第75回NHK紅白歌合戦の勝敗を決した、西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」を追悼合唱した竹下景子、武田鉄矢、田中健、松崎しげる、そしてもう一人の男
2024年12月31日、「第75回NHK紅白歌合戦」を、皆さんは楽しめただろうか。白状すると、ボクは午後7時20分から11時45分まで全編見続けてまんじりともせずにいた。例年なら結構お神酒が入って、途中うつらうつらしていたものだが、家人も不思議がるほど忍耐強かった。本欄の執筆が過ぎったわけではない。ただし番組前半は、出場順になぞってみても一目瞭然、まったく聴きなれない初見参のロッカー&ラッパー、ポップスのグループばかりでチャンネルを変えてしまおうかと誘惑された。とてもあの早口の歌唱や字余りの歌詞に追いつかず、彼らの合間に挟まって紅組トップに歌唱した天童よしみは気の毒にも影が薄かったし、新浜レオン、山内惠介、水森かおり、郷ひろみら歌謡曲組には普段は見向きもしないが妙に親近感を感じたりした。
ではグループ名を連ねてみると、「ME:I」、「Omoinotake」、「Da-iCE」、「ILLIT」、「緑黄色社会」、「櫻坂46」、「JO1」、「HY」、「乃木坂46」、「純烈」、「LE SSERAFIM」、「BE:FIRST」、「TOMORROW X TOGETHER」…後半に入ってからも、「Creepy Nuts」、「GLAY」、「TWICE」、「Number_i」…「何じゃこりゃ?」と言いながらぼーっと見続けたが辛うじて馴染みのあるグループは「純烈」のみ。多少目を見張ったのはベテラングループの「GLAY」や「B’z」のパフォーマンスで、「Mrs. GREEN APPLE」は全く年寄りには縁遠く、「THE ALFEE」の登場に至ってホッとしたという始末なのだった。失礼ながらあの徒党を組んでステージ狭しと激しいダンスのグループが果たして歌唱しているのか、いわゆる口パクなのか、肩で息をしながら声がでているのか疑いたくなる。いわんや、色気を売り物にしているのか知らないが妖しい目つきで腰を振って手招きする女子グループのダンスは止めてもらいたい。流行りだからしょうがないのか。
それでも、坂本冬美、星野源、三山ひろしとつないでくれて、我らが団塊世代の代表選手の南こうせつ、イルカの登場で「やっと俺たちの時間だ」となった途端に流れてきた「神田川」、「なごり雪」で涙腺が緩み始める。もうすっかり昭和の貧しかった青春のノスタルジアに浸っている。すると、ステージは『特別企画 追悼・西田敏行さん』に展開。
登場した竹下景子、武田鉄矢、田中健、松崎しげる、といった高齢ベテラン陣の西田敏行ゆかりの面々がズラリと並んで交流の思い出を語り、彼の代表曲「もしもピアノが弾けたなら」を合唱してくれる。ピアノによる聞き覚えのある前奏に入ると、もういけません。こうせつ、イルカに心の琴線を揺さぶられていた涙腺が一気に崩壊した。観ればステージの西田の親友、松崎しげるも歌えなくなるほど嗚咽している。2024年10月17日に亡くなった西田敏行のもちろん代表曲だが、松崎にとって鎮魂の歌になろうとは思いもしなかっただろう。1981年4月4日~8月29日まで日本テレビ系列で放映された西田敏行主演のドラマ『池中玄太80キロ』第2シリーズの挿入歌として作詞:阿久悠、作・編曲:坂田晃一によるものだ。西田自身1981年の「第32回NHK紅白歌合戦」にこの曲で初出場している。
すると、4人が歌い終えた後、カメラとともに司会者から審査員席にいた内村光良に感想を求めたが、内村は顔をテーブルにうつ伏せて言葉にならずほとんど号泣しているではないか。「すみません」というだけで、言葉にならない。内村が顔を上げるまで一瞬NHKホール全体が静まり返ったような気がする。これには観ているもの誰もが涙を誘われたのではないだろうか。
