父をがんで亡くしてグレた私は定時制を卒業し、軽井沢の森に「人が生きる場所」をつくった
年齢や性別、健康状態は関係ない。医師・看護師、患者という立場の違いもない。長野県軽井沢町の森の中にある「ほっちのロッヂ」は、診療所でありながら台所、リビング、アトリエなどもあり、地域の人たちが自由に行き来する不思議な空間です。「ケアとは一方的なものではなく、人と人との関係性のすべて」という理念は、共同代表の藤岡聡子さんが小学生のときに父を看取った経験から生まれました。
午前11時すぎ、醤油と砂糖が煮詰まったどこか懐かしい香りが、キッチンから漂ってきます。筑前煮の鍋を火からおろし、「おいしくできたわね」と味見し合う女性2人は、ここで働いているわけでも、住んでいるわけでもありません。
長野県軽井沢町にあるこの施設は「診療所と大きな台所があるところ」。地名の発地(ほっち)から、「ほっちのロッヂ」と名付けられています。
「ここは、誰もが好きなことをするために集まる『森小屋』です。いま台所に立っているのは、パートナーを亡くした方。私たちが関わってきた人が『生きる』を終えたからといって、その家族との関係はぶつ切りにはなりません。今度は私たちが、遺された人たちがつくるご飯によって生かされているんです」
そう話すのは、共同代表の藤岡聡子さん。「ほっちのロッヂ」は外来診療、在宅医療、訪問介護、病児保育を主な事業としていますが、サービスを提供する人と受ける人、医療職と患者といった固定的な立場をなるべくつくらない運営を目指しています。サイトにも施設にも「患者」の文字はなく、白衣を着ている人も見当たりません。
「ケアする人、ケアされる人というラベルを貼ることに意味はないと思っていて。年齢や性別、健康状態に関係なく、人間は誰もが誰かをケアし、ケアされ、関係し合って生きているというのが基本的な考え方です」
その信念は、藤岡さんの幼少期の、自身の生き方をも揺るがす体験から生まれたものでした。
父は父であり「病人」ではない
私は三重県の田舎で育ちました。父は医師で、母は看護師をしていましたが子育てのために専業主婦になりました。優しい兄、優しい姉、ミニバスケットに打ち込んでいた私、ゴールデンレトリバーがいて、お正月にはレンガの壁の前で家族写真をパシャ、みたいな。絵に描いたような幸せな家庭でした。
そんな幸せな家族像が、私が小学4年生のときに父が病気になったことで、またしても絵に描いたようにガラガラと崩れたんです。
肺がんだとわかったとき、父は43歳でした。みるみる痩せていき、死期が迫っていることがこどもの目にもわかるくらいでした。
それまで家族5人で談笑していたリビングに父の姿はもうなくて、廊下を隔てた部屋でひとりで横になっている。食事のときに私が騒いでいると、「お父さんは病気なんだから大きい声を出しちゃだめ」と叱られました。
でも私は何を思っていたかというと、家族団欒に父にも参加してほしかった。「この賑やかな感じをお父さんにも聞かせなきゃ」と、離れた部屋に届くように意識的に大きな声を出していました。
父はもう座ることはできないし、手もガリガリに細くなっている。そんな父を見るのは怖くもある一方で、私にとって父はやっぱり父であり、仕事熱心な医師であり、名前のある一人の人間でした。父を「病人」として扱いたくなかったし、扱ってはならないと思っていたんです。
しかし、私以外の家族や周りの人にとっては、父はもはや病人で、できるだけ静かな環境で過ごさせてあげるべきだというのが常識のようでした。自分以外の社会は、人間のことをこんなにも違う見方をするんだ、と強烈な違和感を覚えました。
ただ、当時はその違和感を言語化することができず、次第に家族との関係がギクシャクするようになりました。父は病気がわかってから2年後、45歳で亡くなりました。小学6年生だった私は母と目を合わせて会話をしなくなり、家出を繰り返し、中学校にも行かなくなりました。
家族とはもう関係を結べない、と自分からシャッターを下ろして完全にグレていたんです。でも、どこかに父が生き様として示してくれた強い正義感みたいなものがあったのかもしれません。母との関係が修復不可能になるギリギリの線で踏みとどまり、夜間の定時制高校に進学しました。
人は補い合って生きている
そして入学初日、教室のドアを開けた途端、衝撃を受けました。
夜間定時制に通うのは、ほとんどがワケありの生徒です。同級生で、私と同じ15歳は3人だけ。あとは全員が年上で、未婚の母や暴走族、戦争で高校に行けなかった70代など、見た目も年齢も境遇も圧倒的に違う人たちがいる空間でした。
私はそれまで、自分は周りの人たちと決定的に違うと感じていました。「どうせみんな家族がいて、一緒に夕食を食べている。私みたいに父親が死ぬ経験なんかしていないし、人が死ぬ怖さなんて知らないだろう」と。でも、そもそもみんな違うじゃん!自分がすごく小さな世界にいて、視野が狭かったのだと気づきました。
定時制高校では、みんないろいろなことに傷つき、必死で生きていました。結局、同級生で卒業できたのは私ともう1人だけでしたが、私は友人たちを支えることができたし、友人たちに支えられたことも数えきれないくらいあります。
人間はお互いにできることを補い合うから、社会は成り立つのではないでしょうか。それをケアというのなら、日常の中で当たり前のように人は人をケアし、ケアされています。
病気になって死を迎えようとしている人も、ただ弱くて庇護されるだけの存在ではありません。そういう意味で、私は父の最期とちゃんと向き合うことができたのだろうか。人生を終えようとしている人の何を見るかによって、まなざしや手の触り方、声のかけ方など、あらゆるものが変わってくるのではないか。
その答え探しをするかのように、介護の世界に入ることになりました。
(後編は近日中に公開予定です)