世界初の乗り物「電動アシスト自転車」を生んだヤマハ。逆境続きだったその開発秘話とは?【新プロジェクトX 挑戦者たち】
子育て世代やシニアの生活を劇的に変えた「電動アシスト自転車」。現在では一般の自転車を上回る年間80万台が販売されている電動アシスト自転車を世界に先駆けて開発したのは、オートバイで知られるヤマハ発動機だ。この新しい乗り物を「原付」ではなく「自転車」として世に送り出すまでの道のりには、いくつもの苦難があった。『新プロジェクトX 挑戦者たち 4』の第四章「革命の自転車 つなげ、感動のバトン 世界初 電動アシスト自転車」より、冒頭を特別公開。
革命の自転車 つなげ、感動のバトン――世界初 電動アシスト自転車
革命の自転車 つなげ、感動のバトン――世界初 電動アシスト自転車
日常に革命を起こした自転車
日本に初めて自転車が持ち込まれたのは、江戸時代末期と言われている。明治時代に国内での生産が始まり、昭和初期ごろになると、その利便性の高さから庶民にも普及した。ペダルを漕こぐだけで、簡単に、速く、遠くまで移動できる自転車は、100年にわたって、人々の最も身近にある乗り物として生活を支え、社会に溶け込んできた。その自転車の歴史に、1993(平成5)年11月、新たな1ページが加わった。世界で初めて、モーターにより人力を補助する「電動アシスト自転車」が発売されたのだ。
電動アシスト自転車は、人がペダルを漕ぐとその動きをセンサーでキャッチし、バッテリーから電力が供給され、漕ぐ力をモーターがアシストする仕組みになっている。まるで誰かに背中を押されているようなアシストによって、急な上のぼり坂を上る時や重い荷物を積んでいる時でも、すいすいと進むことができる。お年寄りや子育て世代の強い味方として幅広く支持され、現在では一般の自転車を上回る年間80万台が販売されている。
東日本大震災の発災後や、新型コロナウイルス感染症の流行時には、公共交通機関に代わる交通手段としても注目された。最近ではスポーツタイプのモデルも登場するなど、その利用は年々広がりを見せている。
人々の生活を変え、日常に「革命」を起こしたと言われる電動アシスト自転車。それを世界に先駆けて開発したのは、オートバイで知られるヤマハ発動機だ。オートバイメーカーであるヤマハが、この新しい乗り物を「原付」ではなく、「自転車」として世に送り出すまでの道のりには、いくつもの苦難があった。
発案したのは新たな事業開発を目指す部署の天才肌の技術者。引き継いだのは、ライバルの後塵を拝してきたエンジニア。プロジェクトが逆風にさらされても決して諦めず、秘密の実験場でテストを重ねた。そして彼らを率いた上司は、電動アシスト技術の未来を見据えて、自社の利益を超えたある「決断」をする。
ペダルを一漕ぎした瞬間の感動を、たくさんの人に伝えたい。開発者たちは日夜実験走行を続け、法律の壁をクリアし、感動の輪を広げてバトンをつないだ。
これは、「99%無理」とも言われた逆風に抗あらがい、難題に立ち向かった開発者たちの、知られざる戦いの軌跡である。
オートバイ市場の覇権争い「HY戦争」
1980年代初頭、日本のオートバイ市場では、2つの会社が熾し烈れつな競争を繰り広げていた。いずれも静岡県浜松市を創業の地とするホンダ(本田技研工業)とヤマハ(ヤマハ発動機)による販売競争は、のちに両社の頭文字をとって「HY戦争」と呼ばれた。
自転車用補助エンジンメーカーとしてスタートし、「オートバイメーカー」として発展してきたホンダに対し、ヤマハのオートバイ製造の歴史は、少し風変わりだ。
ヤマハグループの歴史は1889(明治22)年、オルガンを製造する山葉風琴製造所に始まった。その後、日本楽器製造株式会社として1900(明治33)年にはピアノの製造を始め、戦前から国内随一の楽器メーカーとして名を馳せていた。
そのヤマハがオートバイ製造に乗り出したのは、1953(昭和28)年。当時の社長・川上源一が、極秘でエンジンの試作を命じたことに端を発する。実は、日本楽器製造は戦時中、航空機のプロペラや試験用エンジンを製造していた。その工作機械と、ピアノフレームの製造で培った鋳造技術を活用して、新たな事業を展開しようと目論んだのだ。
