「紀伊国屋の看板を揚げ続けたい」~澤村國矢『あらしのよるに』で二代目澤村精四郎襲名へ
澤村國矢が、二代目澤村精四郎(さわむらきよしろう)を襲名する。2024年12月3日(火)に開幕する『十二月大歌舞伎』第一部『あらしのよるに』が披露演目となる。会場は歌舞伎座。俳優人生の節目を迎える國矢に、話を聞いた。
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■だってお前、ロックの神様だぜ?
「私の師匠である澤村藤十郎が以前名乗っておりました澤村精四郎という名跡を、二代目として襲名させていただくことになりました。藤十郎の芸養子となり幹部昇進。これほど嬉しいことはございません」
転機は、2016年に幕張メッセ「ニコニコ超会議」ではじまった「超歌舞伎」。中村獅童と初音ミクの共演を、國矢は存在感ある悪役で盛り上げた。今では「超歌舞伎」に欠かせないメンバーで、2019年8月には京都南座での「リミテッドバージョン」にて主役にも抜擢された。「超歌舞伎」での抜擢も、獅童のおかげで実現した。
「獅童さんは尊敬する存在であり、家族のように親身に考えてくださる先輩でもあります。獅童さんが『國矢を幹部に』と言ってくださったのが2年前のことでした。それを師匠(澤村藤十郎)は大変喜んでくださいました。獅童さんはじめ諸先輩方、会社(松竹)のご了解をいただき、今回の運びとなりました。「超歌舞伎」では國矢の名前であれだけ多くの方の応援をいただいてきましたから、昇進後も國矢のままでいいのでは、という話もあったんです。ですが師匠に報告した時に『紀伊国屋には色々な良い名前がある。せっかく昇進するなら考えておく』と言ってくださいました。そしてご自分が若いときに名乗っておられた『精四郎』という名前に決まりました」
「精四郎」と書いて「きよしろう」。ロックスターの忌野清志郎と同じ読みだ。
「獅童さんはロックな方ですから、しみじみと“本当にいい名前だよ”とおっしゃってくださいました。“だってお前、ロックの神様だぜ?”と(笑)。ロックな精神を大切にしていきたいです」
日本舞踊・世家真(せやま)流の名執としての名前は、世家真國矢。こちらの「國矢」はこれからも残る。
■一般家庭から歌舞伎の世界へ
埼玉県草加市出身。父親は木型製作所につとめる会社員、母親は専業主婦(好きな映画は『ベン・ハー』)。“歌舞伎の家”の生まれではない。
「小学生の頃はテレビっ子で目立ちたがりでした。テレビに出たいという理由から、9歳から児童劇団に入ったんです。僕の顔だちはどうも“昭和”のようで、テレビより歌舞伎の舞台に出るようになりました」
そのときに舞台袖から見た舞台が、國矢にとってはじめての歌舞伎だった。1988年9月、歌舞伎座で上演された『河内山』で師匠となる澤村藤十郎と出会う。
「10歳のときでした。師匠が演じる松江出雲守の小姓役を勤めたんです。毎日話しかけて大変かわいがってくださり、歌舞伎は好きかい? と聞かれました。子供ながらに歌舞伎に出ることは好きだったので、好きですと答えたところ、踊りなどお稽古をして中学を卒業したらうちにおいでと。それが歌舞伎を生業とすることになったきっかけです」
中学入学からまもない頃、藤十郎から「名前はもう決めたよ。字画や姓名判断でみてもいい名前だから」と聞かされたのが「國矢」という名前だった。藤十郎が、國矢の入門をどれだけ心待ちにしていたかがうかがえるエピソードだが……。
「中学1年までは子役として舞台に出て、その後は(子役の年齢ではなくなり)歌舞伎と少し距離ができました。踊りの稽古は続けていましたが、思春期に迷うこともあり、僕が道をちょっと外れてしまい……。師匠の口添えで入れていただいた国立劇場の歌舞伎俳優研修所も、素行不良で2か月で辞めてしまったんです。優しかった師匠にも大変怒られ、謝罪に行っても『もう顔も見たくない。うちでは(弟子に)とらない』と門前払いでした。そこで初めて歌舞伎を続けられなくなるんだと気がつき、ショックで本当に反省して。何度も通い詰めてようやくお許しを得て、その年の12月から手伝いをさせていただき、1995年に弟子入りをしました」
“悪かった頃”については「師匠からは暴走族と言われました。一応、暴走はしていないのですが……」と苦笑いをする。
■人の2倍、3倍努力して
入門後はおかもちを持って、藤十郎のそばについた。「毎日よく怒られました」と振り返る。
「はじめの頃は、師匠にパッと手を出されても何を渡したらいいのか分かりませんでした。手鏡なのか飲み物なのか仁丹なのか。あの頃の旦那方は今ほど言葉で説明しないものでしたから、勘が良くなければ勤まりません。その空気が分かるようになるための修行だったと今では思います。お前はゼロからのスタートじゃない。レッテルを貼られてのスタートだから人の2倍、3倍努力しなきゃ駄目だと言われていました」
藤十郎は「芝居が大好きな人」だと國矢は話す。表舞台に立っていた頃は、毎月初日は必ず全演目を観て帰る。國矢も脇で一緒に観た。出番の後に新幹線で歌舞伎の打ち合わせへ行き、翌日の舞台のために戻ってくるようなこともあった。人との繋がりを広く持ち、大切にし、プロデュース能力にも長けていた。オンもオフもなく歌舞伎に身を投じていた。しかし1998年、藤十郎は脳内出血で倒れる。
「僕が二十歳のときでした。その頃、僕はいつか師匠に褒められたくて歌舞伎をやっていたところがあったんです。その一番認めて欲しい人が倒れてしまった。自分は何のために歌舞伎をしているのか分からなくなった時期もありました」
