Yahoo! JAPAN

「私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」【重田園江『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』】

NHK出版デジタルマガジン

「私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」【重田園江『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』】

「無秩序」「破壊」「テロ」などをイメージしてしまいがちな「アナキズム」。こんな先入観をひっくり返して、思想としてのアナキズム本来の力をよみがえらせる新しい入門書『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』が刊行されました。

アナキズムが本当は「手持ちの資源で・日常生活から・少しずつ変える」ことを目指す、誰にでも始められる思想であることを、小気味よい文体で多くのファンを持つ政治学者・重田園江さんがわかりやすく解説します。

今回は本書より、その執筆へ至った背景の解説を公開します。

シン・アナキズム 世直し思想家列伝 書影

私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか

 忘れもしない(忘れてたけど)二〇二〇年九月四日、私はアナキストとしての自己覚醒を経験した。それはまるで、城に住んでいたディドロに会いにいく途中、ヴァンセンヌの小径で「第一論文」(「学問芸術論」)のテーマについて天啓を受け、雷に打たれたように木の根元に倒れ込んだジャン= ジャック・ルソーのごとき経験であった。ちなみにパリ市街からヴァンセンヌ城までかなりの距離をルソーが歩いていたのは、馬車代の節約のためだった。ルソーという思想家のエピソードはいつも大真面目に大げさで、こういうところが憎めない。すごいアイデアが閃いたからって、いくらなんでも木の裂け目に倒れ込むだろうか。この有名な挿話は『告白』、そしてとりわけ「マルゼルブへの手紙」に、これ以上なくドラマチックな筆致で書かれている。

 ともかく私は、自らを「何か主義者」として規定したことはこれまで一度もなく、そのことが一つの生き方であると納得すると共に、どこか落ち着かないような、据わりの悪い感じを抱きつづけてきた。ところが、である。九月のはじめ、コロナ下の自粛で学生たちとのイベントも流れややふて腐れて、駿河台下の三省堂書店でデイヴィッド・グレーバーの「牛の糞」、つまり『ブルシット・ジョブ』を買い求めた。読みながら、この本のかなりの部分に同意するとともに、日本では必ずしもアメリカほど高給を得られないブルシット・ジョブが多いな、などと考えていた。そもそも私はそれまでグレーバーを読んだことがなかった。いまこの文章を読んでいる酔狂な方なら、その理由にきっと賛同してくれるはずだ。簡単に言うと、『負債論』という本が分厚すぎるのだ。その厚さだけで控えめに言って引き気味、有り体に言ってドン引きしてしまう分量である。『ブルシット』の方も長いといえば長いが、こちらは聞き取りが多いのでかなり読みやすい。しかも大学教員としては、シラバスと試験問題作成手順についての図(日本語訳三三九― 三四〇頁)など、笑った後にちょっとしょっぱい涙が出てくるほど身に沁みる話題がいっぱいだ。

 話を戻すと、『ブルシット・ジョブ』を読みながら、ふと「この人の世界の見方は誰かに似ている」と思いはじめた。そして、閉めておくと本がカビだらけになるという致命的欠点を持つためにいつも開けっぴろげなうちの本棚の、私が「いま使っている本」を置いておくささやかなスペースに目をやった。ささやかというよりめちゃくちゃ狭くて、本が縦横無尽に押し込んである。そこにある本たちを首を縦横に動かしながらたどってみてハッとした。『ゾミア』だ。ジェームズ・C・スコットの『ゾミア』。さらに私が『ゾミア』を読むきっかけになった、同じくスコットの『反穀物の人類史』。「この二人は発想が似ている」と思って、カバーがひび割れた手元のパソコンで検索してみた。すると、グレーバーには『アナーキスト人類学のための断章』、スコットには『実践 日々のアナキズム』という著書がある。なるほど、アナキズムか。ん?

 そもそも私がスコットの本を読んだのは、新型コロナについて調べている最中だった。以前からファンであるマイク・デイヴィスが鳥インフルエンザについて書いた『感染爆発』を思い出し、そこからいろいろ読んでみていた。そのなかで、近年の感染症がグローバル資本主義の展開と切っても切れない関係にあることを知るに至った。食肉産業の工業化、野生動物(ブッシュミート)市場、緑の革命、単一作物プランテーション、多国籍種子肥料会社、IMF - GATTからWTOといった国際機関による途上国への貸付と「構造調整」というヤクザの麻薬漬けのような手法、製薬会社の恐るべき貪欲などなど。これらの諸悪の根源を資本の陰謀へと単純化しないとするなら、どこらへんまで遡って考えるべきだろう。

