薬師寺東塔 大修理:祈りの塔を次の千年につなげ――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第三作『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
<strong>祈りの塔 1300年の時をつなぐ――国宝・薬師寺東塔 全解体修理</strong>
1. 史上初の大修理が始まる
創建以来初となる東塔の全解体修理
奈良県奈良市には、かつて平城京と呼ばれる都があった。奈良に残る史跡や天然記念物は、「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
構成遺産の一つに、法相宗の寺院・薬師寺がある。天武天皇が妻である皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の病気平癒を祈り、人々を病から救う薬師如来をご本尊として、西暦680年に建立を発願した。天武天皇は完成を待たずに崩御したが、病が癒え遺志を継いだ皇后によって698年にほぼ完成した。中央に本尊を祀る金堂と、東西に2基の塔を配する伽藍配置は、薬師寺が日本初である。
薬師寺は、日本で初めて造られた本格的な都城・藤原京の中心部近く(現・奈良県橿原市城殿町辺り)にあった。710(和銅3)年の平城京遷都ののち、薬師寺も現在地(奈良県奈良市西ノ京町)に遷され、病気平癒の寺として、多くの人が祈りを捧げてきた。
各階に裳階と呼ばれる小さな屋根がある薬師寺の壮麗な堂塔群は、「龍宮造り」と称された。ところが、度重なる災害や兵火に見舞われ、華麗な堂塔は次々と焼失した。特に1528( 享禄元)年の兵火は影響が大きく、金堂や西塔、大講堂などが失われた。
その中で、約1300年の風雪に耐え、唯一創建以来の姿を保ち続けているのが、国宝の東塔である。平安時代後期の史料『扶桑略記』によると、東塔が建てられたのは730(天平2)年。
東塔は一見すると六重に見えるが、各層にある小さな屋根は裳階で、実際は三重の塔である。大小の屋根がリズミカルに重なり合い、美しい旋律を感じさせる塔の姿は、「凍れる音楽」と称えられてきた。東塔の美しい佇まいは、白鳳様式の伝統を今に伝える日本の宝である。
薬師寺東塔は寺の原点を今に遺す唯一の存在として、時代を超えて人々の祈りを受け止めてきた。加藤朝胤・現管主も、東塔が薬師寺伽藍において特筆すべき存在であると語る。
「1300年という時間を日数換算すると、およそ48万日になります。この間、毎日どなたかが塔の前で、祈りや願いを捧げてこられました。人々にとって、東塔は心の拠所とも言うべき存在です」
しかし、1300年の風雪により、東塔は危機に瀕していた。塔の中心を貫く「心柱」は腐食し、シロアリに食い散らかされて空洞化が進んでいた。また、土台の地盤沈下によって全体に大きなゆがみが生じ、大地震による倒壊の恐れがあった。さらに、塔の頂上に掲げられたシンボルの「水煙」は、断裂寸前まで傷んでいた。
そこで2009(平成21)年、創建以来初となる東塔の全解体修理が始まった。工期12年、総工費28億円。塔を構成する1万3000点もの部材を全て解体・修復し、組み直すという大プロジェクトだ。
これは、祈りの塔を未来へ繫ごうと奮闘した人々の、千年の時を超えた物語である。
戦後に始まった薬師寺の復興事業
奈良時代の薬師寺は、大官大寺(大安寺)、元興寺(法興寺)、興福寺と並ぶ「四大寺」の一つとされ、栄華を誇った。しかし、度重なる災害や兵火によって、伽藍(寺院の主要建物群)は次第に荒れていった。
祈りの象徴である薬師如来を安置する金堂も、戦国期に焼失して以降、長らく仮金堂の状況が続いた。雨漏りがひどく、雨天時は傘をさして勤行しなければならないほど建物が老朽化していた。
薬師寺の伽藍再興を強く願ったのが、1939(昭和14)年から薬師寺の管主を務めた橋本凝胤だ。その思いは弟子の高田好胤に引き継がれ、1968(昭和43)年から金堂の再建が始まった。
