三条木屋町の『瑞泉寺』は豊臣秀次一族が静かに眠るお寺
三条小橋からすぐ南にひっそりとたたずむ瑞泉寺。ここは、豊臣秀次一族を弔うために建てられたお寺です。静かな境内で過ごした非業の最期を遂げた人たちを思う時間…。今回は、そんな瑞泉寺について紹介します。
瑞泉寺について
瑞泉寺(ずいせんじ)は浄土宗西山禅林寺に属する寺院で、慈舟山と号します。
建立されたのは慶長16年(1611)
豊臣秀次一族を弔うために建てられました。
秀次は豊臣秀吉の甥にあたり、子に恵まれなかった秀吉の養子となり豊臣家の後継ぎとなりました。
ところが秀吉の側室・淀君が秀頼を産んだことで、秀次は邪魔者扱いされるようになります。
秀次は秀吉の側近・石田三成らからの誹謗中傷に晒されたうえ、謀反の疑いまでかけられて、高野山に追放されたのです。
結局切腹させられた秀次。
その半月あまり後には秀次の首の前で、側室や子供たち39人が三条河原で公開処刑されたのです。
遺体は大きな穴に投げ込まれて塚が築かれただけだったそうです。
それから16年後のことです。
京の豪商・角倉了以が秀次一族を弔うために墓地と寺院を建立します。
寺院は、秀次の法名にちなんで瑞泉寺と名付けられました。
瑞泉寺は、太閤秀吉によるあまりにも無惨な事件を今に語り伝えるものなのです。
瑞泉寺境内
騒々しい木屋町に面した瑞泉寺の門をくぐると左手には休憩所を兼ねた資料室、奥に本堂が見えます。
本堂がある場所は、秀吉一族が処刑されて投げ込まれた「殺生塚」があった場所です。
ご本尊は阿弥陀如来立像。
堂内には入れませんが、表からお参りすることはできます。
参道を挟んで本堂の向かい側には秀次一族のお墓が建てられています。
中央にあるのが秀次のお墓。両側に一族のお墓が並んでいます。
秀次のお墓の中央には、秀次の首を納め「殺生塚」の上に据えられていたという石びつが置いてあります。
石びつには「秀次悪逆塚」という文字が刻まれていましたが、角倉了以が削り取らせたそうです。
お墓に向かい合うように立っているのは、宝筐印陀羅尼之塔(ほうきょういんだらにのとう)です。
秀次一族の供養のために建てられました。
お墓の隣には、地蔵堂があります。
この地蔵堂にお祀りされている地蔵菩薩は、秀次と親しかった僧・貞安が一族処刑の際に秀次の首の前に置き、処刑される人たちに引導を渡し続けた仏像だと伝わっています。
引導とは、亡くなった人を極楽へ導くこと。
優しいお顔の地蔵菩薩像が処刑を待つ女性子供たちをどれだけ慰めたことでしょうか。
今このお地蔵様は「引導地蔵尊」と呼ばれて、多くの人に崇敬されています。
堂内に安置されている人形は、処刑された女性や子供、殉死した家臣たちの姿を写して作られたそうです。
彼女ら彼らの無念と悔しさ、恐ろしさや悲しさが伝わってくるようです。
時の権力者による非道に斃された秀次と家族たち。
どうか安らかに、静かに眠ってほしいと願うばかりです。
境内の一角には瓦紋が埋められていました。
これは、明治維新後の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際、寺が菊花紋を塗りつぶしたものだと考えられています。
菊花紋は天皇家の御紋。
どのような理由であれ天皇家に災いが降りかかってはいけないという思いで、菊の模様をあえて消したようです。
初めに紹介した資料室には、秀次・秀次一族処刑に関する資料や瑞泉寺に関わる新聞記事、寺宝の紹介写真などが展示されていました。
じっくりと読んでみると改めて事件の無惨さを感じます。
瑞泉寺は、幕末の旗本で日米修好通商条約締結に重要な役割を果たした岩瀬忠震(いわせただなり)ゆかりの地でもあります。
条約調印に際し、朝廷の許可を得るために入洛した岩瀬が宿舎としたのが瑞泉寺でした。
岩瀬の京滞在の間には、開国派として志を同じくする橋本左内(安政の大獄で死罪)が瑞泉寺を訪ねてきた地でもあり、幕末の歴史的な遺蹟として知られています。
多くの人が素通りしていく瑞泉寺は、重くて悲しい歴史を背負い、伝え続けてている寺院でした。
悲惨な出来事の現場となった場所ですが、今は静かで清潔な雰囲気の境内。
早春の梅や紅葉も美しいお寺です。
静かな瑞泉寺で秀次一族に思いを寄せる時間をお過ごしください。
瑞泉寺の基本情報
・住所 京都市中京区木屋町通り三条下る石屋町114-1
・電話 075-221-5741
・境内自由
・拝観時間 7:00~17:00
・アクセス 京阪「三条」徒歩約5分/阪急「河原町」徒歩約10分
・HP https://zuisenji-temple.net/