1955(昭和30)年、日本楽器製造からモーターサイクル製造部門を独立させる形で、ヤマハ発動機が設立された。この頃、すでに国内には約200社ものオートバイメーカーがひしめき合っており、ヤマハは最後発からのスタートとなった。
設立当初こそ「楽器メーカーの一部門」に過ぎないと見られていたヤマハだったが、折からの好景気とオートバイブームに乗って、先行するメーカーを一気に抜き去り、急成長を遂とげた。しかし、ヤマハのシェアは長らく2位止まり。トップを独走するホンダには、なかなか勝てなかった。
1970年代後半、万年2位だったヤマハが、ホンダを上回るべく仕掛けた。送り出した新商品が、両脚をそろえて乗ることができるスクーター「パッソル」だ。俳優の八千草薫をCMに起用し、スカートをはいたまま乗ることができるとアピールすると、女性を中心に大ヒットした。その勢いに乗り、ヤマハは1979(昭和54)年、社員を集めて「総決起大会」を開催。HY戦争の火蓋が切って落とされた。
両社の争いは、苛烈を極めた。互いに生産体制を増強し、猛烈な販売攻勢をかけ合い、さらに毎週のように新モデルが市場に投入されるという異様な新製品ラッシュも起きた。しかし、その先で待っていたのは、過剰生産によって大量の在庫を抱え、消費者の不信を招くという誰も望まない結末だった。ヤマハは350億円の赤字に転落。HY戦争は、ヤマハの敗北によって幕を下ろした。
きっかけはフィットネスブーム
1988(昭和63)年4月、巻き返しを図はかるべく、ヤマハは社内に一つの部署を新設した。「事業開発室」。その使命は、それまで各部門がバラバラに行っていた新商品の開発を集約し、新しい事業を生み出すことだった。
事業開発室を司る本部長には、専務の長谷川武彦が就いた。長谷川は、技術者としてヤマハによる国産初のスポーツバイク「YSD‒1」の開発をはじめ、多くの二輪車開発に携わり、1960年代には名車「トヨタ2000GT」の共同開発でも中心的役割を果たした。国内最後発だったヤマハのオートバイ部門を世界的メーカーに押し上げ、「ヤマハに長谷川あり」と言われたカリスマだ。
その長谷川が、現場で指揮を執る事業開発室長を任せたのが、藤田武男だった。手柄は語らず、笑顔もめったに見せない、実直を絵に描いたような男。藤田の下には、世の中をあっと言わせる新しい商品を生み出そうと、社内のさまざまな部門からバラエティに富んだ人材が集まった。その中に、菅野信之がいた。
菅野は、天才的な発想力の持ち主だが、それ故ゆえに周囲には「変わり者」と見られていた。その変わり者が、ある日、藤田にとあるアイデアを持ち込んだ。
「モーターが漕ぐ人をアシストしてくれる自転車」の開発だ。
事業開発室が新設された頃、日本では健康や体力増進のために運動する「フィットネス」が一大ブームになっていた。1980年代、アメリカ発のエアロビクス人気に牽引されて日本でも多くのフィットネスクラブが誕生し、1988年には年間224か所もの施設が新設された。この流行に乗って、ヤマハもフィットネス器具の領域に参入できないか。そんな発想が、菅野のアイデアの出発点だった。
菅野は、社内でモーターによって負荷を吸収する制御技術が構想されていることを耳にしていた。その技術とフィットネスの世界を結びつけて突破口を開こうと、1年ほどかけて、フィットネス業界の内情を詳しく調査した。しかし、ヤマハに適合するような商品は見えてこない。業界もすでに飽和状態にあり、これからヤマハが新たに参入してもどうも勝ち目はなさそうだ。菅野はそう結論づけた。ただ、新商品の開発をまったく諦めてしまったわけでもなかった。フィットネス業界への参入は厳しくても、「ヤマハに商機があるとすればこれだ」というイメージが浮かんでいた。
「やっぱりヤマハが得意な分野は、移動具(乗り物)だ。インドアで体を動かすための道具じゃなくて、アウトドアでフィットネスを実現できるようなものを作れたら、うちにも可能性があるんじゃないか」
菅野の頭には、フィットネスの専門家が口々に「継続的に取り組むことが大切」と語っていたことが引っかかっていた。アウトドアで、日常的に使えて、体を動かせる道具──。「自転車」はどうだろう?
