『江戸の吉原』梅毒にかかった遊女のほうが給料が高かった…その驚きの理由とは?
江戸時代は、まともな避妊法・予防法・治療法もなかったため、梅毒を中心とした性病に感染する確率は非常に高い状況でした。
吉原で働く遊女は「格」に関係なく、連日のように不特定多数の男性と関係をもつ職業だったため、当時は「すべての遊女が初年のうちに梅毒を患う」と言われていたほどです。
梅毒に感染すると、赤い発疹ができたり髪が抜けたり、症状が進むと鼻や顔が崩れ、最終的には死に至るほど恐ろしい病気でした。
けれども、「梅毒を患った遊女」は歓迎され、給料も高待遇だったとか。
今回は、そんな吉原の梅毒事情を探ってみました。
江戸後期「遊廓の娼妓の3割が梅毒」という記録が
梅毒の起源については諸説ありますが、有力なのは2つの説です。
1つは、大航海時代の探検家で航海者のクリストファー・コロンブスと乗組員が、アメリカからヨーロッパにもたらした説。
もう1つは、もともとヨーロッパにあったが発見されていなかったという説です。
日本で初めて梅毒が発見されたのは、永正9年(1512)のこと。
享和2年(1802)の浅井南皐(あざいなんこう)の『黴瘡約言』には「遊廓の娼妓の3割が梅毒」と記載があります。
8年後の文化7年(1810年)、杉田玄白『形影夜話』によると「患者1000人のうち700人〜800人が梅毒」と記載されていたそうです。
NHK大河ドラマ「べらぼう」の第3回「千客万来『一目千本』」では、場末の河岸見世にある「二文字屋」で、身体の随所に赤い発疹ができている遊女たちが、狭い部屋に何人もこもっている様子が映し出されていました。
これは梅毒だったのではと推測されています。
場末の女郎屋は、年季が明けても行き場がない・歳をとり客がつかない・病気になったなどで、今までの妓楼などにいられなくなった女性が集まる最下層の店でした。
そこで働く、河岸女郎や局女郎たちは、時間制の切り売りで料金は約100文が相場だったそうです。
「そば1杯が16文」の時代、安い賃金でいろいろな客と関係していたので、性病に罹患するリスクが高かったのです。
また、路上で客引きをする夜鷹も、梅毒の症状が進行して末期状態になり、鼻や耳がそげ落ちてしまった人も多かったとか。
『はな(鼻)散る里は吉田鮫ヶ橋』『材木の間に落とす鼻柱』などという川柳も残っているほどです。
夜鷹は梅毒を蔓延させる元凶として、浮世草子の『俗枕草紙』には「鮫ヶ橋、総じて関東夜鷹の根元、瘡毒の本寺は是や此の里になん侍る」などと記されています。
客に移された遊女がほかの客に移し……感染拡大
江戸時代、梅毒に効き目のある治療法はなかったので、遊女に限らず患者は神仏に祈ったり漢方などの代替療法などで一時的に凌いでいました。
「笠森が瘡守(かさもり)に通じる」というので、谷中にある笠森稲荷には多くの瘡毒(そうどく=梅毒)患者が詰めかけたと言われています。
江戸時代後期の文政6年(1823)に、出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは、著書『江戸参府紀行』のなかで「梅毒は日本で深く根を下ろした病気」と述べ、医者として憂慮を示しています。
初期段階が一時的に治ることから誤解が広がる
ところが、そんなシーボルトの憂慮もよそに、梅毒の感染状況はどんどん広がっていきました。
その原因には、当時の人々の知識不足と勘違いがあったのです。
梅毒の初期症状として、局部や口唇などに硬いしこりができたり、髪が抜けたりすることがありましたが、これらの症状は数週間で消えることも多く、実際には潜伏期間に入ったに過ぎませんでした。
そこから3ヶ月〜3年ほど経つと、第二期症状として皮膚に発疹やできものなどの異常が現れます。
それを放置すると、発疹や炎症、腫瘍が全身に広がるだけでなく、骨や内臓、筋肉にも影響を及ぼし、全身の臓器や神経が侵され、最終的には命に関わる危険性がありました。
ところが、当時は初期段階が過ぎて表面の症状がおさまると「治った」と考え、なぜか「いったん治ればもう2度とかからない」という誤解が広まってしまったのです。
梅毒にかかった遊女は初期段階で髪が抜けることから、鷹が夏の終わりに脱毛し冬毛に生え変わる様子になぞらえ、「鳥屋につく」と呼ばれていました。
鳥屋から回復した遊女は初期症状が一旦落ち着いただけなのに「2度と梅毒にかからない1人前の遊女」として、歓迎されることになってしまったのです。
「jin-仁-」というドラマでは、その場面が描かれています。
医師である仁は、梅毒を防ごうと楼閣で「梅毒検査」を提案するのですが、遊女たちに「あちきはとっくに鳥屋についてる」と反発されます。
「鳥屋につけば、もう病気にかからないし孕まない」という花魁を「それは誤解です」と説得する仁ですが、「知っとうす!」と強く遮られます。
彼女たちは、梅毒にかかれば治ることなく、やがて死に至ることをすでに理解していたのでした。
「余計な検査で仕事から外されてはおまんまの食い上げ。身体を売らずにどうやって女郎に生きていけと?」と返す花魁に、仁は返す言葉もなかったのです。
宝永8年の浮世草子『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』によると、
「すべて勤めをする女、鳥屋をせざる中(うち)は、本式の遊女とせず。いずくの色商売する方に抱ゆるにも給金安し。鳥屋を仕舞(しも)うたる女は本式の遊女とて、給金高く出し、召し抱えて重宝しぬ。」
とあります。
つまり「梅毒になった遊女のほうが、本格的な遊女として給料も高く設定されて重宝された」ということ。
こうして潜伏期間中の遊女は商売に復帰し、どんどん客を取っていったのです。
吉原の大門を晴れて出られる病人は、百人に一人
このような誤解が梅毒の感染拡大を招きました。
文化13年の『世事見聞録』によると、病状が悪化すると仕事ができなくなるだけでなく、看病も受けられず、自らの顔や身体が崩れ始めても治療の手段がなく、絶望して命を絶つ遊女も少なくなかったといいます。
人気のある花魁の中には楼主の別荘で療養できる者もいたそうですが、そのような幸運に恵まれる遊女はごくわずか。
「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったほどです。
位の低い遊女や、すでに回復の見込みが低い遊女は、妓楼内の一室に押し込められ、看病もされず食事も満足に与えられなかったそうです。
「べらぼう」の第3回でも、病でなくなった遊女が「投げ込み寺」に打ち捨てられる場面が描かれていました。
「投げ込み寺」として知られていた荒川区浄閑寺の過去帳には、この寺に遺体として運ばれた遊女の享年の平均は22.7歳だった、と記されています。
おわりに
煌びやかな衣装、通りを彩るぼんぼり、美しい花魁など、一見煌めいて見える吉原。
けれども、無事に年季明けを迎えたり、金持ちに身請けされて吉原の大門を出れた遊女はかなり少なかったのです。
梅毒にかかっても治療法もなければ医師にも診てもらえない。病が判明すれば商売ができず、若くして命を落としていく遊女のほうが多かった…
華やかに見える吉原の裏側で、多くの遊女が過酷な運命をたどったという事実は、今も語り継がれるべきものかもしれません。
参考:
「梅毒の故きを温ねて新しきを知る」(国立国際医療研究センター病院 国際感染症センター)
『図説 吉原事典』永井義男
『江戸・東京色街入門』八木澤高明
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部