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竹内栖鳳が衰退しつつあった日本画を救った?ヨーロッパ留学もした画家を解説

イロハニアート

(重要文化財)竹内栖鳳、〈斑猫〉1924年、山種美術館

明治時代初期、西洋文化を崇拝する風潮に圧され、日本美術は衰亡の危機に立たされていた。事態を打開するためには、「明治」という新しい時代にふさわしい「新しい日本画」が必要だった。 では、「新しい日本画」とはどのようなものか? その問いに対する一つの答えを提示したのが、竹内栖鳳(たけうちせいほう)(1864〜1942)である。

(重要文化財)竹内栖鳳、〈斑猫〉1924年、山種美術館

, Public domain, via Wikimedia Commons.

京都に生まれ育った栖鳳は、四条・円山派の写実表現を基盤に、中国絵画や西洋画をも学び、融合させた独自の様式を作り上げ、特に動物画においては「体臭までも描く」とまで賞賛された。

一方で後進の育成にも力を注ぎ、上村松園や橋本関雪ら、次代の日本画壇を担う多くの才能をも育て上げている。まさに近代日本画のキーパーソンと言えよう。

だが、なぜ、彼は画家としても教育者としてもここまでの功績を成し遂げられたのか?そして、栖鳳が見いだした「新しい日本画」とは一体どのようなものなのか?
その答えを探ってみよう。

①竹内栖鳳の原点


竹内栖鳳は、1864年に京都・二条城の近くに店を構える小料理屋に生まれた。幼い頃、店の得意客である絵師が絵を描く様子を見て心を惹かれ、13歳の時に四条派の流れを汲む町絵師・土田英林のもとで絵を習い始める。

1881年には円山・四条派の名手として名高い幸野楳嶺の私塾に入門し、「棲鳳」の画号を与えられる。(※本文中では、「栖鳳」表記で統一)

幸野楳嶺、〈雪中鴉図〉19世紀後半、ミネアポリス美術館(パブリックドメイン)

, Public domain, via Wikimedia Commons.

新しい師のもと、彼は瞬く間に頭角を現し、「楳嶺門下の四天王」の筆頭と呼ばれるまでになる。

当時、絵の勉強法としては、師から与えられた手本や作品の模写を集めた縮図帖を通して、所属する流派の手法を学んでいくことが一般的であり、自分の所属する「流派」の枠の中から出ることはなかった。

しかし、若き栖鳳の関心は円山・四条派内に留まらなかった。流派の祖にあたる円山応挙・呉春らだけではなく、室町時代の雪舟をはじめとする水墨画の古典や狩野派の作品をも研究し、写生帖に模写していった。

1884年からは、狩野派の源流とも言うべき北宗画(中国絵画の流派の一つ)を学ぶべく、京都画学校にも通い始めている。

このように栖鳳が幅広く関心を持ち、学びを進めていけたのは、後進の育成に力を入れていた師・楳嶺の理解と後押しがあったからこそだ。

また、1886年に祇園で行われたアメリカの東洋美術史家・哲学者のアーネスト・フェロノサの講演を聞いたことも大きい。1878年に来日したフェロノサは、当時の日本が西洋文化崇拝に傾き、これまでに培ってきた日本美術が衰退の一途を辿っていることに対し、警鐘を鳴らしていた。

西洋画と比べても日本画には多くの美点があるが、このまま廃れてしまって良いのか?そして、その対策として、流派に拘らず、日本、中国そして西洋の美術がそれぞれに持つ長所を参考にして、京の伝統絵画を「改良」することを説いた。

彼の言葉は、京都の若い画家たちに大いに感銘を与えた。栖鳳もその1人だった。

四条派や、その他伝統の枠組みに囚われない新しい絵画をこの手で作り出したい。そのためにももっと学び、自分の技を磨いていきたい。その学びの対象として、西洋を意識し始めたのもこの頃からだっただろう。

1887年に画家として独立した後も、彼は身近な動植物の観察と写生に加え、過去の先輩たちの作品の研究により力を注ぎ、学んだ成果は早速自分の作品の中で実践していった。