「インドアのサイクルマシンをただ漕いでいても、面白くないんですよ。外で自転車に乗っていると、風を感じるし、景色も変わるし、気持ちがいい。山や坂道で乗るのは大変だけど、そこでモーターが補助してくれて、自由自在に地域を巡れたら、楽しくて体にもいいんじゃないかと思ったんです」
消費者の立場に立ち、感動を届けてこそ
日常性、継続性、そして適度な負荷。フィットネスに大切な3つの要素がそろった「モーターが漕ぐ人をアシストしてくれる自転車」なら、移動具に強いヤマハらしさが生かせて、意義のある商品になりそうだ。これはいけるかもしれない。そう菅野は考えた。
そんな菅野のアイデアを聞いても、室長の藤田は表情を変えなかった。藤田は、菅野のアイデアと「似たような乗り物」のことを思い浮かべていた。すでに発売されていた原動機付き自転車、ピープル。開発したのは、あのホンダだ。
ピープルの発売は、1984(昭和59)年。見た目は「小型エンジンを搭載した自転車」だが、ペダルを漕がなくてもエンジンだけで走るという特性上、道路交通法では自転車ではなく「原動機付き自転車」に区分された。そのため、乗るには運転免許が必要となり、あまり普及しなかった。
しかし、菅野のアイデアを聞いた本部長の長谷川は、開発にゴーサインを出した。
「これは、風の強い中、買い物に行く人が坂を上ったりする時にきっと役に立つ」
長谷川の脳裏には、かつて目にした、汗をかきながら自転車を押して坂道を上る女性の姿が浮かんでいた。
「消費者の立場に立って開発し、感動を届けてこそ」。それは、ライバルを追い抜くことだけを考え、消費者を置き去りにしてしまったHY戦争を経て、長谷川が抱くようになった思いだった。菅野のアイデアは、まさに消費者に感動を届ける乗り物を実現するもののように思えた。
モーター付き自転車の開発スタート
1989(平成元)年、春。菅野が発案した自転車の試作が始まった。菅野が当初試作に必要だと考えた材料は、大きく分けて4つあった。土台になる自転車の車体、ペダルにかかる力を検知するトルクセンサー、モーター、モーターに電力を供給するバッテリーだ。自転車やバッテリーは市販品を使うことにしたが、問題なのはモーターとトルクセンサーだった。自転車に載のせられるちょうどいい既製品はないかとあれこれ探すうちに、菅野は、はたとひらめいた。
「自動車のパワーステアリング(ハンドル操作の補助機構)だ」
電動のパワーステアリングはまだ世に出たばかりで、その構造が雑誌や技術系の展示会でよく取り上げられていた。菅野はそれを思い出したのだ。パワーステアリングは、人の力でハンドルを回し始め、途中からモーターの力を合力して補助する仕組みだ。
それは、菅野が構想する自転車のアシストの仕組みとよく似ていた。
あれならいける。そう直感した菅野は、中古車のパワーステアリングからトルクセンサーとモーターを取り外して、流用することにした。
こうしてあちこちから材料をかき集め、車体のどの位置に、どんな寸法で、どのパーツを取り付けてほしいかを示す構想図を書き上げ、同僚の村田康式に取り付け作業を頼んだ。
村田は、手作業でものを作るプロフェッショナルだ。オートバイ関連の中小企業で板金部品加工や溶接の技術を身に付け、中途採用でヤマハに入社したという経歴の持ち主で、旋盤加工もフライス加工もお手のもの。材料を手作業で加工して一から試作品を作り上げることができる、腕の確かな「職人」だった。
村田は若い頃、自転車で豆腐を配達するアルバイトをしていたことがある。当時、豆腐はまだパック詰めではなく、水を張ったブリキ缶に入れて運んでいた。重いブリキ缶を自転車に積み、坂道を上って配達先まで届けるのは骨の折れる仕事だった。あの時、こんな自転車があったら楽だったろうな。遠い記憶が蘇った。
菅野にも、秘めてきた思いがあった。
「『自分たちは稼いでいない』という罪悪感みたいなものは、やっぱりありましたね。いろいろなものを作って、チャレンジはしているんだけど、結果には結び付いていなかったので」
