熊本県奥阿蘇の地に湧く産山(うぶやま)温泉『やまなみ』。祖父母から手渡される想いのバトンリレー
清らかな名水が湧く熊本県奥阿蘇の山里に、築100年を超えた古民家の宿『奥阿蘇の宿 やまなみ』が佇む。祖父の造った風呂と祖母直伝の漬物を受け継ぎ、“宿大好き”な若旦那が目下、奮闘中——。
今回の“会いに行きたい!”
若旦那の森本武蔵さん・初代の幸隆さん・女将の節子さん・2代目社長の隆文さん(左から)
「この宿は自分が守る」。宿で育った青年の熱き想い
「小さな頃から宿に住んでいて、布団敷きなんて5歳からしていたんですよ」
「跡取りがいない」と嘆く宿は多いが、『奥阿蘇の宿 やまなみ』には人一倍、旅館愛が強い青年がいる。宿の若旦那・森本武蔵さんだ。
「お前はこれから、大学に行け。ほかの仕事をしたほうがいい」。初代・幸隆さんがそうアドバイスをしたものの、孫の武蔵さんは高校卒業と同時に鹿児島県妙見温泉の旅館に就職を決め、2年の修業を経て、20歳で宿に戻ってきた。
「跡継ぎがいなかったら宿は売るか、潰すかしかない。祖父母が懸命につくり上げ、守ってきた宿をほかの人がやるのは嫌だ」。そう考えていた武蔵さんは進学せずに、早めに宿に戻ることを選んだ。
『やまなみ』は民宿からスタートした。もとは農家だったが、昭和40年代後半、村おこしの一環で造られた「民宿村」のうちの一軒として創業し、のちに旅館業に転身。
旧波野村から築100年超えの茅葺きの古民家を移築し、何千万円も投資して温泉を掘った。庭には譲ってもらった山の木を一から植えた。
当初、孫が大学に行かずに旅館業を継ぐことに反対したのは、これまでの苦労が並大抵ではなかったから。それにもかかわらず、孫の武蔵さんは宿に戻ってきた。
現在の社長は、千葉のホテルで料理人をしていた父・隆文さんだ。武蔵さんは宿の一角に住み、休みの日にはほかの宿を泊まり歩いて、勉強する日々だ。信念を貫く強さは祖父譲りか。
「造れんなら、俺が造る」。宿づくりの師は後藤哲也さん
幸隆さんが温泉を掘ろうと決意したとき、村は調査しても温泉は「出らん(出ない)」と言ったそうである。
誰も味方がいない四面楚歌のなか、「いまの技術なら出る。いまどげんしとかないと、将来困る」と幸隆さんは一人で踏ん張った。結局、温泉が出たのはそれから1年以上経ってからのことである。
当時あった民宿で残っているのは『やまなみ』を含めて2軒。「パッとひらめいたことをやって、成功した」と振り返る。休みなく働いて、儲けはほとんど自分たちの給料にせず、お金が入ればひたすら宿に投資した。
「妻からは『あんたについてきて、体がへとへとになった』と言われてしまいました」と幸隆さんは笑う。
宿を始めた頃、“温泉地づくりのカリスマ”ともいわれる、黒川温泉『新明館』の故・後藤哲也さんがたまたま遊びに来て、「これじゃいかん」とアドバイスをくれた。ケンカもしたけれど、仲よくなり、遊びに来るたびにお茶を飲んで話し込んだ。
九州には後藤さんに触発された宿がいくつもあるが、『やまなみ』もその一つ。
黒塗りの柱や梁、手描きの看板、手造りの貸切風呂などは『新明館』の意匠に通じるものがある。「あの人は素晴らしい人。弟子のようなもんだった」と幸隆さんは言う。
風呂を造るにしてもありがちな風呂にはしたくない。左官さんにイメージを伝えると「あげな風呂は好かん」と断られた。
当時、きっちり寸法を測った風呂ではなく、自然の造形を生かした、不均一な風呂は嫌がられたそうだ。そこで「造れんなら、俺が造る」と、みずから重機を運転して石を積み、風呂を磨いた。
そうしてできたのが「かぼちゃ湯」。後藤さんから譲ってもらった石を積み上げ、セメントを流し入れ、表面を磨いた。
「あれは難しかったなあ」と幸隆さんは振り返る。人工物はシャワーやカランなどの最低限に抑え、目隠しに竹や、木の屋根を支える支柱に切り出したままの丸太など、自然物を使っている。脱衣所の窓枠も木で、癒やしの風呂とはまさにこういうものをいうのだと合点がいく。
庭にはモミジやコナラが植えられ、秋の紅葉は息を呑むほど美しい。「一生懸命、お客さんが喜んでくれるものを造った。ただそれだけです」と、幸隆さん。喜んだお客さんが友だちを連れて再びやってくる。その繰り返しでここまできた。
「お客さんの多いところは、社長みずから草むしりなど、いろいろしている。社長がネクタイしていばっているところにお客さんは来ん。これははっきりしている」と幸隆さん。なかなか、深い言葉だ。
曾祖母から受け継いだ味。24種類の漬物バイキング
この宿は料理もおいしい。梅酒は無農薬の実で作られ、お煮しめはシイタケやサトイモ、ゼンマイ、ニンジンを別々に炊く。辛子蓮根や馬刺、高森町のニジマスなど、地元の味も味わえる。
お椀はニンジン、ゴボウなどを入れた郷土の団子汁。そして、この宿の看板ともいえるのが、24種類の「漬物バイキング」だ。
梅干しやハクサイ、ダイコンのほか、ショウガ、ラッキョウ、高菜、カボチャなどさまざまな味が楽しめる。変わったところではマイタケやワラビ、ゼンマイなどの山菜も漬物に。阿蘇の山に分け入って、半日かけて収穫してきた山菜だ。
かつて食材がなかった時代に「お客さんに喜んでもらうにはどうしたらいいか?」と考えて、思い浮かんだのが、女将・節子さんが母親から受け継いだ漬物だった。
そのレシピが記してある秘伝の手帳は、もともと水色だったが、いまでは茶色く変色するほどの年季もの。
子どもの頃からおばあちゃんである節子さんのたくあんを食べて育った武蔵さんだが、「塩のさじ加減で微妙に味が変わってくるので、おいしく作るのは難しい。むかしの人ってすごいなと思います」と、味を受け継ぐことの苦労を話す。
囲炉裏を備えたテーブルで食べる漬物のうまいこと。おはぎと漬物の絶妙な甘辛が、温泉とともにやさしく体に沁みわたる。
若旦那おすすめ! 立ち寄りスポット
春〜秋に高原の花を観賞できる「ヒゴタイ公園」
青紫色の花が、丸いボールのように見えるヒゴタイは8〜9月が見頃。春にはハルリンドウ、秋にはコスモスが咲く。
“神の産湯”と称される水が湧く「池山水源」
樹齢200年を超える樹木に覆われ、清らかな軟水が毎分30tも湧く。駐車場脇には水を汲む給水所もある。
奥阿蘇の宿 やまなみ
住所:熊本県産山村田尻254-3/アクセス:JR豊肥本線宮地駅から車20分
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2025年3月号より
野添ちかこ
温泉と宿のライター/旅行作家
神奈川県生まれ、千葉県在住。心も体もあったかくなる旅をテーマに執筆。著書に『千葉の湯めぐり』(幹書房)、『旅行ライターになろう!』(青弓社)。最近ハマっているのは手しごと、植物、蕎麦、癒しの音。