横浜大空襲から80年 史料で読み解く区内の被害
今からちょうど80年前の1945年5月29日、午前9時23分。米軍のB29爆撃機が東神奈川駅などを目標に無数の大型焼夷弾を投下した-。神奈川区をはじめ、旧市域の市街地で多くの命が奪われた横浜大空襲。その被害を、区誌などの史料から読み解く。
東神奈川が標的
米軍は横浜大空襲で、東神奈川駅周辺をはじめ5カ所を目標地点に設定。集中的に攻撃した。
区制施行50周年時に発行された『神奈川区誌』によれば、500機を超える数のB29戦闘機などが横浜に襲来。午前9時23分からおよそ1時間近くにわたり、44万個に近い数の焼夷弾が市内に落とされた。
空襲直後の発表では、市内の被害は罹災者31万1218人、全焼7万8949戸、死者3649人、重傷1655人、軽傷8542人、行方不明309人。同じ報告のなかで、神奈川区内での被害は焼夷弾約5万個、死者598人、重傷328人、軽傷5850人、罹災者6万4059人、全焼1万6425戸となっている。調査が進むにつれ被害は増えていき、最終的な空襲全体の死者数は現在、8千人以上ともいわれている。
学校も多くが全焼
横浜大空襲では当時の小学校にあたる国民学校も多くの被害を受けた。神奈川区誌によると、三ツ沢、青木、神奈川、二谷、西大口、斎藤分の各国民学校校舎が全焼した。中には戦後、一時的に近隣校と統合する学校もあった。
失われた駅
現在の神奈川区役所近くに存在した、東急東横線の新太田町駅。反町〜東白楽間にあった同駅も、空襲の影響で6月1日から営業を停止。終戦翌年の1946年5月31日で廃止となった。
三ツ沢墓地に慰霊碑
被害の記録や鎮魂を目的に、市内各所に戦災者を弔う追悼施設が戦後建てられた。横浜市による戦没者追悼式が毎年行われる、三ツ沢公園内にある慰霊塔は西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、1953年3月に建設されたもの。
この慰霊塔とは別に、三ツ沢墓地の中にも戦災者の追悼施設が存在する。管理事務所そばにある横浜戦災者慰霊碑と合掌の碑、戦災遭難者諸霊供養塔だ。慰霊碑は横浜市、合掌の碑は横浜戦災遺族会がそれぞれ建立したもの。供養塔の建立者は不明だが、3つの中で一番早い1947年に建てられている。