4人のおじさんが大学生の前で語るさまざまなキャリアの作り方(1):福岡地区水道事業団 総務部長 今村 寛さん,株式会社ホーホゥ代表 木藤亮太さん,うきはの宝株式会社 大熊 充さん
福岡大学商学部・飛田先生の"福岡新風景:経営者と語る福岡の魅力"では、福岡へ新たに根を下ろした経営者たちの生の声をお届けします。さまざまな背景を持つ経営者がなぜ福岡を選び、どのように彼らのビジョンと地域の特性が融合しているのか、また福岡がもつ独特の文化、生活環境、ビジネスの機会はどのように彼らの経営戦略や人生観に影響を与えているのかについて、飛田先生が、深い洞察と共に彼らの物語を丁寧に紐解きます。福岡の新しい風景を、経営者たちの視点から一緒に探究していきましょう。福岡へのIターン、Uターン、移住を考えている方々、ビジネスリーダー、また地域の魅力に興味を持つすべての読者に、新たな視点や発見となりますように。
※この記事は、Podcastでもお楽しみいただけます。
今月と来月の「福岡新風景」は特別編。私の職場であるゼミナールの時間に3人の社会人をお招きし,対談を行いました。1人はキャリア30年の公務員,1人は地域活性化のスペシャリスト,1人は地域課題を事業で解決しようとする起業家。
大学生からすれば,まったく関わりがないように見える人たちの話を聞く機会。今回は長い社会人生活を通じて得たキャリアと福岡や自分の生まれ育った街との関わりについてお話頂きました。
60分の対談は大きく盛り上がってしまい,1回だけでは収まりきらない分量に。今回はその前半戦をお届けします。
飛田 皆さんこんにちは。この記事は「福岡新風景」という福岡で起業する,ないしは福岡で働くという人がどういうバックグラウンドを持っているのか,福岡をなぜ起点として働きたい,働いているのかということをお伝えするメディアです。今日はゲストがお三方おられます。それぞれちょっと自己紹介をしていただければと。
<ゲストの自己紹介>
今村 はい。現在は福岡地区水道企業団に勤めています。今村といいます。元々は平成3年に福岡市役所に入って30数年,福岡市役所一筋です。今は水道企業団には派遣という形で水道の仕事をしています。
飛田 30年,市役所職員をされてきて,ちょっと先取りをすると,今までどういう仕事をされてきたんですか。
今村 そうですね。環境,都市計画,それから産業振興,それから財政,企画,教育,交通そして今は水道。
木藤 すごいですね。めちゃめちゃ網羅していますね。
今村 もうやってない仕事がないぐらいですかね。
木藤 市役所以外の活動も結構やっぱされていますよね?
今村 そうですね。外に出て,それこそ財政の出前講座とかで全国を旅して回ったりしています。
木藤 あと行っていない県はどこでしたっけ?
