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音楽家としての表現に、大きな影響をもたらした一冊──菊地成孔さんと読む、筒井康隆『エロチック街道』【別冊NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

音楽家としての表現に、大きな影響をもたらした一冊──菊地成孔さんと読む、筒井康隆『エロチック街道』【別冊NHK100分de名著】

誰もがハマる、底なしの想像力──フィクションの超越者・筒井康隆『エロチック街道』を、菊地成孔さんと読む

日本の「SF御三家」と称され、90歳を迎えた今もなお精力的に作品を世に送り続ける、文学界のスター・筒井康隆。TikTokをきっかけに若者の間で再ブームが起きるなど、幅広い世代から支持を集めています。

SF、スラップスティック、言語実験、精神分析、そして超虚構――小説という形式の限界に挑み、変化を重ねてきた筒井康隆の軌跡をたどったNHK Eテレ「100分de筒井康隆」が単行本化され、2025年7月に発売となりました。

中条省平さん、池澤春菜さん、菊地成孔さん、大森望さんという筒井愛に溢れる4名の著者による、読む人すべてを底なしの“筒井沼”へと叩き込む、筒井康隆ガイドの新定番です。

今回は菊地成孔さんによる『エロチック街道』読み解きを一部公開します。菊地さんが考える『エロチック街道』の、そして筒井康隆作品の魅力とは何なのでしょうか。

『別冊NHK100分de名著 フィクションの超越者 筒井康隆』書影

第3章 夢と虚構の純文学へ――『エロチック街道』より

なぜ『エロチック街道』なのか─超虚構と中南米文学

 筒井康隆先生(敬意を込めて、「先生」と呼ばせてください)の作品は、極めて数が多いうえに面白くないものがありません。クオリティ(質)とクオンティティ(量)が両立しており、ランダムにどの作品を選んでも必ず名作なのです。ですから、読む側の個人的なこだわりによって自分なりのポイントに引き付けない限り、「ベストの一冊」を選ぶことは、誰にとっても難しいだろうと思います。

 そんな筒井先生の作品の中で、今回、僕が選んだのは短篇集『エロチック街道』。高校生で多感だった頃にリアルタイムで読んだ本だというのが、まずは一つの理由です。そして、詳しくは改めてお話ししますが、僕の感受性をいまだに律していると言っても過言ではないくらい、音楽家としての自分の表現に、極めて大きな影響をもたらした一冊なのです。

 筒井先生の本は、もちろん長篇も良いけれど、短篇集もすごく良い。『エロチック街道』以前の『バブリング創世記』や『宇宙衞生愽覽會』、『ウィークエンド・シャッフル』、『おれに関する噂』、そして第1章で中条省平さんが言及された最初期作品の『東海道戦争』や『ベトナム観光公社』、続く『アフリカの爆弾』、あるいは『エロチック街道』以後の『薬菜飯店』等、いずれも驚異的にクオリティが高い。名作と呼ばれるものの多くが実は短篇集だとも言えるほどですが、そんな数ある名短篇集の中でも、この本は飛び抜けています。

『エロチック街道』という本は、筒井先生の長い作家人生でも、ある特殊な時期に書かれたものだと言えます。ここには、その直後に凄まじい速さで長篇『虚人たち』、『虚航船団』などに結実する「超虚構」というコンセプトへの、テストランとも言える先鋭的な“ヤバい”作品が収められているのです。

 超虚構の萌芽自体は、中条さんがテーマに選んだ初期の長篇『脱走と追跡のサンバ』あたりからすでに見られましたが、『エロチック街道』の時期になると、筒井先生は「夢の小説化」という実験に取り組みます。夢の内容を加工せず、夢のまま作品にする。そこからより純化した表現としての超虚構へと進んでいった──そのように位置づけられます。

 多彩なジャンルにまたがる十八篇のうち、「中隊長」「遠い座敷」「傾斜」「エロチック街道」の四篇が、実際に見た夢を素材として小説化した作品です。作品中には明示されませんが、同時期のエッセイ集『着想の技術』(一九八三年、新潮社刊)所収の「夢─もうひとつの現実(虚構)」には、それらの原型となった夢について記されています。

 そのうち掌篇「傾斜」以外の三篇は、いずれも文芸誌「海」への掲載が初出です。タイムラインとしては、「中隊長」が七八年七月号、「遠い座敷」が同年十月号、そして長篇『虚人たち』が同じく「海」の七九年六月号から八一年一月号に連載され、八一年五月号に「エロチック街道」が掲載された、という流れです。

