蘇我入鹿は本当に「悪人」だったのか?地元の想いが宿る『入鹿神社』に行ってみた
仕事を含め、プライベートでも奈良を訪れることが多い筆者が、奈良の昔と今を歴史を軸に紹介する紀行シリーズ。
今回は、蘇我入鹿(そがのいるか)にまつわる旧跡を、2回にわけて綴る。
[前編]に続いて今回の[後編]では、日本で唯一入鹿を祭神として祀る「入鹿神社」を中心に紹介しよう。
古代史上最大の悪役にされた入鹿
一般的な歴史区分では、飛鳥時代は推古天皇が即位した592年から、平城京の遷都の710年の期間とされる。
その中ほどに朝廷の最高位である大臣として君臨した入鹿であったが、「大化の改新」で中大兄皇子らに逆賊として誅されてしまった。
それゆえに入鹿に関する史跡・旧跡は数少ない。
有名なのは、飛鳥寺の西門跡近くある首塚くらいだろう。
蘇我本宗家の中で、なぜ入鹿がことさらに悪逆非道の人とされるのだろうか。
祖父の馬子は、崇峻天皇を暗殺するという日本の歴史上まれな、”天皇殺し”を行っているが、全くと言ってよいほど逆賊扱いされていない。
だが入鹿とその父の蝦夷は、生前に造営した寿陵を「大陵」「小陵」と呼んだとか、葛城の高宮に祖廟を造り、臣下が行ってはならないとされる八佾の舞を舞わせたとか。あるいは甘樫丘の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と称し、入鹿の子たちを「王子」と呼んだなど、さんざんのいわれようだ。
このように蝦夷・入鹿父子を悪しざまに扱うのは、以下の二つの理由によるのではないだろうか。
一つは、聖徳太子(厩戸皇子)の皇子で皇位継承候補であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)と、その一族である上宮王家を滅ぼしたことだろう。
だが山背大兄王の襲撃には、後の孝徳天皇になる軽王をはじめ多数の皇族が参加し、将軍の巨勢徳太(こせのとこた)は、大化の改新政府で左大臣の要職に就いた有力人物だった。
しかし『日本書紀』には、山背大兄王殺しを入鹿の単独犯行のように記している。
これは、後世に入鹿をして”邪悪な人間”という印象付けをするためであったと考えられる。
そしてご丁寧にも蝦夷に、上宮王家を滅ぼしたことは蘇我氏滅亡につながるとまで言わせている。
時代が降り、聖徳太子信仰が盛んになるとともに、入鹿の汚名も強調されていったのは間違いなさそうだ。
そしてもう一つは、中大兄皇子や中臣鎌足らが推進した大化の改新事業において、蘇我本宗家は邪魔以外の何者でもなかったということだろう。
同家は、稲目・馬子の二代にわたり、天皇家と堅固な姻戚関係を築いてきた。
蝦夷と入鹿は、その血筋を色濃く引き継ぐ舒明天皇(じょめいてんのう)の子・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)に皇位を継承させたかったのは明らかだ。
だが、舒明天皇の異母兄・茅渟王の血を引く中大兄皇子(後の天智天皇)は、舒明天皇から皇位を継承した母・皇極天皇の皇統のもとに大化の改新の推進を図った。
それゆえに蝦夷・入鹿を滅ぼした後に、古人大兄皇子も殺害した。つまり、馬子と血がつながる者の皆殺しを成し遂げたのだ。
そうして、蘇我入鹿は古代史上最大の悪役に仕立て上げられたのである。
蘇我入鹿の真実の姿とは
蘇我入鹿を祀る「入鹿神社」は、近鉄大和八木駅から歩いて15分ほどの距離だ。
神社の周囲はクルマを止めるのに難渋するような細い道が多いので、のんびりと歩いていくことにした。
その道すがら考えていたのは、「真の入鹿の姿」だった。
実は、中臣鎌足・藤原不比等らの事績を記した『藤氏家伝』には
「旻法師、大臣に語りて曰く、吾堂に入る者、蘇我太郎に如くものなし」
と記されている。
旻法師とは遣隋使に同行して入隋し、帰国した後は大化改新政府の政治ブレーンとして、天智天皇らの信頼を集めた学者僧の僧旻(そうびん)その人を指す。
