「ここはかつて日本一の繊維の街だった」岸井ゆきのが静かに語りかける冒頭シーン映像解禁『わたのまち、応答セヨ』
『わたのまち、応答セヨ』の全国公開が決定。公開に先駆けて本作の冒頭映像が解禁となり、語りを担当した岸井ゆきの、岩間玄監督、土屋敏男プロデューサーよりコメントが到着した。
「繊維の街」にもたらされた奇跡
『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道』(2020年)の岩間玄監督が、「進め!電波少年」などのテレビ界の伝説的プロデューサー・土屋敏男とタッグを組み、愛知県三河・蒲郡市で、かつては活気に満ち溢れた「繊維産業」の今に切り込み、様々な出会いが「繊維の街」に奇跡をもたらす、ド迫力と感動のエンタメドキュメンタリー『わたのまち、応答セヨ』。
トンネルを抜けるとそこには「わたのまち」がある……そう思い込んでいた。「街の繊維産業に光を当てる映画を作ってほしい」と市の依頼を受け、三河・蒲郡市を訪れた監督は途方に暮れた。
1200年前、日本に初めて綿花がもたらされた街。戦後、衣類が不足する中、織れば飛ぶように売れた空前の好景気で朝から晩まで街のあちこちで「ガチャン、ガチャン」と音が鳴り響いていた。しかし、かつての活気は失われ、織機の音も聞こえてこない。
そこにあるのは、街の構造的な問題と人々の諦めムードだった。ここに描くべき希望があるのか? 映画制作は難航を極める。そんな中、わたを種から育て紡ぐ80歳の職人と出会い、映画作りがその職人の背中を押し、街を揺さぶり、人々の眠っていた情熱が燃え上がっていく。そして、舞台は蒲郡からロンドンへ怒涛の如く展開し、日本のモノ作りの本気が、海を越えて人々の心を掴み、「繊維の街」に奇跡をもたらす。
2020年、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」でデビュー、世界にインパクトを与えた映画監督・岩間玄が、「進め!電波少年」などのテレビ界の伝説的プロデューサー・土屋敏男とがっぷり四つに組んで贈るド迫力と感動のエンタメドキュメンタリー。
映画制作に苦闘する二人はやがて「モノ作りとは何か?」という自らの覚悟をも試される展開を迎えていく。語りは『ケイコ 目を澄ませて』(22)で第46回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞ほか数々の賞を受賞した岸井ゆきの。
作り手の想いが伝わる映像
公開に先駆けて本作の冒頭シーン映像が解禁された。
「トンネルを抜けると、そこには綿のまちがある、そう思い込んでいた。でも広がっていたのは潮騒と身を切るような風の音」という岸井ゆきのの語りにのせて映し出されるのは、愛知県三河・蒲郡市の風景。
海がみえる遊歩道では子供たちが遊び、住宅地が湾を取り囲むように広がる、どこにでもある地方都市の風景である。
「ここはかつて日本一の繊維の街だった、本当だろうか」と監督たちの思いが代弁され、「繊維の街で、繊維の希望を描く、そんな映画を作るつもりで、この街を訪れた。今は機織りの音ひとつ聞こえてこない。私たちは途方にくれていた」と作り手の戸惑いが素直に語られる。
そして続くのは「しかし、まだ知らなかったのだ。この風の先に、とんでもない物語が待ち受けていることを。」という言葉。観客が、このドキュメンタリーを通して思いもよらない出来事の目撃者となることを示唆していく。
冒頭シーンから岸井ゆきのの語りが印象的だが、今回、岩間監督は岸井ゆきのへ“語り”を依頼した理由について「彼女の生声を直に聞いたのは11年前のことだ。小さな劇場での朗読劇。幕が開いてセリフが呟かれた瞬間、鳥肌が立ったのを覚えている。この声は一体?沈黙の闇にロウソクを灯すような、不思議で温かく懐かしい、「巫女の歌声」のような響きだった。今回彼女にこうお願いした。これはナレーションではなく“語り”なのだと。彼女は見事にこの物語を語ってくれた。巫女の歌声で。この人に頼んでよかったと心底感動した」とコメントし絶賛している。