事業開発室から生まれたアイデアで、製品化にまでたどり着けるのは、1000のうち3つあるかないかと言われるほど。菅野は事業開発室にやってきてからこれまで、新たな事業を成功させたことが一度もなかった。
「同期に『お前いつも遊んでいるな』みたいなことを言われるので、そのうち一発当ててやろうって思いがずっとありましたね」
感動と興奮の初試乗
村田の作業が終わったのは、3週間後のことだった。形としては菅野の構想図通りに仕上がったものの、うまく動かない。モーターを作動させるために必要な、制御装置(のちのコントローラー)を組み込んでいないのだから、当然だった。新たな部品の必要性に気付いた菅野は、電子制御に詳しい同僚に助けを求めた。頼み込んでトルクセンサーとモーターをつなぐ回路図を書いてもらうと、必要な基板や部品を買ってきて、自分ではんだ付けを始めた。慣れない作業で苦労はしたが、そんなことは気にならないくらい気持ちが昂たかぶっていた。あの時の、のめり込むような心境を、菅野はよく覚えている。
「ワクワクしていましたね。これでやっと動くかもしれない、楽しい……という思いと、これで動かなかったらどうしよう、ちょっと胃がキリキリする……という思いと、両方でした」
着想から1年が経たち、ついに試作車が完成した。菅野はサドルに腰を下ろし、恐る恐るペダルを漕いでみた。モーターが作動して、スーッと進んだ。
「『あっ、アシストしてる。すごく自然。すごい、すごい!』と乗り心地に感激したのは確かです。『すげえ!』って、感動しましたね」
あまりに嬉しくて、近くにいた同僚に声をかけ、みんなに乗ってもらった。構想通りにアシストシステムが動いた喜びと興奮。初めて味わう「アシストされている」スムーズな感覚。もちろんまだ粗削りな出来でしかなかったが、ゼロからイチを生む開発者としての感動が、そこにあった。
ただ、気がかりなのは、室長である藤田の反応だった。
「ちょっと乗ってみてください」
今度は藤田が、実験場で試作車にまたがった。脚をついて車体を前後に動かし、バランスを確認した後、ゆっくりと一漕ぎしてみた。自分の脚の踏み込む力が助けられていると、確かに感じられた。
その姿をじっと見ていた菅野。表情が変わらない藤田がどう感じたのかは、まったくわからなかったと苦笑する。
「『ん~』って言ってるだけですよ。何考えてるかわからない。いつもムスッとしてる人でしたから」
だが、実はこの時、藤田も感動に胸を弾はずませていた。このアイデアは注目に値する。そう直感した。すごいことになるかもしれない、どんな面白い乗り物ができるんだろう。その日の夜になっても、興奮が冷めなかった。
これは磨けばもっと光る、力を入れていくべき領域だ。そう判断した藤田が商品開発につなげようと考えていた矢先、菅野が思いがけないことを言い出した。
発案者の突然の離脱
「私を(プロジェクトから)外してくれますか」
「どういうことだい?」と、藤田は問うた。
「このプロジェクトは、道筋が見えた。新しいことがやりたい」。それが菅野の答えだった。
事業開発室では、一人が複数のプロジェクトを掛け持ちするのが常だった。菅野も複数のプロジェクトを抱えていたため、アシスト付き自転車のアイデアがある程度形になったタイミングで、別のプロジェクトに注力することを選んだ。迷った末の決断だった。
突然の申し出に、藤田は驚いた。しかし、菅野の言葉を、次の新しいことをやりたいという意思表示だと受け止めた。菅野の得意分野は自由な発想でゼロから一を生み出すこと。大まかな構造ができたため、アシスト付き自転車のこの後の作業は、実験と修正の繰り返しがメインになるだろう。まだ形になっていないプロジェクトに力を向けてもらったほうが、菅野の適性にも合っているかもしれない。
「え? という感じはありましたが、何か考えているなという印象を持ちましたから、彼の思いを粗末にしちゃいけないなと。彼は自由人というイメージがありましたから」
これまで世になかった新しい自転車を生み出すプロジェクトは、スタートラインに立ったところで発案者が離脱するという、波乱の幕開けとなった。