 そのとき読んだのがスコットで、そもそも穀物を生産する農業中心の定住生活が、誰のためにはじまった何に都合がよいものだったのかを描いていた(答えは「持てる者」のための国家的収奪です)。この思い切った距離感が、現代のこんがらがった状況と新自由主義のどん詰まりから抜け出すには必要だ。そして独特の突き放し方、遠くからの位置取りが、スコットが人類学者であることで果たされていることがよく分かった。

 グレーバーも人類学者だ。私の人類学の知識はレヴィ= ストロースでだいぶ止まっていたが、十年くらい前にマルセル・モースを読んで、これはすごいと思った(ただしモースはレヴィ= ストロースより三十六歳上)。つまり、いまの行き止まり資本主義はオルタナティヴを至急必要としているが、それを与えてくれる源泉は遠いところにあるのだ。遠いというのは、「狩りから稲作へ」(byレキシ)を単線的・進化論的に捉えない視点であったり、等価交換経済は新奇で特殊なもので、人類史において普遍的でも一般的でもないといった視点だ。このことをかなり前に指摘したカール・ポランニーは、経済人類学の創始者の一人である。さらにグレーバーは、『アナーキスト人類学のための断章』のなかで、モースをアナキストの一人として紹介している。ああそうか、そうなんだ。何かがつながりはじめた。

(中略)
 急に遠い目になって恐縮だが、思えば小学生の頃から、いろいろと衝突が多かった。いろんなことにムカついていた。なぜ途中でつまらなくなっても学校から帰ってはいけないのか。先生が「悪いこと認定」したら、なぜ謝るまで教室に入れてもらえないのか。そういうことがあるたびに、ことばは知らなかったが先生をファシストのように憎んでいた。先生の怒るようなことをしておいて、自分だけ助かろうとして他の生徒に罪をなすりつける輩がいるのも意味不明だった。いつも先生に嫌われるのはこっちが嫌うからだと分かってはいたが、一握りの例外を除いて、やっぱり先生と学校が好きになれなかった。

 小学生時代は鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』と高橋章子編集の『ビックリハウス』が好きだった。中学生の帰宅部時代にRCサクセションのファンになり、トランジスタ・ラジオでAMを聴きながら校舎裏で弁当を食べたりした。ある晴れた日に一緒に弁当を食べていた友人が(名古屋市の住宅街にある絶望的管理体制の中学校では「早弁」と呼ばれていた)、青空に白く長い尾を描く飛行機から、「弁当食べてるの見られてる! チクられたらどうしよう」と騒ぐので大笑いしたことを思い出した。私たちはベンサムの独房の囚人になって規律を内面化する手前で、それをお空にはね返した。その友人はいまはフラメンコを踊っている。高校ではポピュラーミュージック同好会(要は軽音部)で、ポピュラーミュージックとは何の関係もない「戸川純とヤプーズ」の曲をコピーしていた。そう考えると、私は物心ついてからずっとアナキストだったのだ。

 そんなことを思い出して興奮しているときに、グレーバーの訃報を知った。本当にこれからという人だったから残念すぎる。もう新作は読めないのだ。好きになったばかりなのに(分厚い『負債論』が控えているから少し安心だが)。アナキストとして覚醒して、これからグレーバーに学ぼうと思っていた矢先のことで、とても悲しかった。そして、ここは追悼の意味をこめて、「アナキスト集め」をやってみようと思い立った。この人もアナキストだな、と思う人がいたら書き留めて、どのへんがアナキストなのか、とくにどの活動、どの著作にそう感じるのかをメモしていく。これが「ねこあつめ」ならぬ「アナキスト集め」だ。そしてこの「アナキスト集め」を通じて、いったいなぜこの人、この著作をアナキスト的と思うかを示していけば、私にとってアナキズムとは何かを自ずと語ることになるだろう。

著者

重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程単位取得退学。修士(学術)。専門は政治思想・社会思想史。著書に『真理の語り手――アーレントとウクライナ戦争』(白水社)、『ホモ・エコノミクス』『社会契約論』『ミシェル・フーコー』(いずれもちくま新書)、『フーコーの風向き』『隔たりと政治』(ともに青土社)、『連帯の哲学 Ⅰ』(勁草書房、渋沢・クローデル賞)『統治の抗争史 フーコー講義1978-79』(勁草書房)、『フーコーの穴』(木鐸社)などがある。
※刊行時の情報です

■『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』「はじめに」より抜粋
■注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。

【関連記事】

おすすめの記事