【北極圏の怪物たち】イヌイット伝承に登場する異形の存在
イヌイットは、カナダやアラスカ、グリーンランドといった極寒の地に住む先住民族であり、その独特な生活様式や文化は多くの注目を集めている。
しかし、彼らに伝わる神話や伝承については、あまり知られていないだろう。
今回は、そんなイヌイットに伝わる知られざる怪物たちをいくつか紹介したい。
1. キキルン
犬は、人間にとって最良のパートナーといっても過言ではない動物だ。
特に車輪の利用が難しい寒冷地においては、犬ぞりが貴重な移動手段であり、イヌイットの人々は伝統的に犬ぞり用の犬を飼育してきた。
しかし、すべての犬が人間に友好的であるとは限らない。
キキルン(Qiqirn)は、カナダ北東部バフィン島に伝わる悪霊的な存在である。
その姿は犬に似ているが、耳や口、足、尾の先端にしか毛が生えておらず、他の部分はむき出しの皮膚という異様な見た目をしている。
イヌイットの伝承によれば、キキルンは人や犬に癇(ひきつけ)を引き起こす原因とされ、突然の痙攣はキキルンの接近によるものと考えられていた。
しかし、キキルンは臆病な性格であり、アンガコック(イヌイットの呪術師や祈祷師)が一睨みするだけで退散するという。
その奇妙な姿から、一部ではメキシコ原産の無毛犬との関連が指摘されることもある。
2. ククウェアク
クマといえば人間にとって、もっとも身近な脅威の一つである。
犬をも上回る嗅覚、10tトラックに跳ね飛ばされてもピンピンしている耐久力、牛や鹿をチリ紙のように引き千切る膂力など、そのスペックは規格外だ。
特に北極に生息するシロクマはヒグマと並び、陸生動物トップクラスの実力者である。
エサを求めて一週間以上、飲まず食わず眠らずで海の中を泳ぎ続けることさえできるというから恐ろしい。
もはや、存在自体が妖怪じみているシロクマだが、イヌイットの人々もまた、シロクマを妖怪と信じて疑わなかったようだ。
ククウェアク(Kukuweaq)はアラスカに伝わる、10本の足を持つシロクマである。
この怪物にまつわる伝承は、要約すると以下である。
(意訳・要約)
ある集落に一人の強欲な男がいた。その男はアザラシの肉を一人占めにし、誰とも分け合わなかった。仕方ないので、同じ集落のハンター・クチラクは狩りに出かけることにした。
獲物を求め彷徨っていたクチラクだが、偶然にもククウェアクの巣を発見する。ククウェアクは恐ろしい怪物であったが、飢えにあえぐ集落を救うために、意を決して狩ることにした。
まずクチラクは銛を使って、ククウェアクの目を潰した。怒り狂ったククウェアクは追いかけて来たが、これを巧みに誘導しクレバスに突き落とし、何とか殺すことができた。
そしてクチラクはククウェアクの肉を持ち帰り、集落の人々の腹は満たされ、強欲な男も自らの行いを恥じて改心した。
ちなみにイヌイットは、シロクマを食用にすることはあれど、肝臓だけは絶対に食べないそうだ。
シロクマの肝臓には致死量のビタミンAが含まれており、食べたら死ぬことを伝統的に知っているからである。
もし、シロクマの肉を食べる機会があっても、肝臓だけは食べない方が良いだろう。
3. アズ・イ・ウ・グム・キ・ムク・ティ
北極圏を代表する生物の一つに、セイウチが挙げられるだろう。
温厚な性格だとされるが、いざという時はその巨大な牙で、シロクマをも殺傷するというから恐ろしい。
イヌイットの人々にとってもセイウチは危険な生き物であり、時には妖怪扱いされることもあった。
アズ・イ・ウ・グム・キ・ムク・ティ(Az-i-wû-gûm-ki-mukh-‘ti)は、ベーリング海峡に生息するとされた、セイウチによく似た怪物である。
アメリカの動物学者エドワード・ウィリアム・ネルソン(1855~1934)の著作「ベーリング海峡のエスキモー」にて、この怪物は言及されている。
その姿は一見セイウチのようだが、犬の頭と脚・魚の尾を持ち、頑丈な黒い鱗が体中を覆っているという。
セイウチと同じく巨大な牙を武器として用いるが、それ以上に恐ろしいのが、強靭な尻尾による一撃だとされる。
人間程度なら一振りで瞬殺するほどの威力があり、イヌイットはこの怪物を大いに恐れたという。
ネルソンはこの奇妙な生き物を「セイウチ犬」と呼称した。
木にセイウチなどの皮を張って作る、「ウミアク」というイヌイットの伝統的な小舟がある。
このウミアクをアズ・イ・ウ・グム・キ・ムク・ティが襲撃し、船員全員を皆殺しにしたという逸話もある。
アズ・イ・ウ・グム・キ・ムク・ティは普段、セイウチの群れと一緒に暮らしており、半ばボディーガードのような役割を持っているという。
ゆえに、同胞たちを狩る人間は不倶戴天の敵であり、襲撃は必然だったのである。
4. イマップ・ウマッソウルサ
イマップ・ウマッソウルサ(Imap Umassoursa)は、グリーンランドのイヌイット伝承に登場する巨大な怪物である。
その姿は、カレイやヒラメのように平らであるといわれており、一見すると海上に浮かぶ小島にしか見えないという。
そのため、島と誤認した漁師たちが上陸することもあったそうだ。
人間の気配を察知したイマップ・ウマッソウルサは、速やかに海中へと沈み始める。
怪物の背に乗っていた漁師たちは、あっという間に極寒の海へと投げ出され、凍死するまでの数秒間、祈りを捧げ続けるしかないのである。
このような「島と見せかけて実は巨大な生物だった」という伝承は、世界のあらゆる場所に残されている。
参考 : 『Encyclopædia of Monsters』『神魔精妖名辞典』他
文 / 草の実堂編集部