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細密かつ大胆な昆虫画の魅力を中野京子が紐解く『虫を描く女 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』

NHK出版デジタルマガジン

細密かつ大胆な昆虫画の魅力を中野京子が紐解く『虫を描く女 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』

 フンボルトやダーウィンよりはるか昔、独学で昆虫を研究し、細密かつ大胆な画集を残した女性の業績を中野京子が描いた『虫を描く女 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』が4月10日に発売されます。昆虫や植物を描いた銅版画や水彩画の数々をフルカラーで収載し、その知られざる生涯を紐解いた本書より「はじめに」全文を先行公開します。

中野京子『虫を描く女 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』

中野京子『虫を描く女 「 昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』はじめに

 マリア・シビラ・メーリアン(一六四七〜一七一七)にのめりこむきっかけは、ほんの偶然からだった。数年前、ドイツマルク紙幣の肖像画について、雑誌にエッセーを書くことになった。グリム兄弟、ガウス、クララ・シューマンなど、日本でもなじみ深い著名人の中に、メーリアンはいた。
〈五〇〇マルク札の顔〉であるこの女性の文献は、そのころ日本にはほとんどなく、この時点でわかっていたのはフランクフルト生まれの〈植物画家で昆虫学者〉ということだけ。なんとも妙な肩書に思えた。ペストと魔女裁判の時代に、こんな肩書が成立しえたのだろうか。現代にいたるも昆虫には徹底して無関心のドイツ人で――蝶と蛾、セミとコオロギの区別もつかない――そのうえ女性で……。

左・ドイツ500マルク紙幣(1992年発行) 右・40ペニヒ切手(1987年発行)

 興味を惹かれ調べてゆくうち、少しずついろいろなことがわかってきた。彼女はスイス人の父、オランダ人の母の間に生まれ、ドイツ人というよりはコスモポリタンと呼ぶほうがあたっていよう。故郷にとどまらず、どこにも所属せず、大学へも行かず(行けず)、独学で虫を研究した。
 そもそも当時は昆虫学などという学問分野はなかったし、虫は腐敗物から自然発生するとのアリストテレス説がまだ強固に信じられていた。とうぜんイモ虫と蝶は別種の生きものとされていたのだが、メーリアンはそれを真正面から否定し、メタモルフォーゼ(変態)の概念を絵によって表現してみせた。つまり一枚の絵のなかに、卵、幼虫、蛹、成虫という虫の一生を、餌となる草花とともに描くというやり方、今でこそ博物図鑑でふつうに見られるこの描写術は、他ならぬ彼女が確立したのである。

 昆虫学のパイオニアは、一生もまた破格だった。ふたりの娘をつれての離婚、かけこみ寺での隠遁生活、アムステルダムヘの移住。そこからさらに五二歳で、オランダ植民地スリナム(南米にある現スリナム共和国)への旅。このころの五二歳といえばすでに老年だし、帆船で三ヵ月という長旅に加え、熱帯の過酷な環境に耐えられるはずもないと、周囲から強く反対されたのに、南国産大型昆虫の生態を知りたい一心で初志を貫いた。そして丸二年、マラリアで死にかけながらも、かの地にとどまり精力的に研究を続けた。ライフワークの制作は、さらにその帰国後である。
 これだけでもすごい女性と驚くが、けれどもっと驚いたのは、彼女の作品――大判の羊皮紙に手彩色された七二枚の銅版画集『スリナム産昆虫変態図譜』――をじっさいに見たときだった。圧倒された。ヤン・デ・ヘームに代表される、このころの花卉画とはまったく違う。違いすぎる。時代も性別もはるかに超える生き方をしたメーリアンは、芸術においてもまた、あらゆる制約から自由だったのだ。強烈な個性。猛々しい生命力。なにより驚くのは、現代の目から見てなお、彼女の作品は斬新そのものだった。

 たとえば、でんと真ん中に置かれた巨大なパイナップル。ゆるぎない母性そのものの存在感の大きさはどうだ。まわりに点在させた小さな虫たちの、効果的な赤の使い方のみごとさ。

