ルイーズ・ブルジョワ | 心の痛みや怒りを叫ぶ芸術家の人生と代表作品
六本木ヒルズの広場に、大きなクモの形をしたブロンズ彫刻があります。名前は『ママン』。高さは9メートルを超え、お腹には大理石でできた卵がいくつもついています。とてもインパクトのある作品です。 この彫刻をつくったのは、フランス出身で70年以上ニューヨークで活動した世界的なアーティスト、ルイーズ・ブルジョワ。
ブルジョワの作品は、どれも自分の人生をもとに作られたもの。彼女の人生は壮絶なものでした。創作は「少女時代に父から受けた心の傷」を乗り越えるための手段だったのです。
この記事では、
・ルイーズ・ブルジョワの生い立ちとそれがどのように彼女を創ったのか
・ルイーズ・ブルジョワ代表作品
・ルイーズ・ブルジョワの作品展情報
彼女の人生を知ることで、作品から感じられる魂の叫びをより深く体感できます。最後まで読んでみてください!!
ルイーズ・ブルジョワの生い立ち:生まれながらに「望まれなかった命」
ルイーズ・ブルジョワ:Oliver Mark - Louise Bourgeois, New York 1996.jpg
「女の子はいらない」と言われて育ったルイーズ・ブルジョワ
ルイーズが生まれたのは1911年のクリスマスの日。家族がパーティをしているときに、彼女は母ジョセフィーヌ・フォリオの部屋で生まれました。医師がジョセフィーヌに最初に言った言葉は「残念です」。それは死産だからではなく、「生まれたのが女の子だったから」でした。
ルイーズの父ルイ・ブルジョワは「男の子が欲しい」とずっと望んでいました。そのためにジョセフィーヌに相当なストレスを与えていたそう。「私が生まれたとき、父と母は猫と犬のように激しく争っていました」(ルイーズ)。女の子が生まれたことで聖なる雰囲気が一転し重たい空気に。ルイーズは「いらない子」として育てられていきます。
血のにおいと叫びの中で育った幼少期
第一次世界大戦が始まり、父が戦場へ行くと、ルイーズたち家族は田舎に避難します。向かいの食肉処理場からは動物の叫び声が聞こえ、近くの線路ではけがをした兵士たちのうめき声が響いていました。ルイーズは、そうした“戦争の音とにおい”の中で幼少期を過ごします。
ルイーズの母・ジョセフィーヌ:ただの「産む女」ではなく「一人の妻」として、はじめて尊重されるようになった
ブルジョワ家はタペストリーの修理工場を営んでいました。戦後、徴兵されていた父ルイが戻ってきたのち、パリ郊外のアントニーに家を構え、タペストリー工場を復活させます。
母ジョセフィーヌは、このタペストリー工場を成功させ、自らが責任者として手腕を発揮したことで、父ルイに初めて尊重されるようになりました。
それまでは家庭内で「子を産む存在」としてしか扱われていなかったジョセフィーヌが、経営の実力を発揮することで、夫から人として・女性として、初めて対等に見られるようになったのです。
このことは、当時の女性にとっては大きな意味を持ちました。ジョセフィーヌが25人もの従業員をまとめ、工場を軌道に乗せたことで、支配的で女性に価値を認めない夫ルイが、ようやくその見方を変えたのです。
傲慢な父と受動的な母…ルイーズ・ブルジョワが感じた家庭内のストレス
Father and son fountain :Father and son fountain 0458.JPG
ルイーズの父は美貌をもつ人でした。外では紳士的にふるまっていましたが、家では異常なほど家族を支配しています。食事中に勝手に話すと物を投げられることがありました。食事後には子どもたちに一人ずつ詩を披露させます。ルイーズは緊張感のある毎日を過ごしていました。
「いらない子」であるルイーズは、ある日激しく侮辱されます。父はオレンジの皮で女性の形を作り、それをルイーズになぞらえて皆の前で笑いました。ルイーズは「私は女だから父に認められない」と、深く傷ついたのです。
父への怒りを作品に変えていった
ルイーズが11歳のとき、父は18歳のイギリス人女性サディ・ゴードンを家庭教師として雇います。
しばらくしたのち、父はとんでもない行動を起こしたのです。母ジョセフィーヌを寝室のベッドから追い出し、サディを入れたのです。ルイーズは自分と7つしか離れていない女性が目の前で父の愛人となるのを見ることに。母はそれを受け入れ、サディはブルジョワ一家と一緒に暮らすようになりました。