ボクのような昔ながらの〝紅白ファン〟は勝負の行方がそろそろ気になる後半戦だが、「これで白組の勝ち!」と一人合点していた。もちろん、4人の追悼合唱は紅白いずれにも組しないことは承知だが、これまでの西田自身の〝紅白貢献度〟は並じゃない。先述のように1981年第32回「もしもピアノが弾けたなら」で初出場すれば、翌年第33回「ああ上野駅」、1990年第41回には再び「もしもピアノが弾けたなら」、2011年第62回「あの街に生まれて」、都合4回の白組出場。その間、1977年第28回・白組応援ゲスト、1978年第29回・白組応援リーダー、1989年の第40回には審査員、1990年第41回は堂々たる白組司会を受け持ち、2009年の第60回・審査員、2012年第63回は特別出演でNHKの東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」の合唱に加わっているのだ。
「もしもピアノが弾けたなら」という楽曲がよくぞ生まれ、西田敏行という人懐っこいエンターティナーに歌唱されたのが、奇跡のように思えてならない。西田の人柄、滲み出る〝徳〟そのものを現していて、どんなに上手い歌手に委ねられても空虚に聴こえてしまうような気がしてならない。ちょっとおっちょこちょいだが人が良く、不器用な生き方しかできない。そう、池中玄太のようだし、釣りバカ日誌のハマちゃんこと浜崎伝助そのものなのだ。だいたいピアノが弾けないのに、君への思いを伝えることなどできるはずがない、ピアノもなければ、ピアノを弾ける腕もないのに、人を愛した喜びを伝えたいなどと周りの連中は笑って相手にしないだろうに。しかし全ての人に優しく接する人間的な包容力、丸い太鼓腹の巨体は鷹揚に笑ってこたえるだろう。「人間やりたいことはたくさんあっても出来ないこともあるんだからさぁ、一つでも得意なことを見つければいいんじゃないの」と。ハマちゃんが三国連太郎のスーさんを諭すような口ぶりが聞こえてくる。
チャンバラ映画に熱中した少年は、いつか演劇で身を立てようと志したという。1968年(昭和43)青年座俳優養成所入所、2年後劇団青年座座員となり1971年10月公演『写楽考』(矢代静一作)でいきなり主役に抜擢される。だが、その後しばらく不遇の時期があった。ボクが西田敏行の名を初めて耳にしたのは、その頃だった。芸能、文化、政治、経済と分野を問わず若い雑誌編集者や記者たちの集まりがあった。そこにゲストとして招かれたのは、西田本人ではなくマネージャーのMだった。北海道出身の独特の大らかさを感じさせ、西田の一つ下で、ボクより一つ上の明るく屈託のない人だった。口を開けば、「西田をよろしく、西田をよろしく」と誰彼構わず声をかけていた。一所懸命だった。芸能界に触れることなどなかった新米編集者のボクは、こうして役者を売り込むことも仕事なのか、と初めて知ることだった。
彼もまた演劇青年だった。北海道旭川の文学座で「欲望という名の電車」の公演を高校生の時に見て感激し、演劇を学ぶために上京したという。二十歳の時にNHKの「青年の主張」という意見発表の番組に出て優勝したというから、役者の片鱗はすでに持ち合わせていたのだろう。26歳の時青年座に入り、マネージャーとなっている。西田敏行を世に出すためには、縁のなかった民放テレビ局にたった一人で飛び込み営業を辞さず日参したという。後年、芸能人事務所・青年座映画放送株式会社の取締役にもなって日本芸能マネージメント事業者協会の重鎮となった。今、彼は西田敏行の死をどんな思いでいるのか。劇団を通じての連絡は途絶えたままだが、Mマネージャーを紹介したかったのは、その言動と周囲を明るくする人柄が西田敏行そのものと思えるからである。すでに青年座を卒業し、サラリーマン人生は終わっていることだろう。
ほぼ同輩の西田敏行の60年以上にわたる芸能生活の活躍は、旭日小授賞に集約されている。映画、テレビ、ラジオ等々あらゆるメディアを通して、彼は笑顔を振りまいて人々を幸せにしてきたのだ。
2024年もまた歌謡芸能の世界で活躍され逝去した著名人が多くいた。思いつくままに、中村メイコ、八代亜紀、山本陽子、久我美子、園まり、火野正平、中山美穂…そして西田敏行と枚挙にいとまがない。人徳ということばがあるが、〝徳〟とは何も人知れず財を振る舞うことだけではない。西田敏行というあの愛嬌のある誰からも愛される人間の存在そのものが、丸ごと〝徳〟だったのではあるまいか、今は亡き西田の〝遺徳〟を後世につづく者たちは肚の中心に据えるべきである。合掌
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