類まれなる先見性!織田信長は「先を読む力」で戦国最強軍団を構築した
足利尊氏以来、約240年間続いた室町時代を終わらせ、安土桃山時代の礎を築いた織田信長。
日本各地に割拠する有力戦国大名を次々と制し、天下統一まであと一歩に迫ったその実力は、一体どこにあったのか。
そして、それを成し得た強力な軍団をいかにして築いたのか。
その根拠は、信長の類まれなる才能ともいうべき「先見性」にあった。
今回は、織田信長の先を読む力に焦点をあて、その軍団の強さを探っていこう。
農民を職業軍人化して「兵農分離」を実施
日本史において兵農分離というと、豊臣秀吉が行った「刀狩令」が有名だ。しかし、信長はいち早く「兵農分離」を実践していた。
戦国時代になると、武士たちは主君の本城がある城下町に屋敷を構えた。そのうえで、主君から与えられたり、保証された領地にも城・館を構えた。
そこは、本城に対する支城群であるとともに、年貢を得るための耕作地でもあり、有事以外は家臣や農民を使い農業に勤しんでいたのだ。
そして、いざ出陣となると農民を兵隊=農兵として徴用した。そのため、戦国時代に戦闘に参加したのは武士だけではなかった。
その割合は、25%が武士で、残りの75%が農民=農兵という感じであり、武士にしても地侍のように、農民的な比重が高い人々が多かったのだ。
戦争を生業とする戦国大名にとって、何よりも大切なものは財力だった。財力がなければ戦争はできない。なぜなら武器も買えないし、兵隊を養うこともできない。ましてや、城砦を築くこともままならないだろう。
その財力として、領地からとれる農作物、とりわけ米は大切な財源だった。
敵の領地を侵略した際に「刈田狼藉」といった田畑の作物を刈り取るような戦略が行われたのも、こうした理由からである。
戦国大名の家臣たちは、極端な言い方をすれば、半士半農的な生活を送っていた者が多かった。それ故に、春の田植えと秋の稲刈りの時期に戦争ができないのは至極当然のこと。つまり、1年を通じての継続した戦争はほぼ不可能だったのである。
他国との戦争でその遠征中に、田植えと稲刈りの時期になってしまったら、たとえ有利に戦況が進んでいたとしても、いったん自領へ帰らなくてはならないという矛盾を抱えていたのだ。
そのため、多くの戦国大名たちは、農閑期を中心に戦争を行っていた。
これは、領土拡大を目指す戦国大名にとっては、大きな足かせになっていたのである。
それに対し信長は、従来の発想を転換し「兵農分離」を実践した。
農民の次男三男を農地から引き離し、清州などの城下に移住させたうえ、給金を払い職業軍人とした。
さらに、兵力を城下に集中することで信長からの命令系統がスムーズになり、戦闘軍団としての機動性が大幅に高まったのだ。
こうして、織田軍団は常備軍団となり、1年中いつでも戦えて遠征も容易に行えるようになった。
もちろん、「兵農分離」には職業軍人に支払うための財力が必要だった。その財力を賄うため、信長は商業を重視する「重商主義」政策をすすめたのである。
領内の市を発展させ、堺を支配した「重商主義」
鎌倉時代に確立した定期市は、室町時代に入ると商品流通の拡大に伴い、月6回開催する六斎市へと発展していく。財力の備蓄に励んだ戦国大名の多くは、この市を収入源として自らの城下に誘致した。
教科書では信長の専売特許のように書かれる楽市・楽座は、多くの戦国大名たちが取り入れた商業政策だった。
ただ戦国大名によっては、商業を重要視する度合いは異なる。肥沃な土地を持ち、米や作物が多く採れる大名は農業を重視するからだ。一方でそうでない大名は、否が応でも商業を重視する「重商主義」を採用せざるをえなかった。
では、信長はどうだったのだろう。信長が本拠とした尾張国は、木曽川・庄内川などの河川が運ぶ肥沃な土地に恵まれていた。
そんな土地を領有しながら信長の父・信秀は、自領から得られる年貢以外の経済的基盤として、萱津・熱田・津島などの商業都市を保有し、そこから得られる財力をフルに活用して、尾張統一を目指していたのだ。
信秀亡き後、信長は尾張半国とそうした商業都市を受け継ぎ、さらに発展させていく。
これは、幼い頃から「重商主義」をとる父の姿を見たことで、商業から得られる利益がいかに大きなものかを実感していたのだろう。
後に信長は、国際貿易都市・堺に狙いを定める。町衆により支配された当時の堺は、南蛮貿易の基地として莫大な利益をあげていた。
