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お得ととるか、荷が重いととるか「100周年まで愛を込めて」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」

NHK出版デジタルマガジン

お得ととるか、荷が重いととるか「100周年まで愛を込めて」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」

動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第21回は篠原さん作家活動10周年の節目についてのお話です。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より

100周年まで愛を込めて

 私の人生にクリスマスが帰ってきた。
 以前、私の人生にクリスマスらしいクリスマスが存在していたのは、男装喫茶で働いていた頃だ。クリスマスどころか、バレンタインデーやホワイトデーはもちろん、ハロウィンやお月見、夏祭りまであった。非日常と相性の良いコンセプトカフェは、何かにつけて、イベントを開催していた。この季節には、サンタクロースの服を着たり、ちょっと華やかなご飯を提供したりしていた。
 つい最近、そこでできた友人たちが家に遊びに来てくれて、思い出話に花が咲き、いろいろ思い返していた。
 ある年は、その日にクリスマスイベントがあることに気付かず、日替わりメニューの献立表を提出し、「各キャストがクリスマスをイメージしたメニューをご用意してお待ちしております」という告知の中でチキンレッグやローストビーフといった、いかにもクリスマス然としたメニューに混じって、私が担当する「角煮大根定食」が異彩を放っていた。今となっては全てが懐かしい。

 楽しかったから思い出しやすいというのもあるが、季節に関連するイベントがたくさんあったことも思い出しやすい理由の一つである。
 大人になると、子どもの頃と比べて、日々の時間が過ぎていくのが早くなったように感じる。あっという間に過ぎていく時間の中で、季節のイベントというものは、思い出にしおりを挟み込むようなものだ。イベントと結び付いた思い出は、毎年、思い返すことができる。

 ところがここ最近、私の人生からは、クリスマスが消えていた。
 私は、誰かに何かをしてもらうことに関心が薄く、誰かに何かをしてあげることの方がはるかに楽しく感じる性質なので、イベント事は大抵、一人ではなく誰かと分かち合っている。一人でいることは寂しくないし、それはそれで楽しく過ごせるのだが、一人でいたら自分の誕生日すら祝い損ねてしまうと思う。

 クリスマスが消えた理由は明確で、夫の誕生日がクリスマスに近いからである。誕生日とクリスマスは、イベント内容に似ている点が多い。なにしろ、プレゼントとケーキというメインイベントがかぶっている。というわけで、クリスマス仕様のメニューになったレストランでご飯を食べて、「まあ、今年はこんなものでいいか。」とクリスマスをほとんど省略してきた。

 それでも彼と一緒に過ごし始めた頃は、せっかくクリスマスだし、ごちそうの一つくらいは作るかと思って、センマイ(牛の第3胃)を大きいままで買ってきて、センマイ刺しを作ったこともあるが、これがとんでもなく面倒だったこともあり、その後は、せいぜい、『ホーム・アローン』を見るくらいに落ち着いた。
 年を重ねて、さまざまな経験を積むことで、効率的な手順で物事を進められるようになったのは、成長してよかったことの一つであるが、同じようにイベントをも省略しがちになってしまったのは、良くない傾向であると反省している。
このままだと、私のクリスマスの思い出の最終履歴は、巨大センマイをゆでこぼし、「1LDKにホルモンの匂いをたきしめた」から更新されないままになってしまう。

 ところが、今年は状況が大きく動いた。今年の我が家のクリスマスには、特大のやりがいがある。ここにはまだ、クリスマス経験のない赤ちゃんがいるのだ。
 今年から、私は、我が家のクリスマスの主催者側になるのだ。少しずつ気に入ったオーナメントを集めては、ツリーを飾りつけ、今度こそクリスマスらしいごちそうを作り、毎年ケーキを選ぶのが楽しみでしかたがない。
 クリスマスに向けて、まず、大きなツリーを買った。そして、玄関用に小さな光るブランチツリーとトナカイの置物も買った。アドベントカレンダーは、毎日1冊ずつ絵本が出てくるものを2種類買った。
 今年の赤ちゃんに理解できるのは、まだ、チクチクとしたツリーの手触りくらいかもしれない。それでも楽しみなのだ。赤ちゃんが覚えていなくても、私が一生覚えている。

 今年は、作家デビュー10周年の年である。
 10周年というと、結婚であれば、スイートテン、子どもであれば、2分の1成人式(成人年齢が18歳に引き下げられた今も10歳で行うらしい)と、それなりに大きなアニバーサリーと言えるだろう。しかし、自分のことはすっかり忘れていて、博士論文の審査のために執筆した本をまとめていて、偶然、気が付いた。

 一番の驚きは、10年続いたことではなく、「売れっ子になるわけでもなく、消えるわけでもなく、10周年になった」ことだ。嫌だとかうれしいとか、そういった感想は特になくて、ただただ、そういうのもあるのか……としみじみ驚いている。

 もともと、私は、続けるのは得意だ。離乳食を終えてこの方、エビがこの世で一番好きな食材であり続けているし、物心ついたときから、ずっと生き物が好きだ。小学校入学から数えると、今年で学生24周年だし、25周年までは約束されている。
 とことん反りが合わなかった小中高一貫の母校も小学校から高校卒業まで通い続けた。成績が悪い人は、中学から高校に進学するときに、外部に放出されるための「肩たたき」があるのだが、私は、自ら外部の高校を受験すると言っていたので、学校もすっかり信じ込んで、私の肩をたたくことを放棄していた。そこで全てが終わったタイミングで突然、内部進学を申し出るというフェイントをかけ、結局進学し、高校も卒業した。
 なにも最初から騙だまそうとしていたわけではなく、外部受験しようと思っていたのは本当で、今でも結局なんの縁もなかった志望校の校歌が歌える。ただ、今思えば、校歌から練習しているやつの本気度は、たかが知れていると言わざるを得ない。内部進学した理由としては、中3でクイズ研究会を設立し、それが思いのほか楽しくなってきて、まだ居たい理由ができたからである。そして、このクイズ研究会は、かなり大きな人生のターニングポイントになった。違う高校に行った世界線の私の人生を知ることはできないけれど、母校に留とどまったことは、今の私にとって正解だったと思う。