 この時期の執筆に当たって筒井先生は、若い頃から親しんでいた近代ヨーロッパの「シュルレアリスム」ではなく、中南米文学の「マジックリアリズム」の手法に強く感化されました。マジックリアリズムとは、歴史や政治、社会などのリアリティに軸足を置きつつ、現実のほうに“魔法をかけて”(編注:単行本では引用符内傍点)、「魔術的現実」として虚構化してしまうような文学のことです。『百年の孤独』のガブリエル・ガルシア゠マルケスをはじめ、マリオ・バルガス゠リョサ、アレホ・カルペンティエル、フリオ・コルタサル、ホセ・ドノソ等が、代表的な作家として挙げられます。

 七〇年代の終わり、筒井先生は、文芸誌「海」の三代目編集長、塙嘉彦といういわば「グールー(師)」と出会っていて、その影響で中南米文学に深く触れ、それまでのエンタメ文学から進化して、純文学の形で作品を発表することになります。

 昨年(二〇二四年)、『百年の孤独』が文庫化され、驚異的な売り上げを見せています。ガルシア゠マルケスは「中南米文学界の長嶋茂雄」みたいなものですから、これほどの人気を博すのも理解できますが、中南米文学の世界は彼だけに留まらずはるかに肥沃です。そして、当時日本でまだほとんど知られていなかった、中南米文学の魅力的な作品と作家をつぶさに紹介していた稀有な文芸誌が「海」でした。「海」では、日本の純文学の雑誌としては例外的に、海外の最前衛の文学を積極的に紹介していたのです。

 僕は、後述するように筒井先生の自己言及から『エロチック街道』と「海」の繋がりを知り、そこから遡って七〇年代末頃に出た「海」のバックナンバーを古書で探して読んだことで、一気に中南米文学の虜になりました。それは今に至るまで僕自身に圧倒的な影響を及ぼしており、音楽家としての作品のキーワードになったり、コンセプチュアルな考え方の元になったりしています。

 当時のカルチャー一般の状況について少しお話しすると、「海」が精力的に中南米文学を紹介していたのは七〇年代後半で、その後の八〇年代前半には「ニューアカデミズム」のブーム─ジル・ドゥルーズやロラン・バルト、浅田彰といった現代思想の難しい本が、今で言えばサブカルのような扱いで市場価値を持った時代──がやってきました。

 それぞれの世代で、多感な時期にその人の価値観にインパクトを与えた、「やられた」という経験や思い出があるでしょう。僕より少し上の世代であれば「学生運動にやられた」「ビートルズにやられた」という感じで、僕の世代はまずバブルの経験があり、それにプラスして何かがついてくる。ニューアカデミズムは、その「何か」の一つだったと言えます。そして、同世代で最も多かったのは、サイバーパンクにかぶれた人たちでした。だけど僕は、サイバーパンクには全く乗れなかった。絶大な影響のあった『AKIRA』にも乗れず、ファミコンのようなゲームなどへ行くこともなく、ひたすら『百年の孤独』などの中南米文学を読んでいたのです。

 誰かの音楽を聴くと「このバンドはビートルズが好きなんだろうな」「この人はチャーリー・パーカーが好きなんだな」とわかるものですよね。僕の音楽も、バックグラウンドにあるカルチャーについてある程度知っている人が聴けば、すぐにわかるはず。僕の音楽はよく難解とか奇抜とか言われがちですが、その元ネタは凄く明確なんです。

 それこそが、超虚構期もしくはマジックリアリズム期の筒井康隆の諸作品であり、同時にそのバックボーンとなった中南米文学です。そして、その世界への入り口になったのが『エロチック街道』でした。それらが自分の青春期と密着して、現在に繫がる僕の創作の源泉になっていったのです。

本書『別冊NHK100分de名著 フィクションの超越者 筒井康隆』は、大好評を博したNHK「100分de筒井康隆」を単行本化した一冊です。・第1章 革命と内宇宙のリズム――『脱走と追跡のサンバ』(中条省平)
・第2章 拡張と回帰の物語――『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』(池澤春菜)
・第3章 夢と虚構の純文学へ――『エロチック街道』(菊地成孔)
・第4章 超虚構の到達点――『虚航船団』(大森望)

という全4講師の読み解きで、筒井康隆作品をガイドします。

■『別冊NHK100分de名著 フィクションの超越者 筒井康隆』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは記事から割愛しています。詳しくは本書をご覧ください。

著者

菊地成孔(きくち・なるよし)
音楽家、文筆家。1963年、千葉県生まれ。ジャズを中心とする幅広いジャンルでバンドリーダー、プロデュース、作曲も行うサクソフォン奏者として多くのステージに立つ。音楽や映画をはじめ、格闘技、食など多彩なテーマの批評・文筆を行う。『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール 世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間』(小学館文庫)、『次の東京オリンピックが来てしまう前に』(平凡社)、『クチから出まかせ 菊地成孔のディープリラックス映画批評』(集英社)、『刑事コロンボ研究 上』(星海社新書)、『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録』(歴史編/キーワード編、大谷能生との共著、いずれも文春文庫)など、著書多数。
※すべて刊行時の情報です。

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