#2 太宰治についてのエトセトラ――高橋源一郎さんが読む、太宰治『斜陽』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・高橋源一郎さんによる太宰治『斜陽』読み解き #2
隠され続けたのは、私たちの「声」なんだ──。
「一億玉砕」から「民主主義」へ――。言葉は変われどその本質は変わらなかった戦後の日本。そんな中、それを言われると世間が困るような「声」を持つ人たちがいました。酒におぼれる小説家・上原、既婚者・上原を愛するかず子、麻薬とアルコール中毒で苦しむ弟・直治。1947年に発表され爆発的ブームを巻き起こした『斜陽』に描かれる、生きるのが下手な彼らの「声」に、太宰治が込めた思いとは何だったのでしょうか。
『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽』では、『斜陽』の登場人物が追い求めた「自分の言葉で」「真に人間らしく」生きるとはどういうことなのか、そして太宰が「どうしても書きたかったこと」に、高橋源一郎さんが迫ります。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第2回/全5回)
太宰治についてのエトセトラ
太宰治のことは誰だって知っている。知っているどころか、現役のどの小説家より有名かもしれない。夏目漱石の『こころ』と太宰治の『人間失格』が、いちばん読まれている、というか売れた小説だった、ってことは「はじめに」で書いた通りだ。漱石と太宰の知名度はほんとにすごい。でも、どういう人だったか、っていうと、そんなには知られていないんだ。最初に漱石のことをいっておくと、『こころ』もそうなんだけれど、主人公が、誰か、好きになってはいけない人と恋愛する、という話が多い。漱石は、繰り返し、そういうお話を書いた。だとすると、漱石にはそういう経験があったんじゃないか。そう思うのが、ふつうだ。けれど、ものすごくたくさんいる漱石の研究者たちが束になっても、実際にどういうことがあったのかはわからなかった。というか、漱石の人生は、ある意味淡々としたものだった。もちろん、漱石だって、小さい頃に養子にやられたり、当時はほんとうのエリートといわれた東京帝大生だったし、ほんとにほんとに希少な存在だった留学生だったし、ついには、外国人の教師が多かった帝大の先生にもなった。超超エリートだった。でも、それ以外の面では、なんか地味っぽい。浮いた話もない。なので、漱石が書いた「三角関係小説群」は、つまらない日常生活をおくった漱石の「願望」が入った「妄想」じゃないか、っていう人もいる。
太宰治はちがう。彼ぐらい波瀾万丈の人生をおくった人もいないだろう。「ミスター波瀾万丈」だ。そして、その生活と彼が書いた小説は密接な関係がある。だから、彼の生涯を知っておくのと、知らないのとでは、小説を読むときの「納得」感が大きく変わる。少しだけ、説明しておくことにしよう。
太宰治は一九〇九年、すなわち明治四十二年に生まれた。明治生まれの作家なんだ。太宰が青森(津軽)の名家の出身であることはよく知られている。ぼくも一度、太宰の実家に行ったことがあるけど、ほんとうに立派な邸宅だった。お父さんは衆議院議員、後に貴族院議員(いまの参議院議員)でお金持ち、とくれば、青森でもっとも有名な家だったといってもいいだろう。しかも、当人は小学校では六年間成績がずっと一番。光り輝く少年時代だったろう(外から見ると)。太宰は十六歳頃から作品を発表するようになる。中学を卒業し高校(いまでいうと大学教養課程)に入ったけれど、そのあたりからどんどん不良になって芸妓をやっていた小山初代という女の子と知り合いになった。二十歳で一回目の自殺未遂。二十一歳で高校を卒業して東京帝大に入った。地方エリートの最高のコースだ。初代とは婚約状態だったのに、銀座のカフェの女給(ホステス)と鎌倉の海岸で心中する。女は亡くなり、太宰は生き残った。太宰は、大学時代から、非合法の政治活動にも参加していた。つまり、二十歳そこそこで、女遊びに励み、同時に、厳しい政治活動にも従事していたことになる。いや、同時に、小説も書いていた。重要なのは、どれも本気だったことだ。当時の反政府の政治活動はいまとはちがい、非合法だった。捕まれば、いつ釈放されるかわからない。命がけの活動だった。そして、恋愛の方も。婚約者のような女性がいるのに、ホステスに手を出す。そのうえ一緒に死のうとする。ここまでめちゃめちゃな人間は、そんなに見つからない。繰り返していうけれど、このとき、太宰はまだ二十歳そこそこだったんだ。
太宰は、実家がものすごいお金持ちであったことを恥じていた。そんな生まれの自分、そういう自分に対する世間の目を強く意識していた。みんながペコペコする。でも、それは、「津島修治」(これ、本名)に対するものじゃない。「津島家」の一員であることにペコペコしているだけなんだ。太宰は、そう思った。いや、感じた。そういう自分が恥ずかしかった。成績が優秀でも、それは実家が金持ちで勉強する時間があるからだ。いい小説を書けても、それは生活に余裕があるからだ。女性と恋しても、彼女はほんとうは「ぼく」が好きなんじゃなくて、金持ちで帝大生の「ぼく」が好きなだけなんだ。太宰は、そんな風に考えた。考えすぎ? そうかもしれない。けれども、「考えすぎ」るのが、太宰の真骨頂だった。太宰の小説の主人公はどれも、みんな太宰の分身のように「考えすぎ」、「感じすぎ」るのだ。