その僧旻が「自分の開いた私塾に学ぶ者の中で、蘇我太郎、すなわち入鹿には誰も及ばない」と讃えていたのだ。
彼の私塾には、中臣鎌足・中大兄皇子・軽皇子などの、錚々たる秀才たちが学んでいた。
そうした若者の中でも、入鹿の才は抜きんでていたと称賛されているのだ。
中臣鎌足は中大兄皇子を扶け、大化の改新を推し進めた中心人物で、いわば入鹿の敵そのものである。
その鎌足の伝記に記されている入鹿を讃える記載こそ、彼の本当の姿を伝えていると考えてよいだろう。
蘇我氏は、とても開明的な氏族だったと言われている。中国から律令制を導入して日本を中央政権国家にしようとしたのも彼らだった。
つまり、入鹿も中大兄皇子も中臣鎌足も、みなその志は一緒だった。
ただ、歴史には常に権力争いが付きまとう。蘇我本宗家はその争いに敗れ、歴史の表舞台から消え去ったのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、「蘇我入鹿公御旧跡碑」を道端に発見。ここを右に曲がると目指す「入鹿神社」はすぐそこだ。
入鹿神社の伝説でわかる「地元の入鹿愛」
「入鹿神社」の祭神は、蘇我入鹿と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の二神で、両神の木造坐像をご神体としている。
なぜ、素戔嗚尊も祀っているのだろうか。
明治政府は、蘇我入鹿を「逆臣」と見なし、そのような人物を神として祀ることを問題視した。そのため、祭神を素戔嗚尊に改め、神社の名称も「入鹿神社」ではなく「小綱神社」へ変更するよう強く求めたのである。
だが、地元の人々は頑固として拒んだという。
神社の創建年代など詳しいことは不詳だが、社伝によると蘇我氏の本貫地である曽我に隣接しているこの地は、入鹿が幼少時代を過ごした場所だそうだ。
そんな「入鹿神社」の本殿は、一間社春日造で江戸初期建造と推定される橿原市指定文化財。
檜皮葺の屋根、中央蛙股肘木の中に丹精に彩色された彫刻が施された、室町時代の風格を漂わせる建築物である。
同社の境内には、かつての神宮寺である正蓮寺大日堂と本殿の他、幾つかの小社があるのみだ。
しかし、そんな小さな神社であるにもかかわらず、入鹿にまつわる様々な伝説や伝承が残されているので紹介しよう。
そのどれもが、地元の人々の入鹿に対する愛情や、尊敬の念が伝わってくるものばかりだ。
●地元の小網町では鶏を飼わなかった
乙巳の変の際、中大兄皇子らは鶏鳴を合図に入鹿に斬りかかり、その首を刎ねた。
そのため、小網町では昔はどの家も鶏を飼わなかった。●鎌足を祀る多武峯へは参拝しない
入鹿を殺害した中臣鎌足を祀る談山神社がある多武峯へ、小網町の人が参ると必ず腹痛が起きた。
だから、小網町の人々は談山神社の参拝をしなかった。また、小綱地区や曽我町の子供たちは、遠足などで多武峯に行っても鳥居を潜らず、その場で他の地区の子供たちが参拝を終えるのを待った。
●鎌足の生誕地・明日香村小原との縁組は禁止
中臣鎌足の母の生誕地と伝わる、明日香村小原との縁組を禁じていた。
こうした決め事は、昭和の前半まで実際に守られていたという。
まとめにかえて
今回の奈良の旅で、蘇我入鹿にまつわる古墳や神社を訪ねてみて思ったのは、やはり歴史とは勝者のものだということだった。
歴史の表舞台に立つのは常に勝った立場の人々で、彼らは自らの手で滅亡に追い込んだ人々を、様々な手段で歴史から抹殺していった。
だからこそ後世に生きる我々は、敗者の痛みに寄り添いながら歴史の教訓を深く胸に刻むべきだとの想いを一層深くした。
蘇我入鹿がいたからこそ、日本は律令国家として成立した。蘇我本宗家が歴史に残した功績は非常に大きなものだった。
「入鹿神社」の静かな境内に佇むと、そんな思いがひしひしと胸に迫ってきた。
参考 : 『藤氏家伝』他
文 / 写真 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部