金堂の復興には10億円の資金が必要だった。そこで高田が始めたのが、一般の人々に般若心経一巻を1000円で写経してもらう「写経勧進」だった。
一人1000円だと100万人の写経が必要だったので、「企業から寄付を募っては」という意見も挙がった。しかし、高田は「企業からの寄付、義理や割り当てで集められたお金で復興しても、お薬師さまは喜んで下さらない。一人でも多くの人々の菩提心によって建てられた金堂でなければならない」として、「百万巻写経による金堂復興勧進」を発願した。
その根底には、薬師寺の「祈り」に対する崇高な思いがあった。
時は高度経済成長時代の真っ只中。高田は全国を行脚し、「『物で栄えて心で滅ぶ』高度経済成長の時代だからこそ、精神性が伴った伽藍の復興を」と訴えた。
「鬼」の名工と昭和の再建
金堂の再建指揮をとったのは、法隆寺の昭和大修理(1934〜1954年)にも携わった宮大工の西岡常一。法隆寺の修理では、高名な学者から「定説と違う」と指摘されたが、その学者を現場に引っ張り出して目の前で組み上げを見せ、「定説」をひっくり返したこともあった。豊かな経験に立脚した鋭い言説と烈々たる気迫から、西岡は畏怖を込めて「鬼」と呼ばれた。西岡は祖父・常吉から三代続く法隆寺専属の宮大工だったが、高田の人柄に惚れ込み、薬師寺金堂の再建を引き受けていた。
白鳳時代の建築様式の研究を踏まえ、高さや軒の出(屋根の軒の長さ)などは東塔との調和を考慮しながら再建した。
1976(昭和51)年、目標だった百万巻写経が達成された。そして同年4月、金堂の落慶法要が営まれた。これを皮切りに薬師寺では伽藍の再建が進み、1981(昭和56)年には、東塔と対をなす西塔が再建された。戦国時代以来、453年ぶりに、薬師寺に東西両塔が揃い立った。
1984(昭和59)年には、薬師寺の中で一番大きな門である中門が完成。その後も大講堂や食堂、玄奘三蔵院伽藍、回廊など、薬師寺の建物が次々と再建された。
YAZAWAと競馬を愛する男、薬師寺へ
時は流れて1990(平成2)年、西岡の現場に一人の新入りがやって来た。石井浩司 、当時29歳。岡山県倉敷市で工務店の家に生まれ、14歳から大工の修業を始めた。師匠は祖父、父は兄弟子で、自宅の離れで他の弟子とともに寝起きしながら大工としての腕をみがいた。
小学生の頃から、ロックンローラー・矢沢永吉の大ファン。好きな曲は『黒く塗りつぶせ』で、矢沢の著書『成りあがり』に影響された。自分の思うままに生きてきた。休日には競馬に打ち込むギャンブル好きで、自由気ままな男だった。
この頃、薬師寺では回廊の第1期工事が行われていた。石井は住宅の大工として働いていたが、「薬師寺の再建工事を勉強してこい」と、工事を請け負う建設会社に送り込まれた。しかし、半年もしたら岡山に帰ろうと考えていた。
「そもそも大工になったのも、実家が大工だったから。物心がついたときから、自分は大工になるんだろうなと思っていました。だから、大きな夢や目標も特になくて、生活の手段として大工を選んだ感じです。薬師寺の現場も、『こういう現場があるから行ってみないか』と紹介され、興味本位で来ました。特にお寺に興味があったわけでもなく、本当に『ちょっと行ってみようかな』という軽いノリで。西岡棟梁のことも、知りませんでした」
石井が薬師寺に来たとき、80歳を過ぎていた西岡はすでに現場の第一線から退いていた。それでも、西岡が来ると現場に緊張が走ったという。若手だった石井も、西岡からほとばしるオーラを感じていた。
「最初にパッと見たときに、『この人には言い訳や屁理屈は通用せんわ』と思いました。ニコニコ笑っているんですけど、目の奥には『鬼』がいたような気がします」
師が遺した言葉
西岡の現場は今まで石井が経験してきたものとは全く違っていた。西岡のもとでキビキビと動く職人は皆、一流だった。西岡が復活させた古代の道具を使いこなす、技と哲学を併せ持った集団だった。
