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「なんと東京→大阪間を3日」驚異的なスピードで走った飛脚たち 〜価格は140万円

草の実堂

「なんと東京→大阪間を3日」驚異的なスピードで走った飛脚たち 〜価格は140万円

現代のように、車・列車・飛行機などの輸送手段もなければ、テレビやネットなどの情報伝達手段もなかった江戸時代に、「脚」一つで各地に手紙や荷物などを運んでいた飛脚

飛脚とは、通信や輸送を行う運送業のことや、その仕事に従事した人たちの両方を指します。

飛脚は一番スピードが早い特別便になると、江戸〜大阪間をわずか2日で運び、料金はなんと140万円ということもあったとか。

また、飛脚は大事な荷物を届けるとともに、地震・津波・火災などの大災害が発生すると、その被害状況をリレーで伝える役目も果たしていたそうです。

そんな江戸時代の大切なインフラ・飛脚について解説いたします。

画像:飛脚 ac-illust キャンディR

江戸幕府の街道整備により急速に発達した飛脚業

画像:フェリーチェ・ベアトによる飛脚の着色写真(1863年-1877年頃)wiki c public domain

飛脚の歴史は古く、古代律令制の時代(7世紀後半頃)からあった交通・通信の制度「駅伝制」がルーツといわれています。

その後、鎌倉幕時代には鎌倉を中心に活躍した伝馬(※)による飛脚「鎌倉飛脚」がありましたが「公用」に限られていました。

※伝馬:幕府の公用をこなすために宿駅で乗り継ぐ馬

飛脚業が急速に発達したのは、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康が全国の主要街道の整備を始めてからだそうです。

各街道に宿駅を設定し、荷物や手紙を運ぶ人や伝馬の用意を義務付けたところ、飛脚問屋と呼ばれる民間の飛脚業が参入し、町民も利用できるようになっていきました。

江戸時代の飛脚の種類

画像:二人の飛脚 ac-illust KIMASA

江戸時代の飛脚は、いくつか種類がありました。

︎継飛脚(つぎひきゃく)
幕府が設けた公用の飛脚で、「御老中証文」など重要な公文書を運んだ。

︎大名飛脚
参勤交代で江戸に滞在している大名が、国元と連絡するために設けられた。

︎町飛脚
民間業者である飛脚問屋が、東海道の三都(江戸・京都・大坂)で開業し、「町飛脚業」を全国展開した。

︎米飛脚
年貢の米価を決める大坂堂島米会所周辺の飛脚。堂島米会所での米相場の動向を地方に伝えた。

驚異的なスピードで走る継飛脚

画像:街道を走る飛脚。歌川広重 東海道五拾三次之内 平塚 public domain

走りの速さを誇る飛脚の中でも「継飛脚」はとてつもない速さを誇っていたそうです。

継飛脚を利用するのは、老中・京都所司代・大阪城代・駿府城代・勘定奉行ほか、限られた人ばかりでした。

運ぶものは、公的書状のほか、各地の名産品など将軍への献上品も運んでいたそうです。

そのため、継飛脚に求められたのは何よりも「運ぶ速さ」で、通行にあたって「大名行列を横切っても良い」「東海道屈指の難所・大井川が増水して川留めになっても優先的に渡してもらえる」などの特権が与えられていました。

画像:大井川を渡る人々。東海道五拾三次之内 嶋田 大井川駿岸 public domain

継飛脚のスピードは、驚異的でした。たとえば、

江戸から京都まで500キロの距離を…

︎普通便:約90時間(約4日弱)
︎お急ぎ便:約82時間(約3日半)
︎超特急便:約56〜60時間(約2日半)

のスピードで走っていたそうです。

もちろん、1人で運ぶのではなく各宿場に継飛脚が待ち構えていて、リレー形式で運んでいました。

最速を誇る「仕立飛脚」の料金は3日間で140万円!

画像:『飛脚、日本と絵入り日本人』エメ・アンベール画1874 年。 public domain

現代と同じで、荷物を届けるスピードが早くなるほど、料金も高くなりました。

たとえば、最速を誇る「仕立飛脚」という超特急便の中には、江戸と大阪間の約570キロを3日間弱で必ず届けるという「正三日限」便があったのですが、料金は「銀700匁」つまり約140万円もしたそうです。

単純に、約570キロを2日間(48時間)で割ると、時速約12キロになります。

電動アシスト自転車が時速約12〜17キロほどの速さなので、「ものすごい速さ!」とはいえないかもしれません。

けれども、当時は、凸凹の峠道や足元の悪い道路を、草鞋を履いた人間が、真っ暗な夜でも雨降りでも強風でも走り続けるわけです。

もちろん、江戸大阪間の各宿場には仲間が待機しリレー形式で運び続けたのですが、それにしても非常にパワフルで健脚だったといえるでしょう。

画像:大名行列『木曽海道六拾九次之内 加納』歌川広重筆  public domain

いち早く情報を全国に伝える役目も果たした

画像:安政の大地震絵図。江戸地震の惨禍。 public domain

飛脚が自慢の脚で運んだのは、文書や荷物だけではありません。たとえば、大きな災害が起きたときは、その被害状況を各地に伝える役目も果たしていました。

たとえば、大阪と江戸間を走る飛脚たちは、地震や大津波の被害状況をリレーで伝え、その情報をもとに幕府・大名・商人などが炊き出しの準備や仮設住宅の準備、献金や献米などを行ったそうです。

飛脚たちのもたらす貴重な情報を普及させたのが、当時の「かわら版」でした。

たとえば、安政江戸地震(安政2年/1855)の際、その被害状況を伝えたかわら版は600種以上も出されたそうです。

かわら版というと、現代のネット情報同様、「真偽のほどは全く定かではないが面白ければ数を稼げる」という感覚で下世話で怪しげな情報が多かったとか。

けれども、大災害時はその現場に居合わせた飛脚たちの情報を集めて、「人々を安心させるため、落ち着かせるために情報を発信しよう」という社会的な使命感を持ち、情報を伝えた瓦版もいたようです。

画像:「郵便ノ使音吉 尾上菊五郎」public domain

江戸時代に目覚ましい発達を遂げ大切な文書・荷物・情報を運び続けた飛脚業は、1871年(明治4年)、欧米式の郵便制度の採用にともない、すべて廃止となりました。

飛脚問屋は陸運元会社として再組織され、小荷物・現金輸送に従事することとなります。

気になる飛脚業に従事していた人たちのその後ですが、郵便局員や人力車の車夫などに転じていったそうです。

画像:人力車夫 月岡芳年 public domain

ちなみに、現代でも多くの人が熱狂する「駅伝」ですが、この競技名は飛脚の前身でもある古代律令制の時代からあった「駅伝制」に由来しているそうです。

参考:
『古代から現代までを読み解く 通信の日本史 玉原輝基 (著)』
書評『江戸の飛脚 人と馬による情報通信史』増田廣實
論文「政治情報にみる飛脚の意義」
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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