危機だと言われて30年──日本のクラシックはどこから来て、どこへ向かうのか?
曲がり角に立つ日本のクラシック。それでもなぜクラシックは日本で必要なのか? 考えるヒントは歴史にある。文化事業の最前線に立つ著者が、 明治の黎明期から「世界のオザワ」の戦後まで、興行としての音楽芸術の発展史を、世界各国の事情と比較しながら鮮やかに活写。芸術とビジネスが交差する場所を求め、これからクラシックが進むべきビジョンを問う。
渋谷ゆう子『揺らぐ日本のクラシック 歴史から問う音楽ビジネスの未来』より抜粋して公開。
『揺らぐ日本のクラシック 歴史から問う音楽ビジネスの未来』はじめにより
日本にはクラシック音楽が満ち溢れている。
カフェやレストランで、駅の発車音楽として暮らしの中に溶けこみ、今日も全国各地でコンサートが開かれている。
反面、これまでに何度「クラシック音楽の危機」「音楽文化の喪失」といった言葉を見聞きしただろうか。これらのネガティブな言葉の数々は、新聞や音楽雑誌、ネット記事から個人ブログまであらゆる媒体で語られ、不穏な空気となって随分と長くこの国を覆っている。特にコロナ禍ではオーケストラが観客に直接演奏を届けられない事態に陥り、コンサートは延期・中止され続け、団体の存続が危ぶまれただけでなく、実際に廃業に追い込まれた演奏家すらいる。
2020年から数年のこうした〝崖っぷち〟状況はなんとか脱出できた現在ではあるが、もともと存在していた「危機的状況」は未だそこにあると言われ続けている(もうかれこれ30年は続いているので、もはや通常運転ではないかとも思えるが)。
一方で、クラシック音楽にはハイソサエティな印象が先行し、あたかも経済的に潤い続ける、上級で閉鎖的なものだというイメージも根強くある。クラシック音楽の世界は一般人には遠いもので、特権階級の文化であるとさえ認識されているふしがある。
例えば某人気テレビ番組の、数十万円のヴァイオリンと、数億円以上の値段がつけられたストラディバリウスの音色を聴き比べるコーナーもそのひとつだ。こうしたコンテンツは「音の違いがわかること=上級な知識人の嗜たしなみ」という認識を植え付け、特別感を際立たせる。あるいは、元日にNHKで生中継されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートの華やかさや、そこに集まるVIPたちの顔ぶれから、一般人とかけ離れたイメージが持たれることもあるだろう。そのウィーン・フィルが舞踏会を催し、御伽話のような煌びやかなワルツを正装で踊ることもまた、ある種の裕福さのイメージを際立たせてもいるだろう。オーストリアでは全ての舞踏会がVIPのためのものではなく、市民が気軽に参加できる伝統があるのだが、日本でそのことはあまり知られていない。
さらにSNSでは「クラシック音楽は敷居が高い」かどうかが定期的に話題にのぼる。
ひと口に敷居といっても、チケット代が高いことなのか、楽曲に対する理解の困難さについてなのか、はたまた単なるイメージだけのものなのか、議論は多岐に渡る。そして、枝葉に議論が分かれたうえに誤解とねじれまで生じて、着地点がないまま霧散し、また数ヶ月経つと同じ話題が蒸し返される。
さらに不幸なことに、その言い争いをクラシック音楽に少し興味を持ち始めた人たちが不用意に目にしてしまい、気がそがれる要因になってしまう。せっかくその高そうな敷居を跨ごうとする人がいても、早々に出端をくじかれてしまうのだ。こうしてますます新規参入者を遠ざける、笑えない負の連鎖が繰り返されているところさえある。
とはいえ高級でハイソサエティであるという印象は、あながち間違いではない。ある意味本質の一部である。クラシック音楽には、貴族文化の後ろ盾のうえに、競うように作曲家たちが創作を行ってきた歴史があるからだ。そうして生まれた音楽を最初に享受できたのが王侯貴族であったことは間違いなく、経済的に成功した新興市民によって広く発展していったのは、もう少し時代が下ってからであった。
こうした歴史については後述するが、音楽教育の中でクラシック音楽に「教科書の一部」として触れた経験を、多くの日本人が持っているはずだ。その中で歴史上の貴族文化の側面だけを覚えており、距離を感じてしまうのはわからなくもない。こうした素朴な感覚のうえに、先に述べた人気テレビ番組のコーナーは成り立っている。
日本のクラシックはどこから来てどこへ行くのか
しかし一方、演奏する側に視点を移すと、演奏だけでは食べていけないアーティストや、オーケストラの存続の危機など、およそ景気のいい話題は少ない。
