【夫に32年間幽閉される】呪いの手紙を残した悲劇の王妃ゾフィー・ドロテア
17世紀後半、神聖ローマ帝国の一角に、美貌と聡明さで知られる一人の王妃がいました。
彼女の名はゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ。※以下ゾフィー
後にイギリス王となるジョージ1世の最初の妻として知られますが、愛と裏切り、陰謀の渦に巻き込まれ、なんと32年間も幽閉され、その生涯を終えたのです。
ゾフィーは1666年、神聖ローマ帝国領内のツェレで生まれました。
名門ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の家系に属し、美しく聡明な少女として育ちます。
父はリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルム、母はフランス出身のエレオノール・ドルブリューズ。
当初は身分差による貴賤結婚とされていましたが、後に皇帝の許可によって正式な婚姻と認められ、ゾフィーも嫡出の子とされました。
両親の深い愛情に包まれて育ったゾフィーでしたが、やがてその美貌と家柄は政略の駒とされていきます。
望んだ幸せとは遠い現実が、彼女を逃れがたい悲劇へと追い込んでいきました。
今回は「悲劇の王妃」と呼ばれたゾフィー・ドロテアの波乱に満ちた生涯を辿っていきます。
将来国王となる夫は”かかし”に夢中
絶世の美女とうたわれたゾフィーは、1682年、16歳のときに従兄のゲオルク・ルートヴィヒと結婚しました。
彼は後にイギリス王・ジョージ1世として即位することになる人物です。
この結婚は純粋な愛情によるものではなく、家同士の政略によって決められたものでした。
ゾフィー自身も当初から気が進まない結婚でしたが、彼女の不安は現実となっていきます。
夫のゲオルクは次第にゾフィーを顧みなくなり、狩猟や軍務に明け暮れる生活を送りながら、次々と愛人を作ったのです。
1683年には息子ゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)、1687年には娘ゾフィー・ドロテアが誕生しましたが、子どもが生まれても夫婦の溝は埋まることはありませんでした。
やがてゲオルクは、愛人のエーレンガルトを特に寵愛するようになります。
エーレンガルトは長身で非常に痩せた体つきをしており、宮廷では陰で「かかし」と揶揄されることもありました。
決して美貌の持ち主とは言えない彼女が夫の寵愛を独占している現実は、ゾフィーにとって大きな屈辱でした。
愛のない結婚生活の中で、夫は次々と妾を迎え入れ、自分よりも劣ると感じる愛妾を厚遇する日々が、ゾフィーの心を次第に荒ませていきます。
そんな孤独の中で彼女は、宮廷に仕えていたスウェーデン貴族出身の美男、ケーニヒスマルク伯爵と恋仲になってしまったのでした。
恐るべき姑の愛人
孤独に悩むゾフィーにとって、ケーニヒスマルク伯との関係は、たとえ道ならぬものであっても、一時の心の安らぎをもたらしました。
けれども、宮廷の中にはふたりの関係を快く思わぬ者もいました。
そのひとりが、クラーラ・フォン・プラーテンです。
彼女はケーニヒスマルク伯より17歳年上で、夫・ゲオルクの父の愛妾として権勢を振るっていました。
さらにクラーラの妹・カタリーナは、ゾフィーが正妻となる以前、夫のゲオルクと親密な関係にあったとも伝えられています。
貴族社会の狭い宮廷で、家族ぐるみの複雑な因縁が生まれていたのです。
美男として評判高いケーニヒスマルク伯に目を留めたクラーラは、ふたりの親密な仲にすぐ気づきました。
やがてクラーラは、彼らを引き離す機会をじっと窺うようになります。
そしてある夜、宮廷で開かれた華やかな仮装舞踏会で、ゾフィーはクラーラの策略にまんまと嵌まってしまったのです。
渦巻く陰謀と幽閉
仮装舞踏会を楽しんでいたゾフィーは、晩餐の席に自分のイニシャル入りの手袋を置き忘れてしまいました。
これを見つけたクラーラは、さっと手袋を拾い上げ、懐にしまいます。
その後、クラーラはケーニヒスマルク伯を庭への散歩に誘い出し、ふたりきりになったところで巧みに彼を誘惑したのです。
ちょうどその時、クラーラの夫と、夫のゲオルクがそこを通りかかります。
クラーラは慌てて立ち去りましたが、わざとゾフィーの手袋をその場に落としていきました。
その光景を目にしたゲオルクにとって、ケーニヒスマルク伯が女性に手を引かれて立ち去る後ろ姿と、足元に落ちたゾフィーの手袋は、妻の不貞を疑う決定的な証拠に映りました。
後日、ケーニヒスマルク伯は宮廷に呼び出され、ゾフィーとの関係を断ち切るよう迫られます。
しかしそのわずか数日後、ケーニヒスマルク伯は謎の失踪を遂げました。
一説によれば、殺害された後に遺体は川に投げ捨てられたとされています。
また、主を失ったケーニヒスマルク伯の館は家宅捜索を受け、そこで発見されたのはゾフィーとの間に交わされた多数の恋文と駆け落ちの計画でした。
一方のゾフィーは、彼の最期を知らされぬまま監禁され、その後32年間に渡って、ツェレのアールデン城に幽閉されることとなります。
実母以外の面会は許されず、城外への外出はもちろん、子ども達の顔を見ることすら生涯禁止されたのです。
呪いの手紙を遺して
1726年、長い幽閉生活の末、ゾフィーはアールデン城でそのまま息を引き取りました。
彼女が幽閉されてから32年の歳月が流れていました。
その死からほどなくして、ゾフィーが遺した最期の手紙が、夫のゲオルクに届けられたといわれています。
手紙には、かつて自分を冷酷に扱った夫への怨みの言葉が綴られ、「最後の審判のときにあなたと同席するのが楽しみです。あなたは私よりも長くは生きられないでしょう」と記されていました。
その文面を読んだゲオルクは、激しい発作に襲われて倒れたとも伝わります。以後、体調は回復せず、翌年の行幸の途上で命を落としました。
まるで手紙の予告を裏付けるかのような最期でした。
しかし、世間の同情が向けられたのはゲオルクではなく、幽閉され続けたゾフィーの方でした。
ハノーヴァーの旧領民たちも、イギリスの臣民たちも、冷淡なゲオルクには心を寄せることはありませんでした。
夫によって生きながら墓に葬られたも同然の人生を強いられたゾフィーに、人々は深い哀れみを抱いたのです。
ゾフィー・ドロテアの60年にわたる生涯は、愛と裏切り、陰謀、愛する者の喪失、そして長き幽閉という過酷な試練の連続でした。
それは同時に、当時の貴族社会における冷徹さと権力闘争が生み出した、ひとつの悲劇の象徴でもあったのです。
参考文献:『やんごとなき姫君たちの不倫』/桐生 操(著)
文 / 草の実堂編集部