エレキテルとみられる器具 内部に赤穂藩士の名
幕末に赤穂藩士が製造したエレキテルとみられる器具が、たつの市内で代々医師だった旧家で見つかった。医療用として使われたものとみられる。
エレキテルは、摩擦を利用した静電気の発生装置。日本には1751年ごろ、オランダ人が幕府に献上したとの文献がある。1776年に平賀源内が復元したことが知られ、源内が製造したとされるエレキテルは国重要文化財に指定されている。
器具があったのは、江戸時代中期頃より旧揖東郡一橋家領取りまとめ庄屋で豪農として栄え、現在は家屋敷が国指定重要文化財となっている堀家(同市龍野町日飼)の分家。昨年蔵の改修に向けて中を整理していたところ発見された。コイルを収めた木箱(高さ約20センチ、幅約20センチ、奥行約16センチ)の上に歯車のような形状の円盤があり、取っ手を持って回転させる構造。箱の蓋の四隅にある金属製の端子に真ちゅう製のグリップがついたコードがつながっている。
蓋の裏面には「安政戊午陽□」「赤穂□」「荻大見製造」と墨書きがあり、安政5年(1858)に赤穂に関連のある「荻大見」なる人物が製造したとみられる。器具を発見した郷土史研究家の前嶋第誓氏=姫路市網干区=によると、構造からエレキテルである可能性が高いという。
赤穂市が発行した『赤穂藩森家分限帳集』などによると、安政年間に赤穂藩に在籍した森家の家臣に「荻大見」の名がある。また、それより前の時代の名簿には同じ苗字で「荻文節」という藩士が宝永6年(1777)から文化7年(1810)にかけて「御匙」(御殿医)を務めている。
堀家は赤穂の塩田事業に出資し、坂越の奥藤家と姻戚関係があるなど、赤穂とも交流があった。同家12代当主の堀紀弘さんによると、分家は本家の門前にあったことから「前新宅」と呼ばれ、江戸時代中頃から明治時代末期まで診療所を開業していた。蔵からはエレキテルとともに鉗子や探針のような用具と医学書も見つかった。
前嶋氏の調査では、前新宅は本家とは別に一橋家から苗字帯刀を許されていた。周辺諸藩の儒臣や医官との交友がうかがえ、長崎貿易を通じて海外と文通していた飫肥藩の儒臣との交流を示す資料も見つかったという。
「当時最新の蘭学の知識に接することもあり、一橋家の優遇により赤穂藩の医官が製作したエレキテルを譲って貰えるような関係が築けたのではないか」と前嶋氏。「エレキテルの墨書きをオリジナルとするならば、赤穂藩の医官であった荻大見にはエレキテルを製作する知識は得ていたとしても実際に製造するにはそれぞれの職人を指導して完成させたと思われるので、そのような技量を持ち得た職人が赤穂地域に存在したことにも驚かされる」と考察した。