若手の石井が、西岡と直接話をする機会はそこまで多くなかった。しかし、西岡の言葉は、石井の心の中にいつまでも残っている。
「法要の手伝いの最中、『何で大工なのにこんなことせなあかんの』と思っていたら、棟梁から『お堂を建てるなら、そのお堂の中で何をやっているのかがわからんと建てられんぞ』と言われたことがあります。何も言い返せませんでした。私が使っていたノミを突然持ち上げて、無言で見つめてから元に戻し、去っていったこともあります。たった数秒でしたが、永遠に感じられる緊張感でした。私は棟梁が何を言いたかったのかを必死に考えて、ノミの研ぎ方を改善しました」
石井が「ここの木組みはどうなっているんですか?」と聞くと、「法隆寺の○○を見てこい」と言われる。工事が休みの日に見に行くと、石井の疑問への答えがある。「ここはわかったんですが、こっちはどうですか?」と聞くと、「じゃあ今度は法隆寺の××を見てこい」と言われる。また見に行くと、その答えがあるという具合で、最初の1年は毎週法隆寺へ通っていた。答えを教えるのではなく、自分で考えさせるのが西岡のやり方だった。
そんななか、何より石井の心を捉えたのが、西岡の「創建当時の職人である工人の心になって仕事をしなさい」という言葉だった。しかし、石井はその言葉の意味がよくわからなかったという。
「言葉の意味は単純明快です。しかし、『工人の心』が一体何なのか、考えるとまったくわかりません。当時の工人に聞きに行くわけにもいかず、それが何なのかを知りたいという思いが、心の中にずっとありました」
大工としての経験を重ね、人生の経験も積み重ねると、その言葉の意味にたどり着けるのだろうか? 石井は「工人の心」の意味を追い続けた。岡山の会社から「そろそろ戻ってこないか?」と打診されたが、薬師寺での仕事が面白くて、戻る気がなくなっていた。結局、岡山には戻らず、西岡の下で修業を続けた。
1995(平成7)年4月、西岡棟梁は86歳で亡くなった。生前、最後の取材でインタビューを受けた時、すでに病気が進行し、肩で息をするほどに弱っていた。しかし、インタビュアーから「最後に若い職人にメッセージを」と問われると、急に覇気を取り戻した。そして、鬼気迫る表情で、こう伝えた。
「本当の仕事をやってもらいたい。誤魔化しでなく、本当の仕事を」
大講堂再建への抜擢
1995(平成7)年、石井は奈良のバスガイドをしていた8歳年下の幸代と結婚した。出会いは社員旅行のバスツアーだった。社寺や歴史が好きな人で話が合った。結婚後は家のことを妻に任せっきりで、仕事に打ち込んだ。
薬師寺の伽藍の中で最大のお堂である大講堂の再建は、1996(平成8)年から始まった。石井は原寸図(ズレをなくすために描く縮尺1分の1の図面)を描き、実質上の棟梁として再建にあたった。
「自分より上に人がいるのに、なぜか自分が選ばれました。直前に西岡棟梁が亡くなり、できるかどうか不安でしたが、教わった基本的なことを応用して頑張りました。先輩からの当たりが強くて毎日しんどくて、寝ていても『あそこ違っている』と目が覚めて、確認しに行くこともありました。でも徐々に認められるようになり、だんだんと楽しくなってきました」
大講堂は2003(平成15)年に完成し、約500年ぶりに最勝会(国家安泰や五穀豊穣を祈る法要)が執り行われた。再建工事の中心を担った石井には、「もう技術では誰にも負けない」という強烈な自負が芽生えた。
「大講堂再建の仕事は、今思えばエゴを込めまくりの仕事でした。自分の仕事を誇示したい気持ちが強くて、自分が宇宙の中心くらいに思っていました」
しかし、プライドの陰で、西岡の「創建当時の工人の心になって、仕事をしなさい」という言葉が、常に心の中で引っかかっていた。大講堂再建という大仕事を成し遂げても、いまだに 「工人の心」にはたどり着けていなかった。
東塔には「工人の心」の答えがあるのか?
