人生の皮肉を斜めから見つめる──ソコロワ山下聖美さんと読む、有吉佐和子『青い壺』【NHK100分de名著】
心理描写から展開まで、すべてがケタ外れに面白い! 有吉佐和子『青い壺』を、ソコロワ山下聖美さんが解説
2024年12月のNHK『100分de名著』では、昭和を代表する女性作家・有吉佐和子の特集として、彼女の『華岡青洲の妻』『恍惚の人』『青い壺』の3作品を、日本大学芸術学部教授・ソコロワ山下聖美さんが紹介します。
家族とは、老いとは、そして人の幸せとは──。幅広いテーマに関心を寄せ、文壇的評価とは無縁でありながら、圧倒的人気を博した有吉佐和子とその作品の魅力に迫る番組テキストより、それぞれの作品へのイントロダクションを公開します。
第3回は、1970年代当時の市井の人々の生活を通して「普通の幸せ」を描いた『青い壺』についてです。
(全3回中の第3回)
流浪する壺と「普通の幸せ」
最後に紹介する『青い壺』は、一九七六年から翌七七年にかけて雑誌「文藝春秋」に連載された連作短編集です。収められた十三の物語を通して登場するのが、タイトルにもなっている「青い壺」です。この壺がさまざまな人のもとをめぐっていくことで、独立したそれぞれの物語が有機的に結び付いていく、見事な構成力の作品です。
この作品で描かれるのは、一九七〇年代当時の市井の人々の生活です。どんなふうに働いているのか? どんなものを食べているのか? 何に幸せを見出しているのか? さまざまな立場の、さまざまな人間たちの日々の暮らしぶりを、読者はまるで空っぽの壺の内側から覗き見しているような気持ちになりながら追いかけていくことになります。
ここからは、いくつかの物語を抜粋して紹介します。青い壺の一連の旅の端緒となる第一話では、この壺の誕生と、その作者である陶芸家が経験するささやかな幸せの時間、そして皮肉な運命が描かれます。
父の跡を継いで陶芸家の道を歩んでいた牧田省造(まきたしょうぞう)は、死んだ父親の名声に対する反発から、作家として派手に名を売ることは極力避け、地道に製作を続けていました。二人いる子どもが小学校に通うようになってからは、余裕ができた妻に手伝ってもらえたので、弟子は取らずとも十分に仕事を回していけるようになっていました。
その日、省造は庭で、薬品を用いて焼き物に古色(こしょく)を付ける仕事の真っ最中でした。いわば、新しい器にヴィンテージ加工を施しているのです。風合いを出し、あたかも年代物のような外見にするこの作業を、彼は人に請われて時々引き受けているのでした。
続いて省造は、いつもより少し緊張しながら窯に向かいます。窯の中にはデパートの注文を受けて作った型物の壺八十点が焼き上がっているのですが、その日はそれとは別に、久々に丹精を凝らして製作した一点ものの壺が三点、入っていたからです。彼はその三点のなかから、中央にある円筒型の壺を抱き上げます。青の発色が見事な、美しい作品がそこにはありました。思わず台所にいた妻を呼んで見せると、彼女も太鼓判を押してくれます。作品の出来に大いに満足した彼は、妻の淹れてくれたお茶で一休みすることにします。
子供用の駄菓子を盆にのせて、明るい日射しを浴びた縁側で、夫婦は緑茶を啜った。
「ええ茶ァやな」
「その筈やし、玉露やもん」
「おいおい、玉露をふだんに使うてるんか」
「吝(けち)なこと言いな、お父ちゃん。あんな上等の壺が上ったときぐらい、贅沢なお茶飲みましょうな」
「そらそうやな」
ここで描かれているのは、人が生きているなかで実感する、いわゆる「普通の幸せ」です。「今日はいい仕事をした」「いいものが作れた」という確かな手応えと、そのことを祝うために飲むちょっといいお茶。お茶請けは駄菓子でも、高級なお菓子にも負けない味に感じられたのではないでしょうか。『青い壺』には、このようなふとした幸せがさまざまな場面で描かれているのが大きな特徴で、私はそのことに非常に心を奪われました。贅沢なものでなくていいのです。私たちは、こうしたささやかだけれども心が温かくなるような幸せを時々感じることで、生きていられる──そんな素朴な共感を呼ぶ情景が、ここにはあります。
しかし人生には、よいこともあれば、そうでないこともあるものです。ある人物の登場が、省造の幸せな時間に水を差すことになります。
NHK「100分de名著」テキストでは、「誰も責めない愛のあるまなざし」「過去の幸福な時間をめぐって」といった内容で、『青い壺』が問い直す「幸せの価値観」について考えていきます。テキストでは『青い壺』、嫁姑の心理戦を描く『華岡青洲の妻』、老いをテーマにした『恍惚の人』に加え、「もう一冊の名著」コーナーで『女二人のニューギニア』を紹介し、希代のストーリーテラー・有吉佐和子の作品の魅力に迫ります。
講師
ソコロワ山下聖美(そころわやました・きよみ)
日本大学芸術学部教授
一九七二年埼玉県生まれ。文芸研究家。日本女子大学文学部を卒業後、日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。二〇一五年より現職。専門は宮沢賢治や、林芙美子など女性作家を中心とした日本近現代文学、日露文化交流を中心とした異文化交流。著書に『女脳文学特講』(三省堂)、『林芙美子とインドネシア 作品と研究』(編著、鳥影社)、『新書で入門 宮沢賢治のちから』(新潮新書)、『わたしの宮沢賢治 豊穣の人』(ソレイユ出版)、『別冊NHK100分de名著 集中講義 宮沢賢治 ほんとうの幸いを生きる』(NHK出版)などがある。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 「有吉佐和子スペシャル」2024年12月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における有吉佐和子の著作からの引用は、以下の書籍に拠ります。第1回:『華岡青洲の妻』(新潮文庫、1970 年、2010 年改版)、第2 回・第3 回:『恍惚の人』(新潮文庫、1982年、2003年改版)、第4回:『青い壺』(文春文庫、2011年)
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