀吉による「伴天連追放令」が発令されていたため、愛姫や五郎八姫がキリスト教を信仰していたという明確な記録は残されていない。
もう1つの理由として、五郎八姫が暮らした仙台城本丸西館の北にある、栗生地域に現存する「鬼子母神堂」と「薬師堂」の存在がある。
この栗生の鬼子母神堂では、毎年旧暦8月15日の夜に「オッツ祭り」という祭祀が行われる。「オッツ」とは仙台地方で「唖(おし)」、つまり「言葉を発することができない人」を指す言葉だ。
オッツ祭りでは、祭りに参加する家の当主が袴姿で、重箱に初穂を炊き込んだ赤飯や尾頭付きの魚などを詰めた膳を、12膳の茅の箸やロウソクなどと共に供物として鬼子母神堂に供えに行く。堂に行く道中は人に会ってはならず、膳を供えに行く当主もその帰りを待つ家族も言葉を発してはならないため、「オッツ(唖)神」の祭りとして伝えられてきたのだという。
参照:仙台市図書館 本の道案内 P25 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/274 )
栗生の鬼子母神木像は、鬼ではなく人の姿をしており、片手に子を抱きもう片方の手にはザクロの実を携えている。ザクロを手にした鬼子母神像は珍しいものではないが、ザクロはキリスト教においてはキリストの受難を象徴する果実だ。
オッツ祭りが、聖母マリアの被昇天日である8月15日に人目を避けて密やかに行われること、すぐ近くにある薬師堂には「ローソク喰い」と呼ばれる下あご部分に十字架が刻まれた木像があること、この薬師堂は五郎八姫が住民たちのために建立したものであることから、隠れキリシタンたちが栗生の鬼子母神を「聖母マリア」に、ローソク喰いを「キリスト」に見立てて信仰していた可能性があり、「五郎八姫も隠れキリシタンだったのではないのか」という説があるのだ。
伊達政宗も元々キリスト教に寛容で、ヨーロッパとの交易も検討しており、1613年には家臣の支倉常長(はせくら つねなが)を副使として、慶長遣欧使節をスペイン国王やローマ教皇のもとへ派遣している。
当初は支倉ではなく、西洋医学や外国語に造詣が深かった娘婿・忠輝を、スペインに派遣するつもりであったともされる。
五郎八姫がもし、離婚が認められないカトリックを信仰するキリシタンであったのなら、離縁後すぐに落飾したわけでもないのに政宗の勧めを頑として断り続け、再婚せずに独身を貫き通したことにも合点がいく。
本当は、忠輝との子を生んでいた?
五郎八姫には隠れキリシタン説の他にも、「実は忠輝との子を懐妊していて、離縁後に母と暮らしていた江戸屋敷で男児を出産していた」という説がある。
この説において五郎八姫の子、つまりは忠輝の嫡男だったと考えられる人物が、伊達忠宗が建立した五郎八姫の菩提寺である、松島天鱗院の二世住職・黄河幽清和尚である。
出産から数年後、五郎八姫は仙台に呼び寄せられ、子供は徳川家にはばかって寺へと預けられたという。
一説にはその子供こそが、黄河幽清だとされている。
そして、子が預けられた寺は、政宗の弟といわれる秀雄(伊達政道説がある)が、第15世住職を務めた大悲願寺(東京都あきる野市)ともいわれている。
政宗は、五郎八姫が忠輝と離縁してから7年後の1623年頃に大悲願寺を訪れて、その後に「白萩文書」と呼ばれる手紙を秀雄に宛てて送っている。
黄河幽清の出生については『伊達氏譜系』や『仙台人名大辞書』に記述がある。
五郎八姫が本当に男児を生んでいたとすれば、実の父が改易され流罪となった身の上で、安らかに暮らすことはできなかっただろう。政宗が愛娘が生んだ孫の身を案じて、弟がいる大悲願寺に預けたという可能性は無きにしも非ずだ。
表向きの記録では、五郎八姫と忠輝との間に子供は生まれなかったことになっていて、五郎八姫がキリシタンであったという記述もない。
しかし、当時の時代背景を鑑みれば、それらの事柄がもし事実だったとしても、五郎八姫に安寧な生活を送らせるためには決して公にしてはならないことだったはずだ。
歴史上事実とされていることが、すべて真実とは限らない。妻・愛姫に似た聡明で美しい娘を父として溺愛した政宗が、守り通した五郎八姫にまつわるミステリアスなエピソードは、今後も人々の好奇心をかき立て続けるだろう。
参考 :
若城 希伊子 (著)『政宗の娘』
伊達 泰宗 (著), 白石 宗靖 (著)『伊達家の秘話』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部