一回目の心中(太宰は、これから心中を繰り返す)で相手を死なせ、自分だけが助かった太宰は、それから苦しい人生を歩むようになった。翌年二十二歳で小山初代と結婚。警察に出頭して、非合法活動から足を洗うことを約束する。「太宰治」というペンネームを使って初めて小説を書いたのが二十四歳のとき。二十六歳で自殺未遂。その年、授業料未納で東京帝大を中退。最初の作品集『晩年』を刊行したのが二十七歳、芥川賞をとれると信じていたが落選し、薬の中毒で入院。翌年二十八歳で夫婦心中を図るも未遂。初代とは離婚した。ほらもう、何度自殺しようとしたかわからない。それが太宰治の二十代だった。太宰がほんとうに作家としての活躍を始めたのは、一九三九年、太宰が三十歳のときだった。この年、太宰は石原美知子と結婚し、三鷹で暮らすようになった。ここから、太宰の死まで十年もない。しかもその大半が戦争の時代(太平洋戦争が始まるのは一九四一年だが、満州事変はその十年前の一九三一年に起こった。それからはずっと「戦争の時代」だったといっていいだろう)。太宰は「戦争」と共に生きた作家だったんだ。太宰の代表作は、すべてこの時代、「戦争の時代」の、十年に満たない期間に書かれた。『富嶽百景』『女生徒』『駈込み訴え』『走れメロス』『きりぎりす』『ろまん燈籠』『清貧譚』『佳日』『散華』『新ハムレット』『右大臣実朝』『津軽』『新釈諸国噺』『惜別』『お伽草紙』……。
まるで、なにかにとりつかれたみたいに太宰は書いた。書いて書いて、書きまくった。実は、この「戦争の時代」、多くの作家は書くことができなくなっていた。一つは、検閲が厳しくて、思うように書けなかったからだ。そして、もう一つは、仮に思うように書けたにせよ、なにを書いていいのかわからなくなっていたからだ。だから、「文学史」の年表を見ると、特に太平洋戦争の五年間は、「空白」に近いものになっている。
けれども、太宰はちがった。他のどんな作家よりも、たくさん書いた。いや、太宰は、この「戦争の時代」にこそ、本領を発揮したきわめて稀な作家だったんだ。
なぜだったんだろう。
戦争が続き、社会に重苦しい雰囲気がたちこめた。確かに、書きにくい時代だった。でも、たいへんだったのは作家ばかりじゃない。庶民はみんなたいへんだった。いいたいこともたくさんあった。でも、なにかをいうのはとても難しい時代でもあった。みんな、ことばを呑のみこんで生きていたんだ。
誰もがことばを呑みこんで生きているようなとき、そのことを敏感に感じる作家がいる。そういう作家は、その時代に生きる人びとの心の奥底を感じることができる作家でもある。そして、そんな作家は、人びとの心の、その奥底にまで分け入り、そこからなにかを書きたいと思うのである。
太宰の小説には、太宰治という、ある個性的な作家が書いたもの、という以上のものがある。それは「みんなの作品」でもある、ってことだ。過酷な生活の中で、でもそんな中にあっても感じる微妙な感情の揺れの中で、人びとは黙って生きていた。太宰は、そのことを感じとれる、ほんとうに数少ない作家のひとりだったんだ。もっとうまい言い方をするなら、太宰は「民衆の集合的無意識の体現者でもあった」とすべきなのかもしれない。いや、そんな難しくいう必要はない。太宰の小説にこそ、その時代の日本人の思いと感情が詰まっていた、ってことなんだ。
一九四五年、日本は戦争に負けた。そこからはもう僅か三年の時間しか太宰には残されていなかった。一九四六年に『苦悩の年鑑』『親友交歓』、そして戯曲『冬の花火』『春の枯葉』、そして迎えた一九四七年こそ、作家太宰治にとって、最後で最高の豊穣の年だった。二月に『斜陽』のモデルとなる太田静子を訪ね、三月には翌年心中することになる山崎富栄と知りあう。そして『斜陽』の執筆が始まり、六月に完成。それ以外にも、『トカトントン』『ヴィヨンの妻』『おさん』といった太宰の最後の傑作群が誕生していった。翌一九四八年は太宰最後の年になった。『人間失格』を完成させた後(刊行は死後)、新聞の連載小説『グッド・バイ』を書きはじめたばかりの六月十三日、太宰は、山崎富栄と玉川上水に入水。十九日に遺体が発見された。『桜桃』や『家庭の幸福』も最晩年の作品となる。
太宰はなぜ死ななければならなかったんだろう。それまで何度も自殺や心中を繰り返していて、やっとやり遂げたんだろうか。ずっと死にたくて、やっと思いを果たすことができたんだろうか。
その秘密は、彼の書いた小説の中にある。彼は、すべてを小説の中に書きこみ、それを、読者が解読することを望んだんだ。とりわけ、最高傑作である『斜陽』の中には、太宰が、考え、思い、感じてきたことのすべてが注ぎこまれている。『斜陽』は、いまでも、ぼくたちに解読されるのを待っているのである。
著者
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
広島県生まれ。作家。1981年「さようなら、ギャングたち」で第4回群像新人長篇小説賞を受賞しデビュー。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『一億三千万人のための『論語』教室』『「ことば」に殺される前に』(河出新書)、『これは、アレだな』(毎日新聞出版)、『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 太宰治 斜陽 名もなき「声」の物語』(高橋源一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『斜陽』の引用は、新潮文庫版(平成二十七年二月二十日百三十刷)によっています。『散華』は『太宰治全集6』(ちくま文庫)に、それ以外の太宰作品は新潮文庫版によっています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。