「信長・秀吉・光秀も翻弄?」戦国の幻術師・果心居士の摩訶不思議な伝説
戦国時代の日本には、今なお真偽の定かでない奇妙な逸話が少なからず伝えられている。
その中でも知られるのが、果心居士(かしんこじ)と呼ばれる幻術師をめぐる逸話である。
別名・七宝行者とも呼ばれているが、その正体ははっきりわかっておらず、ただ大まかな出自と摩訶不思議な幻術にまつわる逸話が書物に残されているのみである。
果心居士は、在りし日の織田信長や豊臣秀吉など、名だたる戦国武将の面前で幻術を見せたことがあるという。
正体は忍者だったという説もあるが、どこの誰に仕えていたのかも定かではない。
今回は、謎多き戦国時代の幻術師、果心居士にまつわる奇妙な逸話に触れていこう。
謎に包まれた果心居士の出自
安土桃山時代末期に記された世間話集『義残後覚』では、果心居士は筑後(現・福岡県南部)出身の人物で、奈良(当時は大和)の興福寺に僧籍を置いていたが、異教の幻術を得意としたために興福寺から破門されたと記されている。
果心居士は興福寺の猿沢池にて、群衆を集めてから手に持っていた笹の葉を池に投げ入れた。
そして水面を手で軽くたたくと、さざ波が大きな波と変わって浮いた笹の葉が鯉となり、優雅に泳ぎ出したのだという。
ちなみに果心居士の「居士(こじ)」とは、在家のまま仏道の修行をする男子のことである。
居士を名乗る者は仏教世界において、僧侶に準ずる、もしくは僧侶に匹敵する知識や力量を持つ人物とされている。
戦国時代を生きた著名な人物の例でいうなら、茶人の千利休が豊臣秀吉に仕えていた時期に、参内するにあたり正親町天皇より居士の号を賜っている。
果心居士は興福寺に破門されてからは、見事な地獄絵を携えて群衆に説法を行い、布施を募りながら上方を放浪するようになったという。
松長久秀を幻術で怯えさせる
一説には果心居士は、奈良の戦国大名・松永久秀と面会し、親交を持っていたと伝わっている。
久秀は興福寺で偶然、果心居士の幻術を目の当たりにし、やがて居城の多聞城にたびたび招いては言葉を交わしたという。
摩訶不思議な幻術を国盗りに役立てようと目論んだ、梟雄・久秀らしい企てがあったとも推測されている。
ある日、久秀は果心居士に対して「幾度も修羅場を潜り抜けてきた自分を、恐怖に震えさせることができるか」と挑発する。
果心居士は当初、これを固辞したが、久秀が執拗に迫ったため、ついに要求を受け入れた。
薄暗くなりつつある夕暮れ時の多聞城。
久秀の目の前から果心居士がにわかに消えたと思うと、辺りが突然暗くなり、襖越しの廊下に1人の女の影が現れた。
その女は襖を開けて、ゆっくりと久秀のもとに近付いてくる。
よくよく顔を見てみれば、その女は久秀の亡き正室だった。
「今宵は、他の女の所へ行かれますか…?」
女の口から発せられたか細いつぶやき声に久秀は震え上がり、もう止めろと訴えた。
すると亡き妻の姿は消えてしまい、いつの間にか果心居士がそこにいたという。
斬り殺されたはずなのに再び現れる
ある時、織田信長は巷で評判となっていた果心居士の説法の噂を耳にし、居士を召し出した。
信長は、彼が説法に用いていたという見事な地獄絵を所望した。
しかし果心居士は、地獄絵の代金として金百両を要求したので、信長は機嫌を悪くした。
その時は結局、地獄絵は信長の手元に渡らなかったが、果心居士は帰り道の途中で信長の家臣に斬り殺されて絵を奪われてしまう。
そして、信長が家臣から献上されたその絵をいざ広げてみると、ただの白紙になっていた。
果心居士を斬った家臣は、信長をたばかったとして牢に入れられた。
それからしばらく後、死んだはずの果心居士が、以前と変わらぬ様子で地獄絵を広げ、群衆に説法を行っている姿が再び目撃された。
奉行所に呼び出された果心居士は、奪われた地獄絵が白紙になっていた理由を問いただされると、「信長公より正当な代金を賜れば、絵は元どおりに戻るでしょう」と答えた。
そこで信長が金百両を払ってやると、まっさらだった白紙にふたたび地獄絵が浮かび上がってきたという。
明智光秀の前で、小舟とともに消える
後に本能寺の変で信長を討つことになる明智光秀も、果心居士の評判を聞きつけ興味を抱いた。
居城の坂本城に招き、手厚く酒肴を振る舞ったという。
無類の酒好きだった果心居士は、礼として幻術を披露することを申し出た。
座敷には近江八景を描いた屏風が置かれており、果心居士はその遠景に描かれた小舟を手招きした。
するとたちまち屏風の中から水が溢れ出し、座敷一面が水浸しとなった。さらに絵の中の小舟が実際に漕ぎ出して現れた。
果心居士はその小舟に乗り込むと、舟は再び屏風の中へと戻り、次第に小さくなって姿を消した。
気がつくと水浸しだった座敷も、何事もなかったかのように元通りに乾いていたという。
秀吉の過去をあばいて処刑されかける
果心居士は、豊臣秀吉にも幻術を見せている。
世にも不思議な幻術の噂を聞きつけて、果心居士を大坂城に呼びつけた秀吉は、自分の目の前で幻術を披露してみろと命じた。
果心居士は乗り気ではなかったが、秀吉の要求を条件付きで承諾した。
その条件とは、幻術を行う場には側近を含め誰一人立ち入らせず、刀剣などの刃物も一切遠ざけるというものであった。
秀吉が条件に従い、何が起こるのかと期待を膨らませて待っていると、やがて部屋が暗くなり、久秀のときと同様に一人の女が忽然と現れた。
その女の顔を見て、秀吉は腰を抜かすほど驚いた。
恨めしそうな表情を浮かべたその女は、かつて秀吉が戦場に出ていた折に、乱暴して殺した女だったのだ。
秀吉は過去の過ちを後悔しており、誰にも話していなかったにもかかわらず、果心居士はその女の幻影を見せた。
知られてはならない過去を暴かれたと思った秀吉は、すぐさま果心居士を捕らえさせ、磔の刑を言い渡す。
しかし処刑される寸前に、果心居士はネズミに姿を変えて縄を抜け出した。
磔柱に駆け上がったそのネズミは、どこかから舞い降りてきたトンビにさらわれ、そのまま刑場から消え去ったという。
その正体は夢まぼろしかそれとも忍か
果心居士の名は、『義残後覚』や『玉帚木』『醍醐随筆』『虚実雑談集』など、江戸期に編まれた奇書や世間話集にしばしば登場する。
しかしその実在は古くから疑問視され、架空の人物であった可能性も指摘されている。
松永久秀に仕えた忍者であったという説もあるが、どの勢力に与していたのかもはっきりせず、もはや果心居士という人物そのものがまるで幻のような存在なのだ。
ネズミに姿を変えて刑場を脱したとされる果心居士は、後に因心居士と名を改め、駿府の徳川家康のもとに現れたという。
経緯は定かでないが、旧知の間柄であった家康が年齢を尋ねると、「88歳になり申した」と答えた。
その後、駿府にとどまった果心居士は、家康にたびたび呼び出され、戦乱の世の昔語りに興じたとも語られている。
参考文献
中江克己 (著) 『日本史 怖くて不思議な出来事(愛蔵版)』
清水昇 (著) 『戦国忍者列伝 乱世を暗躍した66人』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部