ルイーズは、自分たちの家庭が「壊れていく」と感じ、強い怒りと混乱を抱えました。「女性は簡単に取り替えられるもの」という考えが、彼女の心に深い疑問を残します。
ルイーズ・ブルジョワの絵の才能を見つけたのは母
タペストリー工場では、古いタペストリーを修復しています。壁にかけられるタペストリーはそこに描かれている人間や動物の足の部分が擦れてしまうことが多かったようです。
絵が好きでだったルイーズは、工場を経営していた母から「そんなに絵を描くのが好きなら、タペストリーのスケッチをしてみたら?」と、修理依頼品の絵の下書きを任せられます。
ルイーズは「自分が役に立てる」と一生懸命描くようになりました。依頼主や工場の人から「娘さんのスケッチは素晴らしいですね」と言われることがしばしばあったそうです。
「私は足を作るのが一番得意なのよ」―「いらない子」が「一家の役に立っている」ことへの喜びは、ルイーズが世界的に有名になってからの彼女の言葉からも伺えます。
勉強からアートの道へ進むルイーズ・ブルジョワ
パリ郊外にあるルイーズ・ブルジョワの記念プレート:Plaque Allée Louise Bourgeois - Clamart (FR92) - 2023-02-05 - 2.jpg
ルイーズは1929年、名門大学であるソルボンヌに入学。このことで、父のルイーズに対する態度が一変します。ルイーズを尊重するようになったのです。手のひらをかえす父をみて、「姉や弟より能力が高い私に、父は敬意を払った」と彼女は感じました。
しかし、ルイーズが勉強している理由は「認められるため」以外にありません。そんな動機でいることに、彼女は不安を膨らませていきました。数学を勉強していましたが、母の死をきっかけに美術の道に進みます。
ルイーズがアートを学ぶことに、父は大反対。父は彼女への仕送りをやめてしまいました。家業のタペストリー工場の経営に役立たない勉強など、無駄だと思ったのでしょう。
ルイーズは家を出て、ルーヴル美術館で働きながらアートを学び続けました。
ルイーズの人生を変えた「6週間」
彼女は父のタペストリーギャラリーの一部を借りて、自分の小さなギャラリーを開きました。そこにはモディリアーニ、ボナール、ピカソなどの作品の版画やデッサンも展示されていたそうです。
ある日、そのギャラリーのウィンドウに飾られていたトゥールーズ・ロートレックの版画が、ある男性の目に留まります。ギャラリーに入ってきたのは、後に彼女の夫となる美術史家ロバート・ゴールドウォーターでした。
彼との出会いは1938年8月頃。すぐに意気投合した2人はランチに行き、すぐに結婚。わずか1か2ヶ月後の10月12日にはニューヨークに移住していました。たった6週間で、ルイーズの人生はまるっきり変わったのです。
アメリカで育まれたルイーズ・ブルジョワの芸術家キャリア
ルイーズは、ロバートとの出会いが、自分にとって「フランスの家庭環境や社会から抜け出す道」だったと感じていたようです。
彼女は後に、「もしフランスに残っていたら、芸術家にはなっていなかったかもしれない」とも語っています。「自分の本当の作品はアメリカで生まれた」とも話していました。
アートに込められた父への思い
アメリカでの生活が始まったブルジョワは、最初は家や木、女性などをテーマにした絵を描いていました。1951年に父が亡くなり、その後10年以上もカウンセリング(精神分析)を受けたことで、父との関係と真剣に向き合うようになります。
1960年代後半には、男女の関係や父に対する複雑な気持ちをストレートに表す作品も増え、中には男性器を切断したような表現のものも登場しました。そうした作品は一見ショッキングですが、彼女にとっては自分の過去の苦しみを外に出す、ある意味「心を癒すための作業」だったのです。
ゆっくりと進展していくルイーズのキャリア
ニューヨーク原始美術館の初代館長だった夫ロバートは1973年に亡くなります。彼はルイーズのアーティストとしての地位を確立する姿をみられませんでしたが、彼女はとてもゆっくりと進展していきました。