パイナップルとドクチョウ(『スリナム本』図2)

 あるいは画面を大胆に斜めに横切るバナナの、意表を衝く構図と絶妙な配色。今しもハチドリを喰い殺そうとするオオツチグモの、毛深い足のリアルな動き。飛び立つカミキリムシの一瞬の間。見ているうちに熱帯の白い太陽や、じっとり重い空気や、植物のむせかえる香りまで伝わってくる。

 独特な超現実的感覚は、花も果実もそして卵も成虫も同じ画面に描くという、〈時間描写〉だけからくるのではない。現実の大小を無視する自由さからもきている。ヤシの木を這うイモ虫は、幹より太くたくましいし、ブドウの蔓がかしいでいるのは、スズメガの蛹の異様な重さのせいに見える。背中に仔をのせて走るオポッサムを、樹上から見下ろすカマキリの大きさときたら、まるでこの哺乳動物をまちぶせて、襲いかかろうとしているかのようではないか。幼虫の葉の喰い方や、落とした糞までリアルに描きながら、こうしていきなりシュールヘ飛ぶ飛び方もまた、メーリアンの絵をメーリアンの絵たらしめている。目眩をひきおこす、この世ならぬ不思議な光景は、だがおそらく彼女の心の眼が見た昆虫世界の現実であったろう。

 めずらしく背景を描きこんだテグー(大トカゲ)図もある。日本画ふうの奥行きのない描写から、葛飾北斎、特に画狂老人と名のっていた晩年の北斎を思い起こさせる。

テグーオオトカゲ(『スリナム本』図70)

 堅い岩肌、樹木と影、嵐をはらむ空と雲。これらの背景が、テグーの凶暴さと迫力を倍加させる。たいへんな質量のテグーだ。蒼光りしたウロコ、そりかえる背、うねる尾、画面からはみ出て落ちそうな重い腹、凶暴な赤い眼と舌。メーリアンの途方もないエネルギーが凝縮し、この妖怪じみたトカゲに結実したかのよう。自画像を残さなかった彼女の隠れた自画像のよう。さらなるメタモルフォーゼを終えた彼女自身のよう。

 〈目の悦び〉を求めてやまなかった当時の人々――彼女の生涯はぴったりドイツ・バロック期と重なる――が、この画集に熱狂したのもうなずける。ロシアのピョートル大帝はわざわざ彼女の自宅へ侍医を派遣し、購入させたし、一八世紀を通じてずっと、特にロシアとフランスで、メーリアン作品を所有することがステイタス・シンボルであり続けた。
 画集は生前にもう版を重ねており、彼女はじゅうぶん成功の甘き香りを楽しんだ。ナボコフもゲーテも、そのすばらしさに触れている。特にゲーテは「感覚的悦びを完璧に満足させる」と讃えた。

 これほどの芸術を残しながら、なぜその後のメーリアンは埋もれてしまったのだろう。なぜ昆虫学の先駆者たる彼女は否定されたのか。類稀な画家であり、研究者であるという二つにまたがる立場、つまりサイエンスアート作家だったため、科学者が芸術を断罪するのを許すことになり、正しい評価を妨げたのだろうか。それとも全ては、彼女が男ではなく女だからという理由なのか。だがともかく二〇世紀半ばからメーリアンの再評価は始まった。紙幣や切手の顔に選ばれたのが、何よりの証拠であろう。もてはやされ、埋もれ、再び甦ったメーリアン。スケールの大きなその人生と作品、尽きない魅力を、多くの日本人にも知ってもらいたい。

中野京子

作家・ドイツ文学者。北海道生まれ。
著書に『「怖い絵」で人間を読む』(NHK生活人新書)、『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『異形のものたち』(NHK出版新書)、「怖い絵」シリーズ(角川文庫)、「名画の謎」シリーズ(文春文庫)、「名画で読み解く王朝」シリーズ(光文社新書)、『美貌のひと』『愛の絵』(PHP新書)、『西洋絵画のお約束』(中公新書ラクレ)など多数。

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