時には、一枚の作品の中でモチーフごとに異なる流派の技法を用いることもあった。

そんな彼のあり方は、保守的な画家や批評家たちから非難された。様々な動物の部位を寄せ集めた妖怪・鵺になぞらえて「鵺派」とまで呼ばれた。が、栖鳳は気にしなかった。開き直っていたと言っても良い。

早い段階で流派の枠組みに自分をはめ込むよりも、むしろ幅広く学び、挑戦した方が良いと語っている。

最初はうまくいかないかもしれない。が、失敗を恐れず、実践を繰り返していく中で、自分の中にうまく落とし込み、自分のものとしていくことができる。やがては混沌の中から「自分の画風」とも言うべきものが立ち上がってくる。そう信じていた。

実際に、「新たなものが生まれる予兆がある」と擁護し、期待する声もないわけではなかった。

②竹内栖鳳の転機:ヨーロッパへ


1900年、栖鳳はパリ万博視察のため、海路でヨーロッパへと向かう。同年9月にマルセイユに到着すると、約7ヶ月かけてフランス各地だけでなく、オランダ、ベルギー、ドイツなど数カ国を巡った。

この旅行は、栖鳳にとって濃密な時間となった。行く先々で目にするもの、耳にするもの、全てが新鮮な驚きに満ちていた。

パリでは当初の目的である万博の視察に加え、ラファエル・コラン(黒田清輝のフランスでの師)やコルモン、ジェロームらアカデミズムの大家たちと面会。美術館ではコローやターナーらの作品に触れて感銘を受けた。ドイツのドレスデンの美術学校では裸体デッサンの授業を見学した。

他にもヴェネツィアやローマなど行く先で目にした風景を写生することにも力を入れている。

竹内栖鳳、〈羅馬之図〉、1903年、海の見える杜美術館(パブリックドメイン)

, Public domain, via Wikimedia Commons.

だが、この時期の栖鳳にとって何よりも大きな経験は、アントワープの動物園でライオンの実物を見、写生したことだろう。

もともと日本美術にも「唐獅子」というモチーフは存在していた。これは、仏陀の一族を守る聖獣とされたインドライオンが中国に伝わり、図案化されたもので、安土桃山時代の狩野永徳の作例が有名だ。

(国宝)狩野永徳、〈唐獅子図屏風〉、16世紀、宮内庁三の丸尚蔵館

, Public domain, via Wikimedia Commons.

パターン化した「唐獅子」ではなく、本物の獅子(ライオン)を見て、描くことは、栖鳳にとってかねてからの夢だった。栖鳳は当初の滞在予定を3週間延長して、スケッチブックを片手に動物園に通い詰めた。あらゆる角度からライオンの様々な姿態を観察し、ひたすらスケッチしていった。

帰国後、号を「栖鳳」へと改めた栖鳳は、旅先で目にした風景やライオンなどを題材に多くの作品を手がけていく。

竹内栖鳳、<獅子>、1901~2年、東京富士美術館(パブリックドメイン)

, Public domain,「東京富士美術館収蔵品データベース」.

竹内栖鳳、<獅子>、1901~2年、東京富士美術館(パブリックドメイン)

, Public domain,「東京富士美術館収蔵品データベース」.

この〈獅子〉は、帰国から間もない時期に描かれた六曲一双の屏風で、左右にはそれぞれ大きな椰子の木と木々の間を悠然と歩むライオンの姿が描き出されている。金地の背景に大きなモチーフを配する大胆な構図は、永徳以来の大画様式の伝統に通じるものがある。

が、ライオンは鬣や全身を覆う体毛の一本一本までもが細かな線で描き込まれ、地面を踏みしめる四肢や先端に植わった爪が力強さを感じさせる。また、色の濃淡によって陰影や立体感も演出されている。

半ば開いた口からは生温かい息が漏れ、今にも動き出しそうな気配すらある。古典作品から学んだ表現を踏まえつつも、生きたライオンの観察と写生というそれまでになかった要素を組み込んだこの〈獅子〉は、まさに新しい「日本画」を代表する作品と言えるだろう。

