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『戦国武将のストレス解消法』現代にも受け継がれるリラックス術とは?

草の実堂

画像:戦国武将のイメージ ac-illust 歩夢

400年以上も前の戦国時代に活躍した武将たちの生き様や言動は、今でも語り継がれ、現代人のビジネスやライフスタイルに大きな影響を及ぼしています。

戦国武将というと、領地をめぐる戦いに明け暮れ勇猛果敢に活躍している「強い」イメージを抱きますが、どんなに偉い武将でも人間です。

武将ごとに性格や考え方は異なるものですが、上に立てば立つほど重責は増し「ストレス」を抱えていた様子。
そこで、皆いろいろな方法でストレスを解消したり、心を落ち着かせたりしていたようです。

数百年前の武将のメンタルケア方法は、意外にも親しみやすく、現代人にも通じるものがありました。

静かに茶の湯に集中して「整える」

画像:釜湯が沸き始めた茶釜。茶室にて。(撮影:桃配伝子)

戦国武将の多くが夢中になったのが「茶の湯」です。

血で血を洗う戦いと、静かに嗜む茶の湯という対極なものに惹かれたのは、現代人にも通じる納得のワケがあります。

名品と呼ばれる茶道具は、「所有すること」そのものが権力の象徴でステータスでした。
織田信長は、名品の茶道具を手柄を立てた部下に与えることでモチベーションを上げ、信頼関係を築いていったのです。

また豊臣秀吉は、茶人・千利休を重んじ相談相手として頼りにしていました。茶の湯を通じて築かれた利休の人脈「茶の湯ネットワーク」は、秀吉にとって心強いものだったそうです。(その後、二人の関係は壊れてしまいますが…)

さらに、千利休の弟子、古田織部(古田重然)は、形がゆがんだユニークな茶碗を使ったことから創意工夫の茶人として歴史に名を残し、同じく利休の弟子で豊前小倉藩の初代藩主・細川三斎も、利休の茶を忠実に受け継ぎ、後世に伝えた人物として知られています。

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成も、茶の湯を愛した武将として有名です。

三成が10代の頃、修業をしていた寺に鷹狩りの途中で秀吉が立ち寄りました。その際、三成が心を込めて茶をふるまったことに感銘を受けた秀吉は、彼を小姓として取り立てた逸話は広く知られています。

画像:千利休像(長谷川等伯筆)public domain

「茶の湯」のストレス解消ポイント〜

茶の湯は戦国大名にとって、部下の士気をあげる・人脈を築く・出世の道を切り開く……以外にも、雑念や悩みを消して頭をリセットできるというメリットがありました。

それは、現代でビジネスパーソンの間で注目されている「マインドフルネス(ただ目の前のことに集中して瞑想する状態を作る)」に共通しています。

マインドフルネスは、もともとGoogleが広めたとされ、LINEやYahooなどの企業でも広く取り入れられているそうです。

伝統的な茶道と現代のマインドフルネスが、「目の前のことに集中することで脳や気分をリセットする」という点で共通しているのは、興味深いことです。

画像:マインドフルネス・瞑想中の男性 photo-ac FineGraphics

和歌や恋歌で心の感情や思いを「吐き出す」

画像:書の道具wiki c Sparkit

武将の中には、和歌連歌を詠むことを好んでいた人も少なくありません。

「当代随一の教養人」といわれ、戦国武将でありながら茶の湯や連歌の才能に加え、和歌・囲碁・料理・猿楽などにも深い造詣を持ち、剣武芸にも秀でていたのが細川幽斎です。

死んでもおかしくはなかった戦「田辺城の戦い」において「このままでは幽斎が死んでしまう!」と時の天皇・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が憂慮し、勅命という非常に強い形で両軍に講和を命じたというエピソードは有名です。

また粋な男としても知られる伊達政宗、「軍神」と謳われた上杉謙信、そのライバルの武田信玄も、戦乱の中でのひとときの安らぎや心の平穏を象徴する存在として「月」を詠んだ風流な作品を残しています。