今村 福島と栃木と高知と香川と徳島。
飛田 割と福岡からは近い四国がありますけど,なかなか実は福岡から行きづらいですよね。まだ,今村さんしかまだ紹介してないのに他の方が入っていますが…。今日2人目は木藤さんです。
木藤 木藤でございます。旅芸人をやっております。飛田先生との繋がりも元々商店街の活性化を宮崎県日南市でやらせていただいて,当時は4年間日南に住んでおりました。元々福岡の人間なので日南に行く前も福岡でしたし,任期が終わって福岡に戻ってきて今那珂川市という福岡市のベッドタウンのエリアにありますけど,そこに自分の家もあります。さらに自分の母の地元でもあり,会社も置いて都合5つの会社を経営しておりますが,いろんなことをやりながら僕もいろんな旅に出て,いろんなところで商店街の話をしています。
今の地方では非常に若い人が少なかったり経済的に厳しい,人口も減っているっていう中で,どうやって豊かな暮らしを作っていくのかみたいなことをいろいろとやっています。九州をベースに仕事している身でございますし,福岡大学では授業もしています。今日はよろしくお願いします。
飛田 あともう1人,今日は「ばあちゃん新聞」が来られています。大熊さんよろしくお願いします。
大熊 それこそ木藤さんは学生時代の先生で,今日(※収録日:筆者注)午前中木藤さんの授業で講義をさせてもらいました「ばあちゃん新聞」こと「ばあちゃんおじさん」の大熊 充と申します。
「ばあちゃん新聞」というのは,全国のばあちゃんを取材して記事にしたものを新聞として発行しているんですけれども,もとは75歳以上のおばあちゃんたちが働ける会社というのを展開しております。僕は福岡県うきは市という福岡の隅っこの山の中から来ております。
<公務員として福岡市の発展を見届けてきた今村寛さんのキャリア>
飛田 では,さっそく本題に入りたいんですけれども,このメディアは福岡で働く,ないしは外から福岡に来た人が働く場所として福岡をどう見ているのかっていうことをお話していきます。
そうした中で,まずは行政として30年間福岡市政に携わっておられる今村さんにお伺いします。現在,全国的にも福岡って注目されている都市で,これまでのさまざまな市長の政策が九州の中心都市を支えるひとつのバックボーンになっていると思うんですが,30年って言いますとバブルが終わった頃からコロナを経て,今までいろいろ変遷があったと思います。非常にざっくりとした質問で恐縮なんですが,今村さんから見てこの30年の福岡っていうのはどういうふうに見えてますか。
今村 うん,すごいざっくりですね(笑)。
一言で言うと「挑戦」ですね。常に何かにチャレンジをしてきたっていうのが福岡の歴史だと思います。福岡は水がない中で100万人,150万人都市を作ってきたというのもひとつのチャレンジですし,東京や大阪にあるものを全部揃えようというようなことにも挑戦してきました。バブル期にたくさんのものを作った結果,借金をこさえましたけど,それを返しながらちゃんと豊かな街を作ってきました。それから北九州みたいな工業都市になりたかったけど,それがならなかったので商業として頑張っていこう,国際的な都市として頑張っていこうということで博覧会をやったり,今だったら企業誘致が無理ならスタートアップだみたいな形で創業を支援したりということでですね,やっぱり常に追いつけ追い越せで新しいものに挑戦してきたというのが福岡の原動力ではないかなと思います。
福岡大学で行った『福岡で働く』を考えるイベントの一コマ
飛田 そういう意味では今の起業を推進する,そういう国家戦略特区に選ばれているっていうのはもちろん市長の政策ということもありますけども,福岡市民が持っているパーソナリティだったり,ポテンシャルに見事にフィットしていたっていうのが今村さんの見立てですか?
今村 そうですね。やっぱり新しいものが好きだというね,福岡独特の気質。これは人の入れ替わりが激しくて,古いものを守るよりも新しいものを取り入れた方がいいっていう人たちが多いっていうことです。山笠もそうですよね。新しい人がどんどん来て新しい舁き手になって,それが山笠の歴史を作っているっていうこともあるので,新しいものに対しての抵抗感の薄い,この福岡ならではの挑戦をして,挑戦に成功して,次のステップに上がっていくっていう歴史が積み重ねられた。それは福岡の特性だと思います。
飛田 先程も自己紹介にあったように,今村さんはたくさんの仕事を30年の中でされてきたと思うんですが,せっかく今挑戦っていう非常にいいキーワードが出てきたので,行政マンとしての今村さんが「俺チャレンジしたな」っていうことは何かありますか?
今村 そうですね。口はばったいですけど,財政のことですね。これまで全国でもう200回以上講演をやっている「財政出前講座」ってのがあるんですけど,これは私が財政課長だった2012年から2015年の間に取り組んだことを今全国でお話をしています。そのときに「行財政改革をやれ」と市長から言われ,「850億円お金が足りません!」っていう中からどうやってお金を作っていくのか。そこで予算編成のやり方を変えたり,そのやり方を変える中で職員が一緒になって予算を考えてくれるような仕組みを作ったりというようなことをやってきました。そのことが今,全国の自治体で「そういうやり方をしたらうまくいくんですね」と言ってもらえる。実は本も書いています。もう6年前に2冊本書いていますけど,一公務員でここまで情報発信をやっている人はなかなかいないんじゃないかなと思います。
飛田 2012年というと,高島市長が選挙に当選されてからですね。
今村 そうです。今の高島市長が当選して2年目に財政課長になりまして,(市長から)「やりたいことやりたいけどお金がないから今村さんお金作って」って言われて,それで行財政改革をやれとすごいオーダーが来るんですね,市長から。
飛田 それを最初正直聞いたときにどう思われました?