同じように栖鳳がライオンをモチーフに描いた屏風作品は、現在7点が確認されている。

③写実と写意ーーー竹内栖鳳の見出した答え


ヨーロッパへの旅を通して、栖鳳の視野は大きく広がった。

西洋美術の作品に触れることを通して、栖鳳はその根幹にある「写実」(実物を観察し、正確に写し取る)の重要性を実感した。

同時に、西洋美術にはない日本美術の重要な要素である「写意」についても考えた。写意とは、モチーフの形を客観的に写し取る「写実」に対して、モチーフの本質やモチーフを前に描き手自身が感じたものを絵にこめることを指す。

この「写実」と「写意」の融合こそが、栖鳳が見出した「新しい日本画」の答えだった。そして、「写実」と「写意」を結びつける方法として重要なのが、モチーフの入念な観察と写生だった。

ただ、形をなぞるだけでは十分ではない。頭の中だけでモチーフを想像し、描くのでもない。

モチーフを実際に目の前に置き、観察する。感覚を研ぎ澄ませ、モチーフの本質を、自分の中に湧き上がってくる感情を見つめながら描く。その繰り返しは、画家自身のアンテナを磨き上げることにもつながる。

「写生は絵になるものを捜す手段だ」(神崎憲一「栖鳳語録」、『国画』2巻9号 昭和17年9月、山種美術館所蔵 竹内栖鳳作品集』、2022年、p.46)―――栖鳳自身も、こう語っている。

実際に作品を見てみよう。

(重要文化財)竹内栖鳳、〈斑猫〉1924年、山種美術館

, Public domain, via Wikimedia Commons.

沼津を訪れた際、八百屋の店先で見かけた猫を気に入った栖鳳は、交渉の末猫をもらい受ける。京都に連れ帰った後も、写生や写真撮影を通して猫とひたすら向き合い続け、ついに完成させたのが、〈斑猫〉だ。

猫の柔らかな姿態やつやつやした毛並み、毛づくろいを止めてこちらを見上げた瞬間の表情が生き生きと描き留められている。絵の前に立つと、思わず絵であることを忘れ、手を伸ばしたくなるほどだ。

一方、こちらの〈絵になる最初〉は、栖鳳には珍しい人物画だ。

竹内栖鳳、〈絵になる最初〉、1913年、京都市美術館(パブリックドメイン)

, Public domain, via Wikimedia Commons.

1910年、東本願寺大師堂門天井画の制作を依頼された栖鳳は、天女図を描くことを構想していた。その際に、かつてドレスデンの美術学校で見た裸体モデルのデッサン授業に倣って、自身も裸体モデルを使って描くことを思いついた。

が、モデルの女性は裸になる、ということに慣れていなかったため、困惑し、恥じらいを示した。この出来事が栖鳳の心に残り、〈絵になる最初〉誕生につながったと言われている。

後ろには帯が丸めて置かれ、着物も脱いだものの、裸身をさらすことに戸惑い、着物で体を隠しながら手を顔の前にかざす仕草やほのかに赤らんだ頬が初々しさを感じさせる。モデルの恥じらいと共に、栖鳳の心の琴線の震えが絵から伝わってくる。

”新しい時代に即した日本画とはどんなものか?”
その問題に対し、栖鳳は幅広い画法を学び、研究した末、写生をベースとした画法を作り上げることでもって応えた。栖鳳が重んじた写生は、見えたものをただ写し取る手段ではない。写生と一口に言っても、見るたびに異なるものが見えるし、感じることも人によって違う。

つまり、同じモチーフに対する見え方、感じ方の答えは一つではない。何百何千通りもの見え方があり、描き方がある。自分の「感性」を信じ、それに意識を向け、磨くこと。それを栖鳳は自らの絵を通して実践し、上村松園をはじめ弟子にも伝えた。

一方で、画壇をリードする立場になってからも、挑戦することを恐れず、〈絵になる最初〉など人物画も手がけた。自分に限界を作らないこと。挑戦し続けること。それらを実践し続けたところに、栖鳳の真価があると言えよう。

栖鳳がそのみずみずしい感性でとらえた生命の息吹は、今もなお絵の中で息づいている。

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