バスと電車と足で行くひろしま山日記 第89回天上山と龍頭峡の滝群(安芸太田町)
学生時代、バイクにはまっていたことがある。休日のたびに西中国山地の山間地をツーリングと称して走り回っていたものだ。記憶に残っている光景がある。太田川沿いの国道191号から、当時まだ現役だった国鉄可部線の田之尻駅横を抜けて旧筒賀村へ向かった。県道303号の山道を上っていくと、突然視界が開けた。美しい棚田と家々が広がり、まさに「天上の里」。当時は知らなかったが、有名な井仁(いに)の棚田だった。井仁集落をぐるりと囲む山々の盟主が天上山(972.2メートル)だ。井仁の棚田から天上山を見た後、龍頭峡の滝群と巨樹の森を経て山頂を目指すルートをたどった。
▼今回利用した交通機関
*龍頭峡内の駐車場まで往復ともカーシェアを利用
美しい棚田の風景
午前6時半に広島市を出発、国道183号を北上する。アストラムラインと並行する県道38号から安佐動物公園に向かう県道268号へ。峠を越え、太田川を渡って県道267号、国道191号を乗り継いで上流を目指す。安芸太田町に入り、筒賀橋を渡って県道303号を上る。ここからは井仁の棚田まで一本道だ。天気は快晴、気温は20度前後。絶好の登山日和だ。
出発から約1時間、井仁の棚田を見渡せる展望台に着いた。標高は約450メートル、古い記憶の通りの天上の里だ。棚田はちょうど田植えを終えたばかり。地形に添って緩やかなカーブを描く田んぼには水が張られ、青空を映して美しい。1999年に農水省から「日本の棚田百選」に選ばれたほか、2015年には米国のニュース専門チャンネルCNNの「日本の美しい風景31選」にも選ばれた美景だ。
過疎化や高齢化が進む中で、棚田を守っていくのは簡単ではない。地域おこし協力隊をベースに設立された棚田保全活動団体「いにぴちゅ会」が、田植えや稲刈りなどのイベントを企画し、都市住民と地域住民の協力で棚田を維持する活動を続けている。
展望台からは手前の山に遮られて天上山は見えない。車を降りて里道をしばらく上ると左手に天上山が姿を現した。あの頂に登ると思うと心が弾む。
江戸時代の絵師が描いた秀麗な滝
実はここから天上山林道を通って頂上直下の標高約770メートルの登山口まで行って上るルートもあるのだが、登山としては物足りない。いったん中国自動車道の戸河内インタチェンジ方面に下り、龍頭峡登山口に向かった。
龍頭峡は天上山山系から流れ出る三谷川が刻んだ渓谷だ。古くから見事な滝があることで知られており、18世紀、江戸時代の広島藩の絵師・岡岷山(おかみんざん)が北広島町・龍頭山(https://hread.home-tv.co.jp/post-116018/)にある駒ヶ滝を訪ねた旅の途中で立ち寄っている。この紀行とスケッチは「都志見往来日記・同諸勝図」として広島藩主の浅野家に伝来し、広島市立中央図書館に所蔵されている。
峡谷内には駐車場が3ヶ所あるが、最深部は駐車スペースが少なそうなので中間の駐車場に車を置いてスタートした。
登山道に入る前に、岡岷山も愛でた滝を見物していくことにした。登山口の手前を右に折れ、川沿いの遊歩道を歩く。ほどなく緩やかな岩盤を水が流れる「ナメラ滝」に行き当たる。落差は5メートルほどだが優美な滝だ。さらに10分ほど奥に進むと眼前に二段滝が現れた。落差は上段18メートル、下段20メートルもあり、水量も多くなかなかの迫力だ。思わず「おおっ」と声が出た。
「都志見往来日記」には「下龍頭」と表記されており、「その高き事銀河より落ちるが如し」「上段の滝は少し入込たれとも、高き故下から見越して気色甚だよし」と形容している。「銀河より」は大袈裟だが、名瀑といえるだろう。
さらに進むと「奥の滝」。こちらは落差22メートルで二段滝の半分ほどだが、なかなか見事だ。岡岷山は「上龍頭」と呼び、「是は一筋の滝にして巌壁の形奇絶にして面白き景色なり」と記録している。狭い谷にはマイナスイオンが立ち込めているのか気持ちがいい。
スリリングな登山道
遊歩道を入口まで戻り、登山開始だ。登山口の標高は約430メートル。山頂との標高差は540メートルほどあり、なかなか上りごたえがありそうだ。