そして1982年の回顧展をきっかけに大きな飛躍を遂げます。
彼女は人生の最後の20年間に、「セル」と呼ばれる不気味な部屋のような空間をいくつも作るために多くのエネルギーを注ぎ、最後の作品を完成させた1週間後に心不全で98年の生涯を終えました。
ルイーズ・ブルジョワ「ママン」巨大なクモの彫刻
ママン:Giant spider strikes again!.jpg
「クモは母への賛歌(=ほめたたえる気持ち)です。母は私の親友で、クモのように織物の名人でした。母はタペストリー工房の責任者で、とても頭のいい人でした。クモは蚊などを食べてくれる“いい存在”で、母も私を守ってくれる存在だったんです。」
ルイーズにとってクモは、優しくて頼もしいお母さんのような存在だったのです。
さらに彼女は、こうも言っています。「クモが体の中から糸を出して巣を作るように、私は作品をつくることで自分の心の中にあるつらい気持ちを出しているんです。」
この言葉から、ルイーズの作品には「母への愛」と「自分自身の感情」が深くこめられていることがわかります。
愛や怒りも、すべて作品に変えるルイーズ・ブルジョワ
ルイーズの作品には、男女の関係や性(セクシュアリティ)に関するものも数多くあります。作品『カップル』では、2人の人物が抱き合いながらもどこか不安定な姿で表現されており、「つながりたいけれど不安」という複雑な感情を感じることができます。
父との関係をテーマにした『父の破壊』という作品では、娘と母が父を殺して食べてしまうという想像の世界が描かれ、ブルジョワの中にあった深い怒りと愛が入り混じった複雑な気持ちが表現されています。
参考:Spider Couple(2003)
傷ついたままの感情をどうにか形にすること
ルイーズはアートの世界で注目されるようになりました。しかし彼女は「評価されること」や「称賛されること」に違和感を抱いていた人だったのです。
ルイーズにとって、作品で表現したいことは「認められること」ではなく、「拒絶されること」や「傷ついたままの感情をどうにか形にすること」。
彼女は「好かれるために作品をつくった」のではなく、「自分の心にある痛みや怒りを表に出すために作品をつくった」アーティストでした。
参考: Cumul I(1968)
最近開催されたルイーズの作品展(森美術館)
100点以上の芸術作品が展示されていた
2024年9月から2025年1月まで、六本木ヒルズにある森美術館でルイーズの展覧会が開催されていました(「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」)。
ルイーズの作品展が日本で行われたのは、実に27年ぶり。この展覧会では、日本で初公開となる作品を含む、約100点以上の作品が展示。彫刻、絵画、ドローイング、インスタレーション(空間全体を使った作品)など、70年以上にわたるルイーズの創作活動の軌跡をたどることができました。
故中山美穂さんが亡くなる前日にルイーズの作品をSNSで公開
2024年12月5日、女優中山美穂さんが亡くなる前日にルイーズの遺物をInstagramで公開しており、そこには「2、3日心がえぐられて、一緒に行った友としか会話ができなかった。写真下手だけど、上手くてもなんにも表現できない」と書かれていました。これを投稿した翌日、彼女は謎の死を遂げていました。Instagramの投稿には隠されたメッセージ性があるのではないかと言われています。
開催中のルイーズ・ブルジョワの巡回展(台湾)
森美術館で行われた作品展は、現在場所を台湾に移し展示されています。
【場所】富邦美術館(台湾)
【開催期間】2025年3月15日〜2025年6月30日まで
富邦美術館公式HP
まとめ
ルイーズ・ブルジョワの作品は、痛みや怒り、そして母への深い愛といった彼女自身の記憶と感情から生まれたものでした。望まれずに生まれた少女が、家庭の支配や裏切りを受けながらも、心の傷をアートへと昇華していく……。その人生は、まさに「魂の叫び」そのもの。
彼女の作品を前にすると、誰もが自分の心の奥にある感情と向き合うことになります。ルイーズの作品は、ただの芸術ではなく、誰かの傷を癒す力を持っているのかもしれません。