実験場は茶畑 理想のアシストを求めて
花形部署からやってきた新リーダー
開発が始まって2度目の春、菅野に代わる新たなリーダーが着任した。小山裕之。ヤマハの花形部署であるレース部門から、藤田が引っ張ってきた男である。
小山は浜松市で生まれ育ち、広島大学の工学部でエンジンなどの内燃機関の研究に打ち込んだ。父親に「長男は地元に戻るものだ」と言われ、選んだ就職先がヤマハだった。
入社後、最初に担当したのは、バイクのエンジンの排出ガス対策。1970年代、車やバイクの排出ガス規制が強化され、各メーカーで排出ガスに含まれる有害なCO(一酸化炭素)やHC(炭化水素)を削減する技術の開発が進められていた。排出ガス対策はまだ歴史が浅く、ヤマハ社内にも「教科書」となるような知識やノウハウは蓄積されていなかった。
新人だった小山も、先輩と対等に議論しながらエンジンの改良に取り組んだ。そのエンジンを載せたオートバイは、当時世界で最も厳しいと言われたアメリカ・カリフォルニア州の排出ガス規制を業界で初めてクリアする成果を挙げた。
その後も、小山はさまざまなバイク作りに携わった。特にのめり込んだのは、新聞配達で使われる50ccのビジネスバイクだった。求められたのは、新聞をいくら積んでも壊れず、長い時間乗ってもエンジンが潰れない頑丈なバイク。華やかなCMや大規模な宣伝があるわけではなく、使う人の評価だけが売上を左右する。
地味でほかの人がやりたがらない分野だったが、使う人の役に立つものを作り、技術が売上に直結することが、小山にとって何物にも代えがたいやりがいになった。しかし、あまりにのめり込みすぎたのか、しばらくすると上司にまったく違う部署への異動を告げられた。オートバイのレース部門だ。
レース部門といえば、多くの技術者が憧れる花形部署だ。そこで小山は、パリ・ダカール・ラリーに出場するバイクのエンジン開発を命じられた。パリ・ダカール・ラリーは、フランスの首都パリをスタートし、サハラ砂漠を越えてセネガルの首都ダカールまで、1万キロ以上を約3週間かけて走破する世界一過酷なラリーだった。
それを走り切るバイクのエンジンに求められるのは、排気量を上げ、ロスを減らし、砂の中を駆け抜けられる信頼性を高めること。資金と時間をつぎ込み、性能を出すと同時に耐久性を上げ、世界一を目指すことを求められた。レース部門には、新聞配達用のバイクを作っていた時とはまったく違う世界が広がっていた。
地味な仕事が好きで、他部署への異動など「冗談じゃない」と最初は後ろ向きだった小山だが、やがて技術力で世界の頂点をひたすらに追い求めるレースの世界にものめり込むようになった。しかし、小山が参加して以降、ヤマハの成績は8位、4位、2位。1位になれず、負け続けた。
ついに小山はエンジニアを解任され、慣れない事務仕事に回された。机に向かって考えるより、現場で手を動かしたい小山にとって、まったく性に合わない仕事だった。そんな時、声をかけてきたのが、事業開発室長の藤田だった。
「スーパーマンになっちゃった」
「ビジネスバイクをやっていた時のように、お客さんに喜んでもらえる仕事がしたい」
そう思ってやってきた事業開発室で、小山は菅野が手掛けた試作車に出会った。一漕ぎして、衝撃を受けた。
「あれっ! 俺、スーパーマンになっちゃったかも」
まるでヒーローが空を飛ぶように、スーッと進んだ。これまでに味わったことのない感覚に、小山はすっかり魅了されてしまった。その瞬間、これを世に出すことが自分の使命だと思った。
「これならホンダの鼻を明かせる。やらなきゃいけない」
小山は、ホンダに対して特別な感情を持っていた。小山は3度パリ・ダカール・ラリーに挑んでいるが、2位が最高成績だ。一度もライバルに勝てなかった。レース部門の前にのめり込んでいた新聞配達のバイクも、圧倒的なシェア1位は、ホンダのバイク。
自分の人生は、いつもホンダに負けている。そんな気がして、悔しさが募つのっていた。菅野の試作車と出会い、「これならホンダに勝てる」と、心が燃えた。