【荒んでいた平安時代】心の拠りどころを神仏に託した2人の法皇・花山院と後白河院
花山法皇と後白河法皇。霊場との関わりを紹介
平安時代は、その名からして「平和で安らかな時代であった」と想像してしまう人もいるのではないだろうか。
しかし、その実態は藤原北家を中心とする勢力との権力争いで、多くの名門氏族が没落していった波乱万丈の時代だった。
平安初期や末期には、貴族や上級武士の処刑も度々行われていた。
そうした時代ゆえに、時代の頂点にたつ皇族である天皇・上皇たちは、その熾烈な権力争いと無縁ではいられなかった。
今回はそんな時代に生き、その心の拠りどころを神仏に託した2人の皇族・花山法皇と後白河法皇を、巡礼・霊場との関わりに絞りながら紹介しよう。
現世と来世の安楽を願う巡礼・三十三観音信仰
読者の皆さんは、「観音巡礼・観音霊場」という言葉を御存じのことと思う。
花山法皇と後白河法皇は、この観音霊場と密接な関係をもった人たちだった。
観音は、救いを求める人の願いに寄り添い三十三の姿に変身し、人々を救済するとされる。そのため、三十三か所の観音堂を参詣し、現世と来世の安楽を願う巡礼が三十三観音信仰である。
観音は、仏教における菩薩の一尊で、「観世音菩薩・観自在菩薩・救世菩薩」など多数の呼び方がある。
この仏様は、救いを求める人々を観察して自在に救う菩薩とされる。
すなわち、助けを求める人をよく見て、助けたい人が望む姿となって現れるのだ。
お祀りされている観音様で一番多いのは、聖観音だ。
他にも十一面観音・千手観音など、多くの顔や手を持つ観音様がお祀りされており、いずれも救いの姿を表現しているとされる。
平安中期、西国三十三所巡礼を中興した花山法皇
日本における三十三観音巡礼は、古くから全国で行われた。
その代表的なものが、奈良時代に開かれたという「西国三十三所巡礼」である。
「西国三十三所巡礼」を中興したとされるのが、平安時代中期の花山法皇である。
法皇は、第63代冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣・藤原伊尹の娘の女御懐子だった。
法皇は、永観2(984)年に17歳で天皇に即位した。
時代は、摂関政治の最盛期であったが、即位時に有力な外戚・藤原伊尹を亡くしていた法皇は、即位直後から藤原氏の権力争いに巻き込まれた。
皇太子・懐仁親王の外祖父である右大臣・藤原兼家(かねいえ)は、花山天皇の早期退位を願って天皇と対立。
そこに女御である忯子が、17歳で死去するという悲劇が重なった。
蔵人として近侍していた兼家の三男・道兼(みちかね)は、悲しみに暮れる花山天皇に同情し「一緒に自身も出家する」と唆し、内裏から元慶寺に密かに天皇を連れ出した。
そして天皇は落飾(高貴な人が仏門に入ること)したが、道兼は出家せずに、そのまま兼家邸に戻ってしまったのである。
これを寛和の変(かんなのへん)ともいい、出家した天皇は、懐仁親王(一条天皇)へ譲位。
僅か2年で退位し、太上天皇となった。
これは、藤原兼家一派による完全なクーデターであり、天皇が欺かれた事件であった。
逃げ出すように御所から出奔した若き法皇は、この後、数十年の歳月を巡礼に過ごしたという。
藤原北家の熾烈な勢力争いにより翻弄された法皇が、神仏にすがり、修業や祈りの中でその心を癒したのは無理のないことであった。
花山法皇の足跡や伝説は「西国三十三所巡礼」をはじめ「洛西三十三所観音霊場」の札所。さらに「熊野古道」の王子や地名などに、今も色濃く残されている。
洛陽三十三所観音巡礼を創始した後白河法皇
平安末期、その広さゆえに巡礼が困難な「西国三十三所巡礼」に代わるものとして設けられた霊場が、「洛陽三十三所観音巡礼」だ。
「洛陽三十三所観音巡礼」を創始したとされるのが、後白河法皇である。
後白河法皇(雅仁)は、鳥羽天皇の第4皇子として生まれ、本来なら皇位継承もままならない立場にあったが、院や後宮の複雑な対立が絡み、久寿2(1155)年に即位した。
後白河法皇が生きた平安末期は、貴族から上皇、そして武士へとその権力が移る一大転機であり、様々な勢力が入り乱れ、保元・平治・治承・寿永の乱と戦乱がうち続いた激動の時代だった。
その中で、法皇は34年にわたり「治天の君」として君臨したものの、幾度となくその身に危険が及んだ。
その都度、権謀術策を用いて復権を果たしものの、藤原頼長・源為義(保元の乱)、藤原信西・源義朝(平治の乱)、木曾義仲・源義経・源行家・平宗盛・平知盛・平重衡(治承・寿永の乱)ら多くの者たちが命を落としていった。
そんな中、後白河法皇は、歴代の上皇のなかで最多の33回もしくは34回もの熊野詣を行い、京都に新熊野神社・熊野若王子神社を創建。
また、平清盛による治承4(1180)年の南都焼き討ちにより、甚大な被害を受けた東大寺再興事業にも多大な支援を行っている。
花山法皇と後白河法皇。
それぞれに生きた時代背景は異なるが、ともに歴史という大きな歯車に翻弄された人生は同じだった。
そんな2人にとって、観音霊場を始めとする神仏にすがることは、大きな心のよりどころであったに違いない。
そして、時代を越えた人々の深い信仰心が成した「巡礼」という文化を、現代に生きる我々も、次世代にしっかりと伝えていく義務があるだろう。
※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』 メイツユニバーサルコンテンツ刊 2020.9
文/写真 高野晃彰
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