コメント全文
岸井ゆきの、岩間玄監督、土屋敏男プロデューサーよりコメントが到着した。
岸井ゆきの(語り)
かつて、日本一の繊維の街だった愛知県三河地方のものがたり。
“三河の綿”と共に旅をし、海を超え、最後に奇跡みたいなほんとうの瞬間に出会います。
情熱で紡がれた歴史は、いつか奇跡になり得るのだと何度も胸が熱くなり、夢中で彼らを追いかけていました。
そしてうつくしい三河の綿の歴史がこれからも鮮やかに続いていきますように。
岩間玄(監督・撮影・編集)
「目を凝らせ、耳を澄ませろ」と、綿の神様が僕らに告げた
「写真なんて写ればいいんだから、写ればしめたものよ」
これは前作、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」で追った世界的写真家の森山大道さんが僕に言った言葉だ。「写ればいいんだから」というのは、もちろん森山さん一流のジョーク(しかし半分本気)だ。ただ言いたかったことはよく分かる。「どんなカメラで撮るかじゃない。何を撮るか」なんだと。何を撮るか。そしてそれをどう撮り続けるか。そのことに集中しろ、と言いたかったのだ。その言葉を思い出しながら来る日も来る日も蒲郡を訪ねたが、映画制作は難航を極めた。「何を撮るか」の「何を」がどうしても見つからないのだ。単なる企業紹介映像ならそんなに難しいことじゃないが、街の希望を描くためには、一度真正面から絶望と現実に向き合うしかないのではないか。森山大道さんの言葉を噛み締めながら、「何が写れば映画になるんだろう」と自問自答していた。迷子になり、被写体を見失って・・・僕はほとんど挫折しかけていた。
ある日いつものように市内を走り回っていた時、「綿の神様」が突然僕に囁いた。目を凝らしてみろ、耳を澄ませろ。描くべきものは、ほら、そこにあるじゃないか。お前の足元に。気づくと僕は、1200年の綿文化の歴史のど真ん中に放り込まれていた。
歴史の渦の中に、この映画の存在自体が巻き込まれていることを知った。
もう迷っている場合ではなかった。
そして・・・撮り続けたその先に、想像を絶する“奇跡”が待っていた。
土屋敏男(企画・プロデュース)
浅薄なプロデューサーと愚直な方法にこだわった監督が作った奇跡の映画
「蒲郡の繊維産業についての映画を作りませんか?」と地元のケーブルテレビの方から言われてすぐさま「やります!」と答えた。僕はいつもとりあえず返事してから何をやるか考える。製作発表の記者会見で「お客さんに見てもらう映画なのか?(蒲郡の)プロモーション映画なのか?」と記者の方に聞かれた時も「半々ですかね」とか適当に答えた。しかしそう答えた瞬間に岩間玄監督から『プロモーション映画を撮るつもりはないですよ』という心の声が聞こえてきた。その日から監督は蒲郡で聞き続けた。「三河木綿ってなんですか?」何日も何週間も何ヶ月も。そしてある日L I N Eが来た。「ようやく納得できる答えを見つけました!」
浅薄なプロデューサーと愚直な方法にこだわった監督の組み合わせではあったが一つだけ意見が一致していることがあった。それは「本物が本気になっていることだけが映画になる」ということ。だからその時「本物の本気」を遂に見つけたのだなと思った。監督の愚直さがこの後の「奇跡」を引き起こしたのだと間違いなく思う。いやこの映画を作るという思いの愚直さが「本物の本気」も引き出したのだ。最初に「やります!」と気楽に答えた日から11ヶ月後、僕と監督はロンドンにいた。そこでとっておきの奇跡が待っていた。
「わたのまち、応答セヨ」は一人の監督の愚直さに“わたの神様”と“映画の神様”が微笑んだ奇跡の映画なのです。
『わたのまち、応答セヨ』は5月2日(金)新宿シネマカリテ ほか全国ロードショー