恋愛未経験であることも「自分らしさ」に。韓国で広がる新しい恋愛観【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」
人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます
流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。
第1回から読む方はこちら。
#14 모쏠(モッソル)
「모쏠(モッソル)って、今どきの若い子にとっては、ネガティブなイメージだけじゃないんだよね」
韓国人の友人のこの言葉に、はっとした。모쏠(モッソル)とは「모태솔로(母胎ソロ/モテソルロ)」の略語で、お母さんの胎内にいる時からソロ、つまり生まれてこのかた一度も恋愛経験がない人を指す。
笑いのネタにされたり、自虐のラベルとして使われたりすることが多いこの言葉だが、最近では、とくに若い世代を中心に、その言葉の印象が少しずつ変わりつつある。
そんな空気を象徴するようなシーンを、最近ある韓国ドラマで目にした。
登場人物のひとりが少しうつむき加減に「私、모쏠(モッソル)なの……」と悲しそうに打ち明ける。恋愛経験がないことに、どこか引け目を感じているようだった。ところが話を聞いていた友人は、すぐに明るい声で言い返した。
「えっ、それがあんたの選択でしょ? いいんじゃない?」
軽やかで、迷いのない口調だった。それを聞いてふと思った。恋愛しないという生き方は、いつからこんなにも自然なものになったんだろうと。
今回は모쏠(モッソル)という言葉を手がかりに、韓国の若者たちの恋愛観の変化を探ってみた。
「推し」がいれば、恋人はいらない?
모쏠(モッソル)は、2000年代半ばにネット掲示板で使われはじめた韓国特有の造語だ。2009年ごろにバラエティ番組などを通じて定着したとされている。
「モッソル歴◯年」といった自虐ネタとして使われ、「脱モッソル」が一種の通過儀礼のように語られている。「いつまでモッソルなの?」「恥ずかしくないの?」という空気のなかで、多くの若者は“恋愛していない自分”にどこか後ろめたさを抱いてきた。
けれど、その空気が徐々に変わりつつある。恋愛をしないことに対するネガティブな意味合いが、少しずつではあるが、薄れてきているのだ。その背景には、いくつかの社会的・文化的変化がある。
まず、K-POPやアイドル文化の影響で「推し活」が定着したことが大きい。
韓国では「최애(最推し/チェエ)」の存在が、日々の活力になっている人が少なくない。推し活は、他人との複雑な感情のやりとりや気遣いを必要とせず、自分のペースで楽しめる。そしてその関係性は、ある意味で恋愛よりもずっと健全で、自己肯定感につながりやすい。
推しのライブに行き、グッズを集め、同じファン同士でつながる。そこには恋愛のような駆け引きや不安はなく、純粋な応援と感動がある。「推しがいるから恋人はいらない」という気持ちも分かる。
若者たちが重視する「感情の省エネ」
そして、「他人とどう付き合うか」よりも「自分がどんな人間か」に興味を持つ若者が増えてきたことも無関係ではない。その背景には、性格診断ブームの影響がある。
韓国では、自分や他人の性格を「16タイプ」に分ける性格診断が、最近は少し下火になったものの、いまも流行っている。「あの人とはタイプ的に合わない」「私は感情型だから論理型の人とは相性が悪そう」――関係性を築く前に自己分析をもとに判断し、無理な恋愛はしないという意識を持つ人も出てきた。
さらに重要なのが、「감정노동(感情労働/カムジョンノドン)」という概念の浸透だ。もともと接客業などで「感情を抑えて対応する苦痛」を指す言葉だったが、いまでは恋愛や人間関係にも広く使われている。
恋人からのSNSにすぐ返信しないと、怒られるかもしれない。記念日にはサプライズやプレゼントを用意しなくてはならない。愚痴を聞き、恋人の嫉妬や不安にも対応しなければならない。
「それ、もう“仕事”じゃない?」
そんな声も聞かれる。恋愛が「労働」になってしまった時代。とくにコロナ禍以降、人づきあいに疲れてしまったZ世代は、「気楽な関係」「感情の省エネ」を重視するようになった。
その流れのなかで、「恋愛しない」あるいは「できない」人たちの選択が、否定されなくなってきたのだ。
恋愛未経験という「個性」
YouTubeやInstagramには、모쏠(モッソル)であることを恥じずに堂々と発信する動画や投稿が増えてきた。「同じ立場の人にエールを送る」「脱モッソルを面白がる」ような日常Vlogには、むしろ余裕と自信がにじむ。