今村 うん。市長がお金の作り方っていうのはわからないけど,自分は情報発信が得意だから,情報発信しながらみんなで行財政改革をやったらいいんじゃないかなっていうアイディアを出してくれたんです。
今村 それで第三者委員会ってのを作って,そこでもう毎回生中継でその行財政改革の議論をするっていうテーブルを作って,そこで議論したらやめたい事業をやめる理由だとかどうして行革に取り組まなきゃいけないとか,あるいはどうして市役所のお金がないのかという話を市民にわかってもらえるのではないかっていうことでUstreamを使って中継していました。市長には情報発信でずいぶん怒られましたし,勉強もさせてもらいました。
市長はですね,7秒以上のフレーズの話を人は聞かないって言われてですね,7秒でわからない話はするなと。だから当初予算の発表をするときに,7秒でわかるようなキャッチフレーズをつけろというのが毎年のお題で何とかやってきました。
木藤 「天神ビッグバン」みたいな。
飛田 ただ,挑戦の街だと言いつつもいわゆる公務員に対して我々が持っているイメージというのは,お堅いとか保守的とか,決まったこと以外はやってくれないとか,正直ネガティブなイメージもあったと思うんですけど,今までこの30年の公務員人生振り返って今の話だけお伺いしていると,そういったものと戦ってきた30年でもあったんですか?
今村 戦ってきたということでもないんですけど,私の場合はたまたま財政から経済に移動した部長になった年にスタートアップとか,商店街振興とかいろんなことを担当しましたので,そこで出ていかざるを得なかったんです。出ていく中でいろんな人と知り合ってあんまり役所っぽくなくない,堅苦しくない感じでもあるので,一緒にしましょうよっていうことをお願いして声かけて一緒にさせてもらっていきました。それがどんどん,どんどん味をしめて,うまくいったからこの人に頼んだらうまくいくんじゃないかみたいなことで経済の部長を務めた4年間でかなり外のネットワークが作れたんじゃないかな。
飛田 それがちょうど50代に入った頃だったということですね。
今村 はい,そうですね。
飛田 となると,それまでの期間で財政やって経済やって少しずつ自分が変わってきたんだという話ですね。ここでだいぶ前の話に戻りますが,学生のときに公務員という職業を選んで,さまざまなキャリアを積むという長い雌伏の時間があったんだと思います。今日は学生の前でお話頂いていますので,今村青年がなぜ市役所職員という職業を選んだのか。ここをお聞かせ頂けると嬉しいです。
今村 私は生まれが神戸で,そのあと東京,広島など転勤で育ってきました。小学校6年生のときに福岡に来て,中高は福岡で過ごしました。大学で京都に行ったのは関西で生まれたので,関西に戻りたくて京都に行ったんです。そのときはまさか福岡に帰ってくるとは思ってないわけです。ただ,東京とか,あるいは大阪とかに一生住んでいくっていうことがつらいなと思ったんですね。
東京にはおじさんがいましたし,大阪,神戸,京都にも親戚がたくさんいますけど,大阪や東京は明らかに住みづらい。人が多いし,通勤時間長いし,休みの日にもどこ行っても人が多い。それに比べたら福岡は,今から30年前ですけど,まだまだ田舎でそれこそ30分で通勤ができるとかね,車で30分走ったら海でも山でも行けるとか,そういった田舎暮らしっていうんすかね,都会と田舎のちょうどベストミックスなところがいいなと。それともうひとつ福岡は街が伸びているときだったので,東京や大阪にない,つまり成熟した都市にはない,これから何か変わっていくっていうようなダイナミズムがありました。そうした福岡で「まちづくり」に携わってみるってのは面白いかもしれないなということで,当時平成元年にアジア太平洋博覧会,よかトピア。今のシーサイドももちのところが埋立地で元々あそこは海だったんですよね。 埋め立てをして博覧会をやって博覧会やった後に,住宅地とか商業施設とかドームができるとかもそうです。当時福岡市港湾局っていう港作りをやっている部署があって,そこに私の友達のお父さんが勤めていて,その仕事がすごく面白そうだったというのもあって福岡市役所を受けようかなというのが正直ありました。