「それでも(藤十郎の兄の)澤村宗十郎さんが僕を預かってくださり、十八世中村勘三郎さんのところでは良いお役で使っていただいたり、皆さんのおかげで勉強の場所があって。師匠は生死を彷徨うような時期もありましたが、だんだん元気になってくださり、しっかりお話しもされるようになられました。平成中村座で『直侍』の暗闇の丑松の役をいただいた時は、“おやじさん(十七代目中村勘三郎)は、こうしていたよ”など教えてくださったりもしました」
藤十郎は、今でも衛星放送の専門チャンネルで歌舞伎をよく観ているのだそう。
「“この前の『鈴ヶ森』の飛脚、良かったよ”なんて言ってくださるんです。いつ収録された『鈴ヶ森』をご覧になったのかなと思いつつ(笑)、やっぱりうれしいですよね」
「超歌舞伎」での抜擢では、スポットライトが自分を追いかけてくることが新鮮だったという。幹部となればこの先の公演で声がかかる役も変わってくる。
「両親も喜んでると思います。ふたりとも他界しておりますが、名題になった時はまだおりましたし、父は『超歌舞伎』のリミテッド公演も見ています。本当に親バカで、小さい頃から“いつか幹部になれる”と応援してくれていました」
■ともだちなのに、おいしそう
襲名披露の演目は、きむらゆういち原作の同名絵本から生まれた新作歌舞伎『あらしのよるに』。2015年の初演以来上演を重ね、國矢は2018年に初めてこの作品に参加した。5歳になる双子の娘たちもすでに観劇している。
「娘たちも、とても楽しんでいました。でも“怖い”らしいです。山羊が狼に喰われるシーンが、子供心にはとてもじゃないけれど辛いようです。初めて出た時は狼の役でしたが、今年9月の南座公演では山羊の役。食べられる側なのでなおさら怯えていたと聞きました」
12月は、狼のばりいを演じる。冒頭からインパクトのあるシーンに登場する。
「それはそれで“今度はパパ狼でしょ? パパ、いや!”って(苦笑)。でもあの年齢の子供にも伝わる歌舞伎だってことですよね」
嵐の夜の雨宿りをきっかけに、偶然仲良くなった狼のがぶと山羊のめい。
“ともだちなのに、おいしそう”というキャッチコピーからも本作の親しみやすさと、共存への根源的な問いかけがうかがえる。
「がぶとめいのように違いを越えた友情があったり、人と人の縁は何がきっかけになるか分かりません。人との出会いや関わり方は大事にしなくては、と思わされる物語です。人を信じつづけることとか、人に助けていただいたことを忘れるべきではないとか、それは何かしらで返していかなきゃいけないとか。義理を欠いたまま生活していたら、いつか自分の身に返ってくる気がするんです」
國矢自身、入門前に藤十郎に不義理をした過去があった。しかし何度門前払いをされても逃げず向き合ったからこその今がある。
「師匠から言われました。生きていれば転ぶこともある。大事なのは起き上がり方だと。どう起き上がるかで人間は変われるからと」
■憧れて入ってくる人が増えてほしい
二代目として、澤村精四郎の名前を託された。それはプレッシャーなのか。励みになるものなのか。
「師匠としては、何かを託したり重荷を負わせるような意識は多分ないと思います。10代から自分のところで歌舞伎を続けてきた弟子がいて、がんばって、周りに認められて幹部昇進が決まった。その弟子のために自分がしてやれることを、と考えてくださったことなので。ただ、師匠も名乗られたこの名前を汚すわけにはいきません。今までも“藤十郎さんのお弟子さんが……”と言われないよう自分にプレッシャーをかけてはきましたが、これからはまた全然違ってくると思います」
門閥外の歌舞伎俳優が、重要な役を任される機会が以前よりも増えているように感じる。しかし歌舞伎俳優を志す若者の数が、極めて少ないのが現状だ。
「伝統芸能はどこも厳しい状況ですが、歌舞伎はスターが大勢いる華やかな世界だと僕は思っています。かつてはそこに憧れる若者が結構いました。僕の頃は、少し上の代に一般家庭出身で活躍されていた喜多村緑郎さんや河合雪之丞さんたちの影響が大きかったと思います。あんな風に、と希望をもてたから、養成所にも希望者が殺到したんだと。面接に40人くらいきて、半数くらいが入所して。時代が変わったとはいえ、今は、一体何が起きちゃったの!? というほどに希望者が減っています」
歌舞伎を志す若者に「今の歌舞伎界は良いよ、と言えそうですか」と聞くと、國矢は「言っていきたいと思っています」と即答した。
「僕のような例はまだ多くはありませんが、ひとつの例になることで、次が続きやすくなりますよね。“夢が叶う”の基準は人それぞれですが、夢や希望をもって良いと思います。この世界に憧れて入ってくる人が増えてほしいんです。反対に、自分が何か失敗をしたら、次の機会が消えてしまうかもしれない。そんなことを考えるくらい、僕は多くの機会をいただいてきたんですよね。自分は本当に幸せだなといつも思います。今は紀伊国屋の俳優は少なく、紀伊国屋の名前が看板に揚がらない月も多いです。それではやはり寂しいので、僕が看板を揚げ続けることで紀伊国屋を守っていけたらと思っています」
『十二月大歌舞伎』は2024年12月3日(火)から26日(木)まで。
なおイープラスでは12月21日(土)に『あらしのよるに』貸切公演を行う。チケットは「イープラス貸切公演」ならではの、“一部を独自席種に、全席を独自価格で”というおトクな設定で現在発売中だ。
取材・文・撮影=塚田史香