「モッソルです」と言って笑えるのは、それを恥と感じない社会的変化があるからだ。恋をしていないこと、恋をしてこなかったことを、他人と比べるのではなく、自分の物語として語る。それは決して特別なことではなく、むしろいまの若者たちにとって「ふつうのこと」になりつつある。
最近では「どうしてモッソルなの?」といった問いそのものが、少しずつ過去のものになってきている。恋愛経験の有無を「人間としての成熟度」と結びつけるような価値観は薄れ、モッソルは恋愛初心者として、温かく理解されるようになってきた。
YouTubeやウェブトゥーンでは、モッソル脱出をテーマにしたストーリーが描かれることも多い。そこに流れる空気は、以前のような自虐ではなく、「いつか恋をするときのために、いまは自分を大事にしている」という肯定的な視線だ。
恋愛に疲れた若者たち
では、そうした若者たちは恋愛そのものを完全に放棄しているのだろうか。
答えはノーだ。韓国でもマッチングアプリの利用率は年々上がっている。特にコロナ禍以降、直接の出会いが減ったことで、アプリ経由で知り合うカップルは珍しくなくなった。友達作りにも使える「WIPPY」や20~30代の定番「GLAM」など韓国発のサービスは多いし、日本で有名な「Tinder」も多くの若者に利用されている。
ただし、出会いの数が増えたからといって、すぐに交際に発展するとは限らない。マッチしてもメッセージのやり取りが長く続かない、会ってみてもピンとこない――そんなケースが多く、恋愛に至るまでの「労力」を考えると、やっぱり疲れてしまうのだ。
「最初から全部説明しないといけないのが面倒」
「気まずくなるくらいなら、最初から距離を保ちたい」
そんな声が、アプリ利用者のあいだでも聞こえてくる。出会いたい気持ちはある。でも深く入り込みすぎたくない。そんなジレンマが現代の恋愛観の中心にあるのだ。
男女で異なる恋愛観
興味深いのは、個人差はあるが、性別によっても傾向に違いがあることだ。
女性の場合、「恋愛にあまり関心がない」「理想が高い」「家で過ごすのが好き」など、自分の時間を優先するスタンスが多く見られる。経済的に自立した女性が増え、恋愛や結婚に頼らない生き方を選択する人も少なくない。
一方で男性の場合は、「恋愛したい気持ちはあるのにチャンスがない」「異性との接点が少ない」といった悩みを抱える人が目立つ。恋愛は男性から積極的に動くもの、という韓国社会の暗黙の期待が、彼らにとってプレッシャーになっているのかもしれない。
日本でも「恋愛しない若者」が話題になることがあるが、背景には微妙な違いがある。
日本では「草食系男子」「非モテ」「こじらせ女子」といった言葉が早くから使われ、どこか自虐的なニュアンスを含んでいた。恋愛を「して当たり前」とする社会の中で、うまく恋ができないことを“ネタ”にして笑い飛ばす文化があった
一方、韓国では「모쏠(モッソル)」が笑いのネタになることもある一方で、そのような状態から「早く脱出せよ」という圧力が強かった。「母胎ソロ」というあまりにも直接的な表現が、恋愛未経験であることは恥という強迫観念を植えつけてきた面もある。
もちろん、年上世代や一部の場面ではいまだに「恋愛経験ゼロ=劣等感」と受け止められる空気も残っている。しかし、次第にその圧力が少しずつ弱まっている。恋愛しない生き方、パートナーを持たない人生にも、静かに光が当たるようになってきた。
韓国社会が多様性を受け入れ始めた証拠といえるかもしれない。
恋愛だけが人生ではない
いま、私の机の隣には、オカメインコの「かぶり」がいる。恋愛をしない人たちの気持ちが分かるのは、彼が私の隣にいてくれるからかもしれない。
四六時中一緒にいるわけではない。気まぐれに近寄ってきて、急にそっぽを向いたり、名前を呼ばれると得意げに羽をふくらませたり。そんな不器用で自由な生き物と暮らしていると、「好きってこういうことかも」と思う瞬間がある。
恋愛だけが人生の主役ではない――そんな価値観がようやく世代を超えて、少しずつだが、広がってきたように思う。韓国で모쏠(モッソル)という言葉が肯定的に語られるようになったのは、若者たちが自分らしい生き方を見つけ始めた証拠なのかもしれない。
※「本がひらく」での連載は、毎月10日と25日頃に更新予定です。
プロフィール
金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。
タイトルデザイン:ウラシマ・リー