飛田 なるほど。普通であれば,今目に見えているもの,例えば東京に行けば何々があるとか,大阪に行けば面白い文化がある。そういったものもいいのはいいんだけど,一度は住んだことがある福岡が当時ちょうど街としても,まだまだ発展の余地があった。東京や大阪にはない魅力に見えた。要するに「未来を見通す」ってことがここだったら自分の人生かけてもいいかなみたいなことが思えたっていうことですかね。
今村 東京とか大阪に行くと窮屈だっていうイメージがすごくあったんで,それが福岡だと何でも自由にできそうだというイメージはありましたね。
これは偶然なんですけど,私の友達で高校卒業して東京の大学に行った人は結構就職で福岡に帰ってきましたけど,福岡の大学を卒業して東京に就職したやつは未だに福岡に帰ってきたいんだよねって言っていますね。だから,東京に早く行った人,関西に早く行った人の方が,外に出たから福岡の良さがわかって就職で戻ってきている。
飛田 なるほど,そこは我々世代までギリギリあった感覚ですね。今の地方の現状というとなかなか戻れない理由が「働く場所がない」っていうのがあると思うんですけど,そのあたり木藤さんは…。
<今は「まちづくり」のスペシャリスト,木藤亮太さんのキャリア:前半>
飛田 ちょっとご紹介をすると,私たちが知り合うキッカケになったのは,私のゼミの学生が当時地方創生,地域活性化が注目され始めたタイミングで木藤亮太っていう,すごい人がいると日南にいるらしいから会いに行こうってことになったんです。そうしたら,木藤さんは日南での4年間が終わったタイミングで福岡に戻ってこられたタイミングだったんですね。もうあれから少し時間が経過しましたが,当時のことを思い出して頂いて,日南の4年間を経てその前後で福岡の見え方がちょっと変わったと思います。
木藤さんご自身も転勤族のお子さんだったので,その辺りの生い立ちも含めて「福岡で働く」,「福岡に本拠地を置く」というのは地方都市と比較してみて福岡の良さみたいなのが何かあればお話頂けますか?
木藤 そうですね。やっぱざっくりきますね(笑)。私も今村さんと一緒で,子どもの頃,小学校3つ,僕は埼玉で生まれているんですよ。千葉,福島にも行って,中学校2つ行った後に小倉に帰ってきました。なので,そこで初めて福岡・九州でした。そもそも,父親が長崎で,母親が福岡の那珂川なので九州の血だなという感じはしますけど,当時は子供なのでどこで住む,どこで働くみたいな感覚はなかったです。中学校の途中からずっと福岡で暮らして,自然と福岡の大学に入り,福岡で就職したみたいなところは確かにあるかなと今振り返れば気づきます。僕は大学は九州芸術工科大学,今は九州大学(※飛田注:芸術工学部)になっちゃいましたけど,一応デザインを勉強していて,実は若い頃めちゃくちゃかっこいいデザイナーを目指したんですよ。今こんな感じになっちゃっている(笑)。
先生は昭和48年生まれの世代,私はその1つ下の世代なんですけど,ちょうど高校卒業したぐらいにバブルがはじけ,4年経って卒業する大学出るときには就職氷河期が始まりの頃みたいな感じで,でもかろうじてそれこそ東京行った同級生とかもいますよね。だけど九州に残った人もいてっていうので,その当時から経済がこれから悪くなるとか,人口が減ってくるんじゃないかみたいなことをうっすら覚えていたし,子供の頃僕千葉に住んでいたんですけど,小学校5年生のときのつくば万博ではすでに環境問題とかですね,それからオゾン層が破壊されて,何かそれこそ温暖化みたいのが始まるみたいなことを少しインプットされていた時代だったので,そういうものの変化を少し感じていたのかなと。