そんな中で、次に持ち上がったのが東塔の修理であった。薬師寺創建当初から唯一現存する東塔は、過去に何度も部分的な修理が行われてきた。しかし、悠久の時によって蓄積された傷みは、想像以上のものだった。
最大の問題点は、塔の中心を貫く心柱の腐食。外から一瞥しただけではわからないが、X線撮影をすると、下から初重(第一層)の天井近くまでの約3メートルが大きく空洞化していた。このままだと、大地震が起きたら心柱が崩れ落ち、塔全体に被害が及ぶおそれがある。そこで2005(平成17)年、心柱に添え木を追加する措置を行った。しかし、これはあくまで応急措置で、状況を改善するには、部材をいったんバラして組み直す「解体修理」を行う必要があった。
石井は「東塔の解体修理に携わりたい」という気持ちが日増しに強くなっていた。
「東塔を建てた人たちの気持ちがわかれば、『工人の心』にたどり着くのではないかと感じていました。しかし、それは塔を外から見てもわかるものではありません。全てを解体してバラバラにして、部材の細部を見ることで、その答えが見つかるのではないかと思いました。まだ何も決まっていない段階から役所に履歴書を持っていき、『絶対にやらせてほしい』とお願いし、苦笑いされたりもしました」
しかし、国宝の修理は国や県も関わる大事業なので、そう簡単には決まらない。2006(平成18)年には所属している建設会社と薬師寺の契約が終了した。どうしても「工人の心」が知りたい石井は他の現場からの誘いも断り、修理の開始を待った。
「東塔の修理に関わりたいという目標はあったものの、何のめども立っていませんでした。それでも、フルタイムで働く妻は不思議と文句一つ言いませんでした」
その後、東塔への熱い思いが届いたのか、石井は薬師寺に直接雇用される宮大工となった。半年間の無職生活を経て、東塔への道が一歩近づいた。
薬師寺に雇われると決まった時、妻の幸代は一言、「絶対、いつか薬師寺に戻る気がしてた」とだけ言った。
幸代は、未来へ残る建物を築く石井の仕事を誇りに思っていた。
2. 1300年の歴史の重み
ついに始まった薬師寺東塔の解体修理
2009(平成21)年1月、薬師寺東塔の修理が正式に発表された。費用の一部は、写経勧進で募ることになった。薬師寺には病気平癒や家族の健康を祈る人、東塔が往時の姿を取り戻すことを願う人が訪れ、写経をした。人々の祈りが込められた写経は、修理された東塔に納められることになった。
東塔修理の決定は石井が待ち望んでいたものであった。しかし、国宝の文化財である東塔の修理は、それまで石井が手掛けてきた、お堂などをイチから建て直す再建工事とは勝手が違うことを、すぐに思い知らされた。
「文化財の修理はあくまで『保存』が目的であり、『交換しないとダメだろう』という部材も、基本的にはそのまま使います。うかつに手を出せない部分もたくさんあって、今までやってきたこととは明らかに違うなと感じました」
東塔の修理は奈良県が主体の事業だったので、石井は棟梁ではなく、職人の一人として参加した。解体や部材の修復、組み立てなどの全工程に携わった。最初から最後まで修理に関わり続けた大工は石井だけだった。
解体修理は、2011(平成23)年から本格的に始まった。まずは塔を覆う覆屋が建てられた。高さ42.5メートル、東西30メートル、南北32.5メートルの鉄骨の建物が、高さ34メートルの塔をすっぽりと覆った。内部には7階の足場が組まれ、塔を上から順に解体していく。塔の土台にあたる基壇だけになったところで、今度は下から組み直すというのが、全体の大まかな工程であった。
