西国街道西条四日市で、今なお残る宿屋・店・酒造・役所・神社などの面影や史跡を巡る【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:國松宏史
近世山陽道の西宮~赤間関 街道沿いの見どころ
江戸時代の街道整備
江戸時代に入ると政治、経済、軍事の中心が江戸に移っていく。幕府はそれらの活動を円滑に進めるために〝日本橋〟を起点とする〝五街道〟(東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道)の街道整備政策を進めた。
街道には宿場が指定され、人馬の継立(つぎたて)を行う問屋場(といやば)や諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠(はたご)などが徐々に整備された。3代将軍「徳川家光」が寛永12(1635)年武家諸法度を改訂し〝参勤交代〟が明文化されると、各所に関所、橋、松並木、一里塚などの街道整備が加速された。
山陽道
京都の羅城門(東寺口)から赤間関(下関)に至る街道である。中世までは最重要幹線道路として扱われた〝山陽道〟は、江戸時代に入ると、東海道~山崎道と連結する〝脇街道〟となったが、江戸~九州を結ぶ街道として重要視された。
西国街道
広島藩では近世山陽道の西宮~赤間関を〝西国街道〟と呼称した。街道は、道幅二間半(約4・5㍍)と定め、藩内に35カ所の一里塚を設けるなど街道の整備を行った。東広島市内にも当時の名残を示す史跡が多くある。
街道沿いの見どころ
ルートには、昭和55(1980)年、東広島ウエストライオンズクラブと東広島郷土史研究会の共同事業として11カ所の要所に、石柱(高さ150㌢、15㌢角)や説明板が設置されている。
田万里方面から、①石立茗荷清水 ②日向(ひゅうが)一里塚 ③松子山峠 ④歌謡坂(うたうたいざか)一里塚⑤四日市御茶屋跡 ⑥時友一里塚 ⑦飢坂(かつえざか) ⑧長尾一里塚 ⑨大山(おおやま)峠 ⑩大山清水 ⑪旧賀茂郡・安芸郡境 (※注1別表 ルート絵図参照)
また、東広島市教育委員会や地元団体が設立した記念碑もある。今回はあまり知られていない一里塚や石造物・説明板を紹介したい。
〈1〉日向一里塚(上三永)
東広島呉自動車道の建設に伴い、平成12(2000)年に発掘調査が行われた。調査の結果、盛り土は長年の風雨で流失していたが2~3段の石積みで、北塚、南塚が築かれ、道路幅も4~5㍍で広島藩が整備した規格と一致していた。西国街道唯一の〝一里塚発見〟であった。
高架下にあったので、平成18(2006)年60㍍西方に移転復元された。
〈2〉松子山峠越え
日向一里塚~松子山峠(ゴミ焼却場・広島中央エコパーク裏)間は、山間の曲がりくねった道で湿地も随所にあり〝西の小箱根〟と呼ばれる難所であった。現在も通行可能であるが、倒木をくぐったり、またいだり、草木をかき分けながらの山道が続く。
松子山峠越えに挑むなら、長靴、ナタ、鎌、ノコギリ等を準備して日向方面からの進行を勧めたい。松子山方面から日向方面に向かうと道に迷う箇所が多い。
〈3〉かご松之碑
松子山峠を抜けるとエコパークに向かうゴミ収集車や助実(すけざね)・上三永方面に向かう自動車が行き交う山頂付近の道路に出る。この坂道を500㍍程下ると原比川に架かる橋がある。その袂(たもと)にかご松之碑が建つ。
高さ40㍍、幹回り6㍍、大人4人抱えの大松で、参勤交代の大名が籠を止めて休んだので「かご松」と呼ばれるようになった。昭和18(1943)年枯死したが、ある酒造会社の門扉や板塀となっている。
〈4〉今宮神社と歌謡坂一里塚
かご松之碑からさらに500㍍程下ると、今宮神社(牛宮神社)がある。この神社に「牛滿長者伝説」が残る。
西条土与丸に焙烙(ほうろく~茶葉や豆などを炒る素焼きの土鍋)を行商する男がいた。ある日、一頭の牛が倒れていたので、自分の弁当を食べさせてやったが牛は死んだ。その体をなでてやると壊れて金に変わり、男は〝牛滿長者〟となり、西条盆地の田はほとんど長者のものとなった。
田植え歌が助実から始まったので歌謡坂の地名が付いた。今宮神社下方400㍍の旧道に「歌謡坂一里塚」の石柱が建つ。
〈5〉宿場町西条四日市
広島藩直営で藩内最大級の本陣や賀茂郡御役所などが置かれた。宿場町西条四日市については、次回の「西条四日市の道の変遷」で詳しく紹介したい。
〈6〉時友一里塚
国道486号JR寺家駅入り口手前の黒瀬川に架かる友待橋の袂に大きなパチンコ店がある。裏側の駐車場に入る細道の端に「時友一里塚」の石柱が建つ。
説明板に、西条酒蔵通り(四日市)から国道486号寺家陸橋までの通りが〝西国街道の道幅のまま遺っている〟と記している。
〈7〉飢坂の由来
時友一里塚から真っすぐ進むと〝賀茂ハイツ〟と書かれた表示板がある。その急坂を登ると比較的なだらかな山道となる。しばらく進むと「飢坂の由来」の2説を紹介する看板がある。
①牛滿長者の田植えが、歌謡坂から賑(にぎ)やかに始まり、浜田(東広島警察署のあたり)付近で昼食を食べ、夕方 この峠に辿(たど)り着くが、腹が減って倒れそうになるので〝飢坂〟と言うようになった。
②大飢饉(ききん)の年で飢えに苦しむ人々が、食べ物を求めて街道筋は行列をなしていた。村人達が炊き出しを行っていたが、峠に達するや力尽きて倒れ死ぬ人が多く出た。それから〝飢坂〟と呼ぶようになった。
〈8〉長尾一里塚と八本松
飢坂を下ると八本松町に入る。オンド工業~清水川神社~広島県立教育センター~八本松駅裏~山陽本線を再び渡り、坂道を上がると国道486号沿いに〝ミスターマックス〟という店がある。その駐車場横の道路脇に「長尾一里塚」の石柱が建つ。
長尾一里塚は、当時、宗吉村と飯田村の境にあり街道の両側に松が植えてあった。その枝振りは双方4本ずつ折り重なり、合わせて8本の枝が延びていたと伝わる。
〈9〉大山峠
大山峠は賀茂郡と安芸郡の郡境である。山越えは、標高300㍍を越す急坂が続き、瀬野側からの山頂付近には「代官おろし跡」の石碑が建てられた程の険しさである。
山頂に辿り着くと、参勤交代の大名が休息した「憩亭」や名水「大山清水」の石碑があり、旅人の喉を潤したと伝わる。この大山清水付近に建武年間(1330年代)から土着し、八代続いた刀職人「大山鍛冶」の五輪塔がある。
大山峠は西国街道最大の難所と言われ、明治18年(1884)に瀬野川沿いに道路が新設されるまで、幹線道路として多くの人や物資が往来した。
プレスネット編集部