なので,僕はデザイナーを目指していたんだけれども,環境みたいなことに興味がありました。そこで造園とか,何か緑を扱う仕事ってのを最初始めたっていうところがあって。会社に入っていろいろ仕事をしていくと,経済がだんだん悪くなってくるので新しく物を作るっていうのが減ってくる。建物にしても,空間にしても,公共事業もそうですよね。そうなると今あるものをリノベーション的な話だとか,街をもっと元気にしていこう,だんだんと地域に入り込むような仕事になってきました。社会人になってからは基本九州で仕事をしていたので,九州のいろんな地方も含めていろんな「まち」に関わり始めたっていうのが僕のプロセスではあるかな。
飛田 日南に行かれる前の話でいうと,いくつか代表的な仕事があって,僕が印象に残っているのはひとつは金武(かなたけ)の仕事。
木藤 そうです。市の事業で「かなたけの里公園」,福岡市西区の端っこの方の集落があって,農業,ブドウとかも結構有名ですけど,あそこは元々福岡市動物園の移転先の候補地だったんです。市は多分60ヘクタールぐらいのかなり広い土地を買って,そこに動物園を作る予定だったんですよ。当時旭山動物園とかが有名になっていて,自然体験型の動物園作ろうと。でも,市長がその後替わったりする中で,凍結になって結局事業廃止になってしまったんです。その後だいぶ縮小はしましたが14ヘクタールの土地に自然環境を生かした公園を作ろうということで,僕も地域に入りながら金武校区の人たちと一緒になって公園作りをしたっていうのが結構僕の中で大きなターニングポイントです。
飛田 あとよく話に出るのは熊本の五木でしたっけ。ダムの話とかも。
木藤 ダムで沈むはずだった集落の移転代替地ですね。200戸ぐらいが上に移り住むんですけど,その移り住む人たちの環境を作るという仕事をやってましたね。でもあれ結局ダムできなかったんですよ。民主党政権になって「いらない」ってなっちゃって。それでも移転したので,その場所(以前住民が住んでいた場所)はもう真っさらになってるんだけど,ダムはできないという公共事業に翻弄された村がありました。
でも,そうやっていろんな地方に入り込んで仕事をする中で,福岡っていう都会に住んで地方と関わるというコンサルタント会社で働いていたんですけど,自分は「地方の人たちを元気にしよう」と思って行くんだけれども,要は出張じゃないですか。チョロチョロっと打ち合わせして,帰って来る。それを年間何回か繰り返して業務報告書だったり,計画書とか報告書を作って,はい提出しますと。でも,「まちづくり」ってその計画ができてからスタートじゃないですか。僕はそこからが「まちづくり」だと思うのに,会社からは「これ仕事終わったから次の町に行きなさい」って言われるわけですよ。
「俺,何のためにやっているんだろう」と。デザインをする形を作るだけで,あとは地元の人たちでやってくださいみたいな,それって本当の地域作りじゃないよねって思い始めました。それが30半ばぐらいかな。会社入って10年ぐらいたったところで気づき始めて,こんなの仕事じゃないと思ってすごい悩んで,もう毛が抜けるぐらい悩んで,「もう会社やめよう」と思ったときにたまたま日南市が商店街の再生マネージャーを募集していますと。4年間任期でそこに住むってことが前提なんですよ。東京や福岡から通うのではなくて,その要綱を見たときに「したい仕事がここにあるんじゃないか」と思って応募したっていうのが僕の37のときの出来事ですね。
飛田 とは言え,エントリーするにしても,やりたいことはあるけど福岡を離れる,家族を連れて行かなきゃいけないってことに対する思いみたいなのあったんですか。
木藤 そうなんです。条件として住むってことが前提なので,すでに結婚もしていて子供も3人いた。一番下はまだ1歳ぐらいでしたけど,住むとなると自分が単身赴任で行くか,家族一緒に行くかって話になりますね。ちょうど本当に仕事辞めたばっかりだったんで…。
飛田 もう辞めていたんですか(笑)?
