細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ⑤ イエロー・マジック・オーケストラの人気爆発
細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ⑥
社会現象になるほどだったYMO人気
1980年代に巻き起こったテクノポップやニューウェーヴのムーヴメント。その中心にいたのがイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)だ。一般にはあまりなじみのなかったシンセサイザーとコンピュータを使用したサウンドはもちろん、ファッションや髪型も注目を集めるほど。その人気はティーンエイジャーだけでなく小学生で広がり、社会現象になるほどだった。また、歌謡曲界でもテクノポップの影響を取り入れた楽曲が多数リリースされて、それらはのちにテクノ歌謡と呼ばれた。
なお、テクノポップとテクノはそれぞれ別ジャンルなのだが、名前が似ているため混在されやすい。YMOがクリエイトしていたのはテクノポップで、デトロイトを発祥とするEDM(Electronic Dance Music)をテクノと呼び、音楽性は大きく異なっている。当時YMOに続く “テクノ御三家” といわれた、P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスもテクノではなくテクノポップだ。
1987年2月YMO結成
1977年の『トロピカル・ダンディ』と『泰安洋行』が、当時の環境の中では違和感を持って捉えられたこともあり、細野晴臣は新たなバンドを画策していた。当初は、自身の「イエロー・マジック・カーニバル」を、林立夫(ds)とシンガーのマナと共にセルフカバーするというユニットを思い描いていた。ところがある日、林から断りの電話が入る。他にも、林と佐藤博(key)とバンドを組み、「ファイアークラッカー」を演奏する構想があったが、同時に頓挫してしまった。
同年11月には、移籍したアルファレコードのレセプションが開催されることになったが、細野はそこで発表予定だった「イエロー・マジック・カーニバル」の録音の予定が無くなり途方にくれていた。そんな中、ふと「イエロー・マジック・オーケストラ」という名前が思い浮かぶ。そこで、『はらいそ』に参加していた坂本龍一と高橋幸宏を自宅に呼び、バンドの構想を打ち明け、1978年2月にイエロー・マジック・オーケストラが結成された。
このときに細野が示したコンセプトは、“マーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る” というものだった。さらには『コチンの月』を一緒に制作した横尾忠則にも声を掛けて、メンバーの4人が揃った。
幻のメンバーとなった横尾忠則
1978年6月21日にリリースされたオムニバスアルバム『PACIFIC』では、坂本、高橋とともに参加。「コズミック・サーフィン」のプロトタイプバージョンも収録された。同年7月にはファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』のレコーディングに入る。ジョルジオ・モルダー、クラフトワークなどの影響から、シンセサイザーとコンピュータを中心にサウンドを構築することとなった。演奏には、『コチンの月』に参加していた松武秀樹がプログラマーとして迎え入れられて、シンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けた。
当初は、細野、坂本、高橋、横尾で活動予定だったが、バンドの結成記者会見では、横尾が仕事の締め切りのために現れなかった。そのため、細野、坂本、高橋の3人がメンバーとなり、横尾は幻のメンバーとなった。そして、1978年11月25日に『イエロー・マジック・オーケストラ』をリリース。細野は「シムーン」「コズミック・サーフィン」などを提供した。「シムーン」は、アルバム制作以前に、コルグのシンセサイザーとエーストーンのリズムボックスで、次のソロアルバム用に作曲していた楽曲だった。
1979年5月30日には、ジャケットが差し替えられて、アメリカで『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』がA&Mレコード傘下のホライゾン・レコードからリリース。同年7月25日には逆輸入される形で日本でもリリースされた。8月には、チューブスのオープニングアクトとして、ロサンゼルス・グリーク・シアターでのライヴを行う。そして、同年10月には初のワールドツアー『トランス・アトランティック・ツアー』を開催。ヨーロッパとアメリカを約3週間で回った。
オリコン1位を記録した「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」
1979年9月25日にはオリコンLPチャートで1位を記録したセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』をリリース。当初は、それぞれが3曲ずつ楽曲を用いることになっていたが、細野は坂本と高橋の楽曲の間をうめるように、バランスをとった曲作りを行った。最終的に、細野は「アブソリュート・エゴ・ダンス」「インソムニア」を提供した。細野がプロデューサーも兼任することにより、坂本は「テクノポリス」「ビハインド・ザ・マスク」、高橋は「ライディーン」と、彼らを代表する楽曲を生み出した。
1980年2月21日にはライブアルバム『パブリック・プレッシャー / 公的抑圧』をリリース。この時期から彼らを起用したテレビコマーシャルがオンエア。こちらもオリコンLPチャートで1位を記録した。アルファからは『パブリック・プレッシャー2』のリリースを提案されるも拒否。替わって、スネークマンショーとのコラボレーション企画の『増殖』が同年6月5日にリリースされた。
すぐさま、同作も『オリコン』アルバムチャートで第1位を獲得。『増殖』が1位から落ちると、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が1位となり、イエロー・マジック・オーケストラのブームは社会現象へと発展していった。そんな中、アメリカとヨーロッパを廻る2度目のワールドツアーが始まり、メンバーは次第に疲弊していったのだった。
参考文献:
細野晴臣『地平線の階段』(八曜社 / 1979年)
前田祥丈:編『音楽王細野晴臣物語』(シンコーミュージック / 1984年)
細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』(徳間書店 / 1984年)
『コンパクトYMO』(徳間書店 / 1998年)
北中正和 編『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』(平凡社/ 2005年)
細野晴臣『アニエント・ドライヴァー』(マーブルトロン / 2011年)
門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』(文藝春秋 / 2020年)
吉村栄一 『YMO1978-2043』(KADOKAWA / 2021年)
『イエロー・マジック・オーケストラ 音楽の未来を奏でる革命』(ミュージック・マガジン / 2023年)
田中雄二『シン・YMO イエロー・マジック・オーケストラ・クロニクル1978~1993』(DU BOOKS / 2023年)