 「続けること」に関しては、闇寄りのエピソードだけでなく、光寄りのエピソードもある。8年勤務し、さすがに一アルバイトとしては、長居しすぎたと思い、修士課程修了時に、勤務先の塾の皆さんに今までありがとうの気持ちを込めたクッキー缶を持っていったが、まだ残留できそうな気配を感じたのでその場で契約を更新し、ただクッキー缶を持ってきただけの人間になった。昨年、プロ講師に契約を変更し、恐らく社員を除けば、最も在籍期間が長い。
 やや恥知らずの領域につま先を浸しているくらいには、何かを続けるのが得意だ。

 ただ、作家として本を出版し続けるというのは、私一人の続ける力の強さだけではどうにもできないものである。だから、こんなにも緩やかに10周年を迎えたことには驚きがあった。

 初めて本を書いたとき、これから作家としての、死ぬか生きるかのサバイバル人生が始まると思った。2年目、3年目に本を刊行したときは、「作家の5年生存率」という言葉を真に受けて、あと何年本を出版し続ければ、作家として生きていけるのだろうかと考え込んでいたし、1冊、2冊出しただけで作家と名乗っていいのだろうかと悩みながら、それでは、あと、何冊本を出したら、作家と名乗っていいのだろうかと、存在しない答えを探した。
 連載を持っていたり、本が売れていたりする同世代や同じ守備範囲の人を見ては焦っていたし、私から見て実力があるように思えば、なぜ私はこういうものが書けないのだと苦しみ、本の広告が誇大であるように思えば、「うまいこと見せやがって」と世を憂いていた。

 それほどすごく気にしていたはずなのに、何年目を境にということもなく、思い出せないくらい、いつの間にか、今、自分が本を何冊出したのか、自分が何年、作家業を営んでいるのか、調べないと答えられなくなっていた。
 とろ火でじっくりコトコトと10周年だ。
 ちなみにタレントとしては8年目で、こちらに対しても全く同じ感想である。
 「作家」と言われて、私のことを思い浮かべる人はいないし、「タレント」と言われて、私のことを思い浮かべる人もいない。それでも、キャベツが1玉500円もする時代を生きていくのに十分な収入を得られている。

 それに、今の私は、「作家・タレント」と説明しなければ、不自然な経歴と言える。「作家・タレント」という肩書きがなければ、親戚に一人はいる変わり者として処理するしかない。余談ではあるが、私の親戚は、親戚に一人はいる変わり者だけで構成されているので、リアル親戚コミュニティにおいて、私は何一つ心配することのないしっかり者としての立ち位置を保っている。

 デビュー当時にイメージしていたのとは違う10年だった。なんとなく、作家というものは死力を尽くして、常に飢え乾き、ヒリヒリと身を燃やさなければ、できない仕事だと思っていた。
 いわゆる人気商売と言われるような仕事で、爆発的に売れてもいないし、消えてもいない状態で10年というのは、直感に反するものである。
 でも、その意外な現在に、私は、心地よさを感じている。続け上手の勘によると、これはかなり続けやすい温度である。この先、年を取って、気力も体力も衰えてしまうことがあるかもしれない。若さゆえの馬力ではなく、10年で培った握力で、多少調子が悪いときでもしがみつけるであろう範囲に、収まっているのを感じる。
 
 相対的な超絶売れっ子というわけではないけれど、誰かが本を買ってくれないと10年長らえることはできない。これはひとえに応援してくれた人たちのおかげである。私にできるのは、ただ書き続けることだけだからだ。購買層という意味に限定せず、立場に関係なく、私を買ってくれる人のおかげで今がある。
 実際に会えた人もいるし、直接会ってなくても手紙やSNSで応援のメッセージをいただくことで認識している人もいる。だから、このありがたさ、「私は、ふわふわの犬とかじゃないというのに、こんなにも良くしていただいて」という気持ちは、特定の人にも向けられているし、まだ出会えていない全ての人にも向けられている。
 10周年という節目に思うのは、「これからもよろしくお願いします」ではなく、「今までありがとうございます」である。
 この人生の一瞬でも応援してくれた人を、私は一生愛し続けると思う。
 私は、続けるのが得意なだけではなく、愛することは、何より得意である。
 私がうまく語れるのは、生き物でも、ご贔屓でも、友人でも、家族でも、仕事でも、自分でも全て愛するもののことだ。
 一般に好きなものが時とともに移り変わることも知っているし、それもまた好ましいことだと思う。いつまでも好きでいるのも、たくさんのものを好きになるのも、同じくらい良いことだ。
 だから今後、私という作家(あるいはタレント)が、誰かにとって、私の名前すら正確に思い出せないくらい過去のものになったとしても全く気にしない。ただ、どこかで私に永遠に愛されていると思っていてほしい。これをお得ととるか、荷が重いととるかはお任せする。それまで一緒にコトコトとろ火で温まっていよう。

 とはいえ、11年目に爆発的に売れる可能性もあるし、今年を最後に消える可能性だってまだある。11回目になる新しい1年を始めていこうと思う。

初めて印税をもらった時に調子乗ってオーダーしたネックレス:篠原さん提供

プロフィール

篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)などを出版。

バナーイラスト 平泉春奈

NHK出版 本がひらく(外部リンク)

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