和歌は武士が身につけるべき素養のひとつで、多くの武将が歌を残していますが、子供の頃から和歌に親しんでいた信玄は、長じてからも和歌に熱中、京都から公家を招き歌会を催すほどでした。

画像 : 武田信玄 public domain

「和歌」のストレス解消ポイント〜

戦いへのプレッシャーや恐怖、リーダーシップの持ち方など、武将にはさまざまな悩みやストレスがあったはずです。

しかし、それをそのまま言葉にすることはリーダーとして憚られます。そこで、歌にして心情を託すというクリエイティブな作業で心の平穏を保ち、不安やストレスを浄化していたのではないかという説があります。

また、仲間内での連歌(複数でリレー形式で和歌を詠むこと)は、心を落ち着かせたり結束力を高めたりする効果もあったそうです。

心の内を文章にすることで、ストレスを昇華・自己表現をしたりするのは、現代のSNSやブログなどにも共通しているといわれています。

酒や宴会でストレスを「やわらげる」

画像:「酒」unsplash Duong Thinh

戦国大名も家臣たちと正月を祝う宴会を催したり、戦が終わったあとにを飲み、労をねぎらったりしたりしていました。

酒好きとして真っ先に名が挙がるのは、上杉謙信でしょう。
盃の下に長い持ち手のようなものがある「馬上杯(ばじょうはい)」を用いて、馬の上でも酒を飲んでいたことは有名です。

また、伊達政宗も酒好きな戦国大名として有名で、酒のほかにも宣教師の使者から贈られた葡萄酒も飲んでいたとか。
「朝食時に酒は小盃に3杯、場合によっては5杯」「晩は思うまま飲んで良し。ただし大酒は禁止」などと自分でルールを作っていたようですが、記録をみると1日中酒を飲んでいたようです。

諸説ありますが、織田信長・豊臣秀吉・毛利元就などは酒宴を催してはいたものの、本人は酒はあまり飲まなかった、節酒していた、という話も伝わっています。

画像 : 「芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎(月岡芳年作)」

有名な「賤ヶ岳の七本槍」(戦いで功名をあげた7人の若武者)の一番槍の座を占める猛将で、秀吉の家臣・従兄弟でもあった福島正則も酒好きでした。

ある日、伏見城の屋敷で酒宴を開いている時、黒田長政の代理として母里友信(もりとものぶ)がやってきました。
正則は酒をしつこく勧め「黒田の者はこれしきも飲めぬのか」と挑発。友信に「あの家宝の槍をいただけるなら」といわれ、酔った勢いで約束してしまいます。

そして、酒の強い友信は継がれた酒をあっという間に飲み干し、槍を持って帰ってしまいました。

しかし、それは秀吉から貰い受けた大切な「日本号」という大切な槍でした。翌朝酔いが覚めてシラフになった正則は、慌てて返しくれと頼むものも断られてしまった……という残念なエピソードがあります。

この話は後に「酒は呑め呑め、呑むならば、日本一(ひのもといち)のこの槍を…」という一節で知られる「黒田節」という民謡のモデルとなりました。

画像:福島正則肖像画 / 東京国立博物館蔵 public domain

「酒や宴会」のストレス解消ポイント〜

酒を飲んでストレスを発散したり、恐怖を紛らわしたり仲間意識を高めたりするのは、現代とあまりかわりません。

緊張・ストレス・恐怖・極度の集中などで疲弊したあとの酒は、リラックス効果をもたらしてくれるもの。

貝原益軒の『養生訓』には「酒は天の美禄(びろく)」という言葉があります。適度に飲めば気分は明るく陽気になり血行もアップ、心配事を取り去ってくれるという意味です。

「ほどほどに楽しむ」ことが大切なのは、戦国時代も現代も同じなのでしょう。

画像:シャンパン unsplash Tristan Gassert

最後に……

戦国武将のストレス解消法というと、「何か特別なものではないか?」と想像してしまいます。

しかし、実際には現代に生きる私たちと同じような方法で気持ちを整えたり、発散していたと考えると、遠い存在に思える戦国武将たちにも親しみを感じられます。

参考:『武将に学ぶ苦境からの脱出』松本幸夫 (著)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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