最初に、塔の最上部に付けられた「相輪」と呼ばれる銅製の飾りを取り外していく。仏教の開祖である釈迦が荼毘に付された際、残された仏舎利(釈迦の遺骨)を納めた塚(ストゥーパ)の上に重ねられた傘が、相輪の起源とされる。相輪は、聖なる光を表した頂上の「宝珠」、火炎状の装飾金具「水煙」、9つの輪からなる「九輪」などで構成される。
相輪の取り外しのあと、屋根の瓦が1枚ずつ外されていった。直接雨風を受ける瓦は、多くが新しいものに交換された。丸瓦は約8000点中約5000点、平瓦は約1万7000点中約1万点が新品となった。
部材が語る東塔の歴史
解体の現場で、石井はいにしえの工人たちに思いを馳せた。
「相輪の取り外しにはクレーンが用いられましたが、それでもかなり大変でした。相輪は高さが約10メートルもあり、土台にあたる露盤だけでも重さが500キロぐらいあります。足場も道具も満足でない環境のなか、1300年前の工人はどうやって塔の上、高さ30メートル地点まで相輪を持ち上げたのか? 個々の職人のエゴだけで、これを成し遂げるのは難しいはずです。何かに向かって職人たちの心を一つにする必要があったはずですが、それは何だったのか? 思いは尽きませんでした」
東塔の解体作業において、石井は部材の重さを測る作業を担当した。最初は、単純な作業に意義を見出せなかった。しかし、1300年耐え続けた部材と向き合ううちに、その時間は石井にとって至福の時となった。どの場所の部材に、どんな道具跡がつき、どう変形しているのか。当時の工人がどんな切り出し方や組み方をしたのか。全ての部材の計測を一人で行ううちに、西岡棟梁のすごさを改めて思い知った。
例えば、「台輪」という屋根の重みを支える部材。台輪が1センチ沈むと、屋根の高さが5センチ変わると言われる。東塔の台輪は木の年輪がゆがむほどに沈み込んでいた。再建する台輪には厚みを付けるように、というかつての西岡棟梁の指示は、このことを見越していたのだと思いいたった。
「言葉では理解していたものの、長い年月が生んだ変形具合を目の当たりにして、棟梁が言っていたことは正しかったのだと心から実感しました」
古代の工人たちのまっすぐな仕事ぶり
部材を間近で見て、初めてわかることもある。例えば、1300年前の升の切り口には、「釿」という道具を使った跡があった。釿は紀元前から使われてきた斧の一種で、「大工道具の化石」とも呼ばれる。直角に曲がった柄の先に平たい刃が付いており、鍬のように振り落として木材を削っていく。今は使われる機会がなく、現場で扱えたのは石井しかいなかった。現在の道具で部材を切ると頃合いが変わってしまうので、石井が釿を使って切り出しを担当した。
また、道具の使い方も、現代の職人とは大きく異なっていた。
「古代の工人は、現代と違って道具に恵まれていたわけではありません。そのため、今なら素人でもできそうな道具痕(道具使いの痕跡)もたくさん見られました。悪く言えば大ざっぱで、均一性がなくて個々の寸法もムラだらけです。しかし、現代の大工が失敗を避けるため、作業を少しずつ慎重にやっているのに対し、古代の工人には迷いがない。勢いよく一振りでスパッとやっています」
石井は、古代の工人によるこの一振りの迷いなき仕事に感銘を受けた。
「私は、『ここまでの仕事ができるならやってみろ』と、後世の職人に挑むようにして仕事をしてきました。一方で、東塔の道具痕からは、自分の存在を世に知らしめようとか、そういう自我はまるで見られません。自分の腕をよく見せようとどこかに細工を入れるとか、そういう『隠し味』も一切ありませんでした」
東塔の建設は、当時の工人たちの純粋な魂が込められた「無私の仕事」だったのかもしれない。
古代の工人はなぜこんなに迷いなき仕事ができたのか? 謎は深まるばかりだった。