木藤 辞めていました。もう先に辞めちゃいましたから,公募見て奥さんに「これ受かったら宮崎に引っ越せなきゃいけないけど,どうする?」って言ったら,「あんたどうせ仕事ないんだから受けてから考えたら」って言われて受けたっていう。
飛田 それはもう奥さんが背中を教えてくださったからですね。素晴らしい!
木藤 その時に333人が応募したので,その中からオーディションが行われることになりました。まず一次選抜から9人に選ばれ,その9人がプレゼンをして。
飛田 その動画はYouTubeに残ってますが,一番アピールしたのは酒を飲めることでしたっけ。
木藤 結果的に僕が選ばれたのは焼酎の継ぎ方が上手。
会場一同 爆笑
木藤 まずプレゼンがあったんですよ。1泊して翌日面接だったんすね。その1泊の間に懇親会があって,9人の候補者と審査員の先生方,商店街の皆さん,それに市役所の人がみんなで集まって飲み会だったんですよ。もちろん結果出る前ですよね。僕も普通に飲んでいましたけど,実はその間もずっと審査が続けられてて,9人がどういう顔して飲むかとか,何の話をするかとか,態度まで見られて。でもね,これ僕なんで選ばれたかっていうと,普通焼酎って大体は若手か,後輩のところにセットがあって,「先輩継ぎましょう。ロックですか?水割りですか?」って作るでしょ?僕,これ大学の頃いつもやっていたので,そのときも結構僕も年下の方だったから,普通にそれやっていただけなんですよ。東京だと焼酎ってお店の人が注いでくるから,自分で作るっていう動きにならない。
会場一同 爆笑
木藤 だから,みんな僕のところにグラスを出すわけですよ。自然とグラスが集まってきて,作ってたら「あいつならやっていけるかも」って言って, 結局僕が選ばれた(笑)
会場一同 爆笑
飛田 九州で生まれ育つっていうのはやっぱ大事なこと大事ですね(笑)。
木藤 九州ならではのコミュニケーションがありますから(笑)。
飛田 で,本当は日南の話も聞きたいんですけど,当時日南という地域にどっぷり浸かっていく中で4年間,「福岡,どうかな」みたいなことを考えたりしたことはあったんですか?
木藤 そのときはもう本当に必死でやっていたんで考えてはないんですけど,僕がプレゼンした動画を確認してもらうと,「4年たったら僕はこの街から福岡に帰ります」とは言っている。それはなぜかと言うと,僕がいなきゃできない事業ではいけない。僕がいなくなってもできるように回っていくような状態にしていなくなるんだ。そのようなことをコンセプトにしていたので,4年経つ頃に地元の日南の方に何て言われたかというと,もちろん「残ってほしい」って言ってくださった方もいたんだけど,僕のことを知っている人であれば,そういう方こそ「お前帰るべきだ」と言ってくれた。この街は自分たちの街だから,君が立ち上げてくれたのはわかったありがとう。でも,今から自分たちでやるよと,君は君の街があるから帰りなさいと言ってくれたっていうのは,何か当時の僕のプレゼンしたことがすごく活きているのかなっていうふうに思います。
みなさん,いかがでしたか?今回は前半戦として,今村さんと木藤さんのキャリアについてご紹介しました。
近年,「まちづくり」という言葉が注目されています。かつては公務員だからできる仕事だったものが,地方創生という言葉の誕生とともに新しい仕事を生み出されました。いずれにしても「まち」を愛する2人が福岡を起点にしてどのようなことを感じていたのかが垣間見えたのではないでしょうか?
後半は木藤さんが福岡のベッドタウンである那珂川に戻られてからの活動,もう1人のゲスト大熊さんのキャリアについてお聞きします。当初は1回の予定がまさかの2回に。ぜひ後半戦もお楽しみに。