人が割り振られるものは不平等な世界で「その腕は誰かを守るために」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの【卒業式、走って帰った】
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。今回は「体力があるのは、単なる当たりくじ」という篠原さんのお話です。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より
その腕は誰かを守るために
最近、より一層強く自覚するようになったのだが、私はかなり体力がある。
深夜2時まで博論を執筆し、翌朝7時半に起きて、子を連れて用事をこなした後に、ワンオペでディズニーランドに行けるくらい体力がある。
今までもそれなりに体力があるという自負はあったのだが、日常生活で使い切ることがなかったので、体力がなくて困ったことがない。それならばあるということだろうと考えていたのだ。
そもそも私は、筋肉がつきやすい。生きているだけで筋肉がつくので、初めて行く整体やマッサージ店では、必ず、何のスポーツをしているのか聞かれる。予想を外すのは何だか申し訳ないような気がして、大学入学後1年程度で辞めたタッチフットボールや、半年程度練習生をしていたプロレスを持ち出して、スポーツをしていたかのように振る舞ってしまう。まともに続けたものはクイズ研究会だけなのに。
普段はさほどそう見えないと思うのだが、ノースリーブの服を着たときの私の肩周りのたくましさには目を見張るものがある。
初めてのベビーシッターさんに来てもらったときに、「あの、テレビでお見かけしたことがある気が……!」と言われて、一応タレントを名乗る身として「あ、ちょこちょこ出てます〜」とニコニコと返したところ、「やっぱり! 投げる方ですか? 固める方ですか?」と身振り付きで言われて、どなたか格闘家と間違われていた。誰と間違えているのか、心当たりがある人は是非教えてほしい。
見せかけの筋肉ではなく、70kg台前半までならお姫様抱っこができるし、90kg台でも持ち上げることはできる。
90kg以上あるのに、さほど大きくない私に持ち上げられたことを不思議に思った弟は、誰にでもできることなのかと気になったらしく、女友達数人に自身を持ち上げてもらおうとしたが、誰も持ち上げることができなかったと言っていた。
弟からは、「すごいすごい」と褒められたが、私には、持ち上げてくれようとする女友達が複数人いることの方が衝撃的すぎて、全く褒め言葉が入ってこなかった。
おそらく、筋肉がつきやすい体も、底のない体力も親から遺伝したものである。父は格闘技で、母は武道でなかなかの実績を残しているし、家族全員肩幅がたくましいので、家族写真を撮ると、やたら横に広い。
本題に入るのだが、つまり、私はこの体力を得る上で、何の努力もしていない。
体力があることも腕力があることも相当便利だ。
腎臓が一個動いていないとかは別として、肉体に関しては、かなり当たりくじを引いたなと思っている。
体力があると便利だということに自覚的になったタイミングは結婚と子育てである。
一族郎党パワパワのムキムキだったので、体力がないバージョンの生活というのを見たことがなかったのだが、砂糖菓子のような夫と結婚したことで、初めてそれを目の当たりにして、その違いに愕然(がくぜん)とした。
例えば、産休に入って体力を持て余した私に付き添って散歩していると夫が先にダウンする。14kg増量し、はち切れそうなお腹を抱えた私の歩みにも夫はついてこられなかった。ただ、その頃は、毎日1万2,000歩歩いていたし、実際には、夫だって、過酷な受験勉強を乗り越えた経験があり、人気のあるYouTuberとして忙しく活動しているということは、筋力はおいておいて人並みより体力がある可能性はなきにしもあらずなのだが、私と夫の二者間で比べたときに、体力にここまでの違いがある上で、おおよそ同じだけのことをして生きていくというのは、あまりに不公平だと感じた。
少し前にXで「体力なし女」というワードが飛び交った。彼女の体力がなくて、平日に会えないことを嘆くポストが発端になって、「体力なし女」を自認する人から「体力なし女」を非難する立場の人まで議論が巻き起こった。有用なライフハックも多くあったが、元のポストが後者の立場に寄っていたこともあり、「体力のない人をパートナーに選ぶべきでない」という話にまで発展していた。
それは全くそのとおりなのである。
体力のない人を許容できずに相手に責任を求めるような弱い人間は、共同生活にまるで向いていないので、一人で生きるか、その弱さすらも引き受けてくれる人を探し求めるしかないのだ。
体力があるのは、単なる当たりくじである。体力がない方が合わせるということはできないのだから、体力がある方が合わせるのが当然だ。誰かの体力のなさを許容できないということは、自分の弱さであると捉えた方が正しい。
人間それぞれに割り振られたものはあまりに不平等だ。だから社会の中において共同で何かを行おうとするとき、各自に同じ成果を求めることは平等にならない。
結婚して一つの家庭を運営するならば、構成員2人の社会から始まるのでなおさらだ。
たとえ、努力して手に入れた筋肉や体力であったとして、自分が努力して得たものなのだから、愛する人にすらそれを分け与えないというのは、その広い肩幅に見合わない狭量さではないかと思う。
偶然当たっただけの自分の体力を鼻にかけて、愛する人に寄り添えない程度の力ならば、最初からない方がずっとマシである。
我が家に子が誕生したとき、私の父が、「体格は私似、顔は夫似。最強」という旨のコメントをした。顔をただの肉体の一パーツとして捉えているゆえの発言であることは分かっているので不愉快に感じることはなかったが、社会の中で生活している人間の一人なのだから、私は、もっと発言には気をつけろよとは思った。
しかし、その印象どおり、私によく似た底なしの体力を持ち、腕力に優れた1歳児へと成長した。重い物を持ち上げることを好み、椅子をひっくり返し、寝る前にはスクワットをして体力を使い切っている。
子が生産まれる前、子が何歳になったらフィジカルで競り負けるだろうかと話していたときに、夫は「10歳」と予測を立てていたのだが、実際に産まれてみて「3歳」へと下方修正していた。
正直、この底なし体力があれば、子育ても余裕だったりするのでは? と期待していたのだが、まさか底なし体力の子を育てることになるとは……と天を仰ぐ毎日だけれど、私自身も両親からこの肉体を受け取っている以上、至って妥当であり、しかたないことである。しかし、夫からしたらたまったものじゃないだろう。それでも、力の限りがんばっている。今、この原稿も、夫が予防接種のために子を病院に連れていっている間に執筆している。
先に体力があると便利だということに自覚的になったタイミングの一つに「子育て」を挙げたが、仕事と研究と家事に子育てが加わったとき、実は底なしだと思ってきた自分の体力の底が初めて見えたのだ。
夫と私の繁忙期が重なったり、夫や子どもが風邪を引いて看病が加わったりすると、「さすがに今日の分の体力は使い切ったな」と感じることがある。
「私がムキムキじゃなければ、危なかった……」と思うこともある。
体力の底が見えると、やはり余裕がなくなる。以前は、いつでも花を眺めるように夫を見ていたけれど、最近は先に弱音を吐かないでくれと怒ってしまうこともある。
だから、私はもっと強くなりたい。双肩に家族を乗せて、どこまでも歩いていけるくらい強くなりたい。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)、『歩くサナギ、うんちの繭』 (大和書房) 、『かわいいが見つかる! 推しいきもの図鑑』(永岡書店)、『見つけたら神! すごレア虫図鑑』(日本文芸社)などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