川を渡り、山肌に取り付く。峡谷の急斜面を上るため、金属パイプで組まれたはしごや斜面を横切る橋があちこちに据えられている。
谷底からは水音が聞こえてくる。地形図で見ると、先ほど訪れた二段滝の上部に当たる。右側は切れ落ちた岸壁や急斜面になっている。慎重に歩けば危険ではないが、なかなかスリリングだ。砂防堰堤が築かれた川沿いのアップダウンのある道はそれなりにハードだが、変化に富んでいて飽きない。
秘境の森へ踏み込む
登山開始から約2時間、森が深くなってきた。樹々の精気を感じるというか、これまで歩いてきた樹林とは明らかに空気が異なる。標高約620メートル、「引き明けの森」のエリアに踏み込んだのだ。樹齢100年から400年のツガ、モミ、スギ、ヒノキ、トチノキの巨木が混生する原生林だ。1989年、当時JTBが発行していた雑誌「旅」が選んだ「日本の秘境100選」にも選ばれている。林道が整備された今でこそ森の上部まで車で行くことができるが、険しい山道を2時間かけて上らないとたどりつけないロケーションは「秘境」と呼ぶにふさわしい。
スギとヒノキの大木が並んで立っているところは、樹皮の違いがわかりやすく比較できて興味深い。最も魅力的なのはトチノキの巨木だ。トチノキ科の落葉高木で、幹の直径は1メートル、高さは30メートルにもなる。実は山村の重要な食糧にもなっていた。登山道沿いにいくつも巨木があり、標高670メートル付近にある木は、周囲が数メートルもあろうかという幹の太さもさることながら、下から見上げると上空を覆うほど葉が茂って神秘的な雰囲気をたたえていた。
森林内の道は途中、「ゆるやか」(490メートル)と「急峻」(350メートル)の二手にわかれている。下りが楽な方がよかろうと、上りは「急峻」を選択した(けっこうきつかった)。上り切ると歩きやすい遊歩道になり、ベンチやテーブルも整備されている。午前11時10分、森の終点となる林道との合流点(標高780メートル)に着いた。
天上の頂は…
ここから山頂へは約1キロの道のり。人工林を通り抜ける登山道は、少し急なところもあるが、よく踏まれていて歩きやすい。約30分で天上山の山頂に着いた。
観光庁が公開している解説文には「山頂へと続く道を登り切った人たちには、壮大な眺めが待っているのです」とあったので期待したが、眺望が開けているのは北西側だけ。しかも樹木が伸びてきているので恐羅漢山(https://hread.home-tv.co.jp/post-173289/)や十方山(https://hread.home-tv.co.jp/post-160333/)の山の端しか見えない。眺望はあきらめて昼食にすることにした。久しぶりに湯を沸かしてカップヌードルとおにぎりを楽しんだ。
下山は引き明けの森の「ゆるやか」コース。確かに傾斜は緩やかだったが倒木が多く歩きにくかった。ここ以外は上りと同じ道を下った。引き明けの森から先は結構足に来る。足のスタミナに自信がない人は龍頭峡から上る今回のルートは避け、天上山林道経由で標高770メートルの登山口まで行き、天上山往復と引き明けの森の散策を楽しんだ方が無難かもしれない。
総歩行距離は7.4キロ、休憩を含む行動時間は5時間50分だった。
下山後のおたのしみは温泉
今回も車を利用したので、下山後の行動に自由度がある。早めに下山できたこともあり、以前から気になっていた加計の月ヶ瀬温泉に寄ってみることにした。龍頭峡から車で20分ほど。施設の前の広い駐車場に車を停めて入場。入浴料はおとな500円とリーズナブルだ。泉質はアルカリ性単純泉。つかると肌がすべすべになって気持ちいい。露天風呂もあり、ゆっくり疲れを癒すことができた。今回は利用しなかったが、お食事どころも併設されている。
2025.5.31(土)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》
ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラム「バスと電車と足で行くひろしま山日記」