やなせたかしが語った、手塚治虫の「圧倒的天才っぷり」
長編アニメ『千夜一夜物語』の制作現場で、初めて手塚治虫氏と机を並べ、「天才的な仕事ぶりに驚愕した」というやなせたかし氏。
自伝『人生なんて夢だけど』では、手塚氏と自身について、「神様と毛虫、月とスッポン」と書いています。
一緒に旅行をしたこともあり、テレビ番組で共演したこともあったという二人の交流には、忘年会での宴会芸や絵本の会での親密な時間、そしてアニメ制作現場での葛藤と感動といったエピソードが詰まっています。
今回は、やなせ氏と手塚氏の交流エピソードを紹介します。(以下敬称略)
漫画界の地図を大きく塗り替えた手塚治虫
1947年1月、大阪の「育英出版」から刊行された手塚治虫の『新宝島』は、40万部を売り上げる大ヒットとなり漫画界に衝撃を与えました。
すい星のごとく現れた手塚治虫に、子どもたちは夢中になります。
子どもたちにとってあこがれの存在となった手塚でしたが、既成漫画家たちは邪道だと酷評し、その功績を認めませんでした。
そんな手塚を、やなせたかしはどう見ていたのでしょうか。
「手塚治虫」という名前は知っていたものの、彼の活躍は別世界の出来事だと思っていたそうです。
やなせの目指していた漫画家とは、当時所属していた「漫画集団」に名を連ねる大御所たち。
芸術的な「大人漫画」を描きたいと思っていた彼には、手塚の描く子ども向けの漫画は眼中になかったのです。
1952年に上京した手塚は、『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』といったヒット作を連発。
1954年には、関西の長者番付・画家部門でトップに輝き、26歳にして売れっ子漫画家の仲間入りを果たしました。
ところが、時代が移り変わり、劇画ブームが到来すると「手塚治虫は時代遅れ」と言われ、ノイローゼになったことがありました。
そんな手塚の苦悩する姿に、やなせは深い共感を抱いていました。
「無名と有名の差はあるし、収入も天と地ほど違っていても、自分の走るレールはよく見えず、脱線転覆しそうになりながら、ただシャニムニ走っていたのと、考えてみれば同じようなものである」
『アンパンマンの遺書』より
時代の寵児となっても悩み、もがき続ける手塚治虫に、やなせは進むべき道が見えず、ただがむしゃらに走り続けていた自分の姿を重ねていたのでした。
「漫画集団」で同じ時を過ごした二人
1954年、やなせは漫画家の団体「漫画集団」に参加します。
この集まりは、漫画家同士の親睦を深める役割も担っており、1950年代から70年代にかけては、旅行や忘年会など、にぎやかなイベントが盛んに行われていたそうです。
中でも箱根で行われる大忘年会には、大勢の漫画家が参加し、夜通し大宴会が繰り広げられました。
忘年会では、宴会芸の披露が恒例となっており、太鼓の演奏、どじょうすくい、さらには裸踊りまで、個性豊かな名人芸が次々と飛び出します。
一方で、少女の格好で童謡を歌った谷内六郎が貧血で倒れ、赤塚不二夫が下ネタ全開の芸で警察沙汰になるなど、ハチャメチャな一幕もあったようです。
そんな赤塚について、やなせは「宴会芸にも全力で臨む、真面目で一途な人」と評しています。
ちなみに、手塚はアコーディオンやピアノを演奏したそうです。
年に一度ハメを外して一晩中大騒ぎする忘年会は、やなせにとって、漫画家同士が語り合える貴重な時間でもありました。
手塚の圧倒的な才能に驚愕『千夜一夜物語』
「今度、長編アニメ(千夜一夜物語)を作るのですが、美術監督をお願いできませんか?」
そんな突然の電話が、やなせのもとにかかってきたのは、1967年の秋のことでした。
一応、顔見知りではありましたが、人気絶頂の手塚が、なぜ畑違いの自分に依頼してきたのか、やなせには皆目見当もつかなかったそうです。
とりあえず仕事を引き受けてはみたものの、アニメの世界は右も左も分からない全くの素人。
一から教えてもらいながら、キャラクターデザインの仕事をこなしていきました。
キャラクターのイメージは次々に浮かび、「自分にはキャラクターデザインの才能があるのかも」と思っていた矢先、やなせは壁にぶち当たります。
蛇島に登場する裸の女性たちが描けないのです。ストーリーをもったキャラクターであればなんとか描けるのですが、その他大勢となると全くイメージが浮かびません。
困り果てているやなせを見かねて、手塚はそのシーンのキャラクターデザインも絵コンテも、すべて自ら描き上げました。
「それにしても手塚治虫の天才っぷりは素晴らしかった。机を並べて描いていた時には、あまりの凄さに声も出ないくらいでした。羨ましいなんて思うのも僭越で、愛らしくって魅力的。絵を描くスピードは百万馬力!誰にも真似できません」
『わたしが正義について語るなら』より
手塚の圧倒的な才能に、ただ舌を巻くばかりのやなせでした。
「漫画家の絵本の会」で交流を深めた二人
1973年、『詩とメルヘン』を創刊したこの年、やなせは「漫画家の絵本の会」を立ち上げ、気の合う漫画家たちが集まりました。
馬場のぼるや長新太、手塚治虫といった、そうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしたこの会で、最年長のやなせは仲間から学ぶことがたくさんあったそうです。
何よりも手塚と親しくなれたことが、やなせにとって大きな財産となりました。
手塚は、忙しいスケジュールの合間をぬって展覧会に作品を出品し、サイン会にも参加。
会場にはファンが押し寄せ、活気に満ちた華やかな雰囲気になりました。
そして、手塚自身もまたイベントをとても楽しんでいる様子だったといいます。
その理由についてやなせは、有力な新人に対して激しいジェラシーを抱くこともあった手塚にとって、
「絵本の会の仲間は、みんな手塚治虫の競争相手ではなかったから、気を許していた」
『アンパンマンの遺書』より
と考えていました。
1989年2月9日、手塚治虫は60歳でこの世を去りました。
手塚が亡くなったとき、やなせは69歳。
手塚の晩年の作品の中では『アドルフに告ぐ』が一番好きで、夢中になって読んだそうです。
コミック雑誌に一度も漫画を描いたことのないやなせたかしと、「漫画の神様」と称された手塚治虫。
同じ土俵に上がることのなかった二人は、良好な関係を築いていました。
「ぼくはあんなに笑顔のいい人を他に知らない。」
『アンパンマンの遺書』より
「絵本の会」での手塚をこう綴ったやなせ。
彼が天才・手塚治虫を思い出すとき、いつもとびっきりの笑顔を浮かべていたのかもしれません。
参考文献
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』フレーベル館
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店
やなせたかし著『わたしが正義について語るなら』ポプラ社
文 / 草の実堂編集部