信長は武力で町衆を屈服させ、堺を直轄領とした。そして、そこで得られる利益だけでなく、新兵器である鉄砲の輸入・生産・弾丸・硝薬の供給ベースとし、織田軍団のさらなる強化を成し遂げたのである。
「新兵器」である鉄砲を活用する戦術を編み出す
新たな武器の登場や採用は、戦争の姿を一変させる。
室町初期の南北朝時代に楠木正儀により採用された槍は、騎馬武者による一騎討から、槍を前面に押し出す歩兵での集団戦に戦法に急変させた。
戦国時代の新兵器の代表は何といっても鉄砲だろう。よく信長のみが鉄砲の利点に気付いて積極的に採用したようにいわれるが、事実はそうではない。
多くの大名・武将たちは、いち早く鉄砲に注目した。しかし単に注目するだけでなく、積極的に取りいれるとともに、いかに活用するかが重要だった。
信長はその点において、他の戦国大名たちを大きくリードしていたといっても過言ではないだろう。
前項で述べたように信長は堺の商人に命じて、最新式の鉄砲を集め、製造させ、弾丸の材料となる良質な鉛や硝薬を確保した。
そして、発砲するまでに時間を要する火縄銃の弱点を補うために、三段戦法を活用し、長篠戦いで武田勝頼を破った。また、石山本願寺攻めの海戦においては安宅船に鉄の装甲を施し、多くの大鉄砲を搭載した鉄甲船で押し寄せる毛利水軍を撃破したのだ。
世襲制・終身雇用制から「能力主義」への転換
そして、戦国最強の織田軍団を築いた信長の「先見性」を語るうえで外せないのが、「能力主義」への転換を図ったことだろう。
信長は家臣団を運営するにあたり、積極的に「能力主義」を重視した人事を行った。譜代の家臣であろうと、新たに召し抱えた新参者であっても差別をしなかった。
数10年前から日本の多くの企業が、「終身雇用制」から「能力主義」へと舵を切った。しかし、歴史を振り返ると、日本では古くから世襲制や終身雇用制が重視されていたのは周知の通りだ。
例えば、江戸時代には上級武士の家に生まれた者は、とんでもない失敗をしない限り生涯恵まれた生活を送れ、代々受け継ぐ良い役職に就くことができた。しかし、下級武士に生まれた者は一部の例外があったにせよ、基本的には生涯低い報酬と低い役目に甘んじたのだ。
放映中の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に登場する老中・田沼意次が、他の幕閣からネチネチと嫌味を言われているのは、意次が足軽出身の家系だったからだ。
下剋上が盛んだった戦国時代には、豊臣秀吉など商人・農民から立身出世を遂げた人々はいた。だが、それはほんの一部であり、多くは世襲制という縛りの中で生きていたのである。
その点、信長は優れた功績を残した者にはそれにふさわしい報酬で報い、逆にさしたる働きがない者には厳しい処断を下した。
信長の性格が語られるとき、ワンマンで気分屋のようにいわれる。しかし、その人事は決して思いつきで決めたわけではない。
他国に優秀な人材がいるという情報があれば、祐筆衆をスカウトに向かわせ、最終的には自分が面談し採用を決めた。
決して「良きに計らえ」ではないのだ。
信長のもと頭角を現していく、豊臣秀吉・明智光秀・滝川一益の3人は全て新参者で、その氏素性は不明なところが多い。また、従来より信長に仕えていたとされる、柴田勝家・森可成・丹羽長重・佐々成政・前田利家なども、自らの能力で信長に重用された。
そんな配下の家臣団に対しては、優秀な査定官である祐筆衆に細かくその働きぶりをチェックさせて、公平な査定を実施したのである。
本能寺の変直前には、織田家の所領は800万石という、とてつもなく大きなものになっていた。後の江戸幕府の天領400万石の倍の領地を支配し、信長と嫡男信忠を頂点として、天下統一に向けた大規模軍団が編成されていた。
その軍団は畿内・中国・北陸・関東・四国の5つ方面軍に分かれ、各軍団長は方面軍を統帥する選りすぐりの武将たちだった。
そして、5つの方面軍のうち、実に3つが明智光秀(畿内)・羽柴秀吉(中国)・滝川一益(関東)という新参者で占められていたのだ。
こうした信長の能力本位の人事が、織田家への忠誠心と組織・軍団の強力化につながったのは間違いないだろう。
そして、信長はその卓越した「先見性」で、織田軍団をして戦国最強の兵団に仕上げていったのである。
参考 : 『信長公記』『太平記』他
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部