最近では2024年1月にニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場が経営危機により、基金から4000万ドル(約60億円)を切り崩して補填すると発表した。前年にもすでに3000万ドルを拠出していることから、2年で100億円以上を補填したことになる。
パンデミックをレイオフ(団員の一時解雇)で乗り切って物議を醸した同劇場が、通常開催に戻ってチケット売り上げを大きく伸ばしたタイミングであったにもかかわらず、である。世界でも有数の歌劇場ですらこの状況であり、オペラを含むクラシック音楽業界は、とてもではないが儲かってなどいない。
日本に目を移せば、オーケストラの運営事務局は常に経営に頭を悩ませ、集客の難しさを訴えている。有名な海外オーケストラの来日公演の高額チケットが飛ぶように売れる一方で、定期会員を集めることすら困難な日本のオーケストラは数多ある。またショパン国際ピアノコンクールなど国際コンクールで名を上げた演奏家のコンサートが客を集める一方で、丁寧なプログラムを長年続けてきた力量のある、しかしコアなファン以外には知られていないアーティストに協賛企業がつかず、コンサートの開催すら危ぶまれることは珍しくない。そして今では欧州の主要オーケストラも、日本ツアーではなく〝アジアツアー〟、つまり中国や韓国へのツアーの一部に日本を組み入れるようになってしまった。かつて指揮者・小澤征爾が華々しく欧州やアメリカで活躍し、希望に満ち溢れていた時代があった。世界中の演奏家が日本でコンサートを行い、若者を指導し、日本のオーケストラの常任指揮者となって文化を発展させた。また、そうして育った若い演奏家が海外に留学して、クラシック音楽の本場である欧州や音楽ビジネスの最先端を行くアメリカで学び、その成果を日本に持ち帰ってきた。
こうした人々が次世代の層を厚くしてきたことは確かである。戦後、そして高度成長期の経済的な余裕のある時期に、日本のクラシック音楽は発展してきた。しかしバブル崩壊とともに経済的余裕がなくなってのち、危機だ危機だと言われ始めたのだ。
日本のクラシック音楽は、どう変化してきたのだろうか。文化として我々の心に根付いているのだろうか。日本古来の固有の文化のように、人々の心の支えのひとつとして、継承していかねばならないものなのだろうか。
実際のところ、日本におけるクラシック音楽とはなんだろう。どのように生まれて発展し、現在何が起こっているのだろうか。演奏家を目指すための、あるいは一般教養としての音楽の教育制度はいかに整備され、今どのような状況にあるのだろうか。演奏する側とそれを聴く側だけでなく、音楽芸術をビジネスとして運営する側の視点から今のクラシック業界の現状を整理することなくして、危機は計測できないのではないか。
今日もまた囁かれている。客層はほぼシニアで、このまま世代交代できずにクラシック音楽にはファンがいなくなってしまうのではないかと。日本のクラシック音楽は死んでしまうのではないかと。これは演奏会に足を運ぶ観客たちの、偽らざる実感の一部である。
しかし、ここに一つのデータが存在する。演奏会に足を運ぶ世代別の割合は、この30年で、20代はほとんど変化していないのだ。
これについては本文で詳細に述べるとして、まずは現状を把握することが本書の目指すところである。死んでしまうにせよ、生き永らえるにせよ、それを言い切るには何にしても根拠が必要ではないか。現状が把握できなければ対処法も考えられない。
筆者は主にこれまでクラシック音楽の録音、コンテンツビジネスに生業として関わってきた。また2024年より自身の育った土地である香川県で県民ホールの文化事業プロデューサーを務め、また香川県、徳島県のホールでのコンテンツ制作のコーディネートに従事している。官民両方からの意見を聞きながら、文化事業とは何か、文化振興とビジネスの交差する場所はどこにあるか、頭を悩ませる毎日である。
そうした、経験と体感を踏まえて考察することで、本書が今後の各地の音楽文化を育てる一助となればと願う。そして、クラシック音楽の魅力をより多くの人々に伝え、人生のひとときを豊かにするお手伝いができれば幸いである。
日本のクラシック音楽はどう成り立ってきたか、そして今はどのようになっているのか、未来につなげることはできるのか。歴史と様々な研究、データを通して仔細に迫ってみたい。閉ざされてきた扉を開けてよかったのか、開けずにいたほうがよかったのかは、本書を読み終えた後、読者諸氏にご判断いただきたい。
渋谷ゆう子
音楽プロデューサー、文筆家。大妻女子大学文学部卒。株式会社ノモス代表取締役。香川県民ホール文化事業プロデューサー。著書に『ウィーン・フィルの哲学─至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)、『名曲の裏側─クラシック音楽家のヤバすぎる人生』(ポプラ新書)など。