全く考えてなかった流産…悲しみを乗り越えて、感じたこと
フリーランスでライターをしている【小吉】です。夫と子ども2人の4人家族です。1人目と2人目の間に流産経験が1回あります。その経験についてお話します。
流産なんて考えなかったのに、医師に告げられたのは
当時、私は1人目の子どもをグループ保育サークルに入れていました。週に1度の活動でしたが、次第にメンバー同士でとても仲良くなり、妊娠が確定した時もすぐにメンバーに報告をしました。次々に贈られる「おめでとう!」という言葉がうれしくて、その時は新たに授かった命の喜びに満ち満ちていました。この時点で報告をしたのは軽率だったと、今なら思います。そして、ほどなくその瞬間が訪れました。
あれは確か、3回目の健診の日、ひととおり検査を済ませて問診を受けていた時のこと。始まりは、「(赤ちゃんが)大きくなってないね」という先生の一言からでした。
宣告の瞬間! 一体何が起こったのか分からなかった
最初は、先生のその言葉を聞いても「今回は成長がゆっくりなのかな」と、私は軽く受け止めていました。状況を変えたのは、そのことに気付いた先生が、次に続けた言葉でした。
「赤ちゃんの心臓の音が聞こえなかったよ」
「えっ…」となるものの、私にはまだ言われていることが理解できません。思考が追い付かない。押し黙っている私に先生は言いました。「流産です。残念だけど」
説明されたのは、私の場合、おなかの中で赤ちゃんが亡くなってしまった「稽留流産」だということ。放っておくと激しい腹痛を伴う出血が起こる可能性が高いため、手術をした方がいいこと。12週以内の場合は、受精卵の方に原因があることが多く、大きくなれない受精卵だったから自然に淘汰されたこと。人間も動物だから、そういうことが起こること。これが、必死に理性を働かせて聞き取ったことの全てです。きっと他にもあったでしょう。
手術当日! お別れの際にようやく流れた涙
「あんまり自分を責めないでね」という先生からの労りの言葉に少しだけ救われた気持ちになったことは覚えています。しかし、その後は何をするにも上の空で、一体いつ夫や両親にこの事実を打ち明けたのか、あまりよく覚えていません。
1日でも長く一緒にいたい気持ちがありましたが、色々と考えた末、私は手術を選びました。お別れにかかったのはたったの数時間。朝一番で病院入りし、手術を受け、病院を後にしたのは昼頃でした。
手術直後、個室へ運ばれ一人で休んでいた私のところに女性の看護師さんがやってきて、容器に移された赤ちゃんを見せてくれました。「さっきまでおなかの中にいたのに…」そう思ったら、涙が溢れ出して止まらなくなりました。
宣告を受けてから泣いたのは、この時が初めてだったと思います。例え大きくなれない赤ちゃんでも、もっと一緒にいたかった。「責任をもって、こちらで対処させていただきます」という看護師さんの言葉とともに、私たちはお別れをしました。
家族に支えられ、きっとまた来てくれると思って前へ
悲しみをどう乗り越えたらいいのかということに、公式のような決まった方法はないと思います。私の場合は、この悲しみを早く忘れたいという気持ちと、この子の存在を忘れたくはないという気持ちとの間で、何度も揺れ動きました。
それでも少しずつ自分を取り戻していったのは、家族のおかげです。当時2歳だった1人目の子の存在には、非常に救われました。「(赤ちゃんは)きっと女の子だったと思う」という私の発言を、母は優しく受け止めてくれました。家族にはたくさん心配を掛けたと思います。
私自身は何かと忙しくし、気を抜くと落ちてしまいそうな感傷の沼にどっぷりとはまらないようにしました。「きっとまた来てくれる。そのためには私が早く元気にならなくちゃ」と意識するようにしていたと思います。手術から約3年後、私は3回目の妊娠に恵まれ、慎重に慎重を期して妊婦生活を送った結果、女の子を出産しました。
生まれて来ることができなかった1人目の娘が、命をかけて私に伝えようとしたメッセージは何だったのかを考えました。月並みですが、それは、命の尊さと無事に生まれ出ることが奇跡の連続だということだと、私は理解しています。そのことを理解するために、身をもって経験する必要が私にはあったのでは?と思っています。
今ではこの経験に感謝をしています。つらく悲しい気持ちはまだありますが、前よりも人の痛みが分かるようになったつもりです。彼女が教えてくれたことを、これからも大切にしていきたいと思います。
[小吉*プロフィール]
一男一女の母で、取材/在宅ライター。約9カ月に及ぶ保活を終え、最近ようやく下の子が保育園に通えるようになったため、もっと取材や地域活性化のプロジェクトに時間を使うべく画策中。
※この記事は個人の体験記です。記事に掲載の画像はイメージです。