「インドには60年続く新聞漫画がある」「社会問題は風刺で描く」映画『マーヴィーラン 伝説の勇者』特濃インタビュー
『マーヴィーラン 伝説の勇者』監督が語る制作秘話
7月11日(金)より公開される映画『マーヴィーラン 伝説の勇者』(以下『マーヴィーラン』)は、タミル語映画界の人気俳優シヴァカールティケーヤンを主役にした異色のファンタジー映画。
監督は、長編デビュー作『マンデラ』(2021年)がインド国家映画賞の2部門(デビュー監督賞、最優秀脚本賞)で受賞という快挙を成し遂げた(※1)気鋭の新進マドーン・アシュヴィン。『マーヴィーラン』はそれに続く長編第2作目だ。
1987年にタミルナードゥ州の、そしてインドの最南端であるカンニヤークマリに生まれ、現在37歳のマドーン・アシュウィン監督にオンラインで話をうかがった。
※1:長編劇映画を撮り始める前には7本の短編映画を手掛けており、そのうちのひとつ『Dharman』(2012年/未)では、2013年の国家映画賞短編映画部門で特別賞を受賞している。
「“スーパーヒーロー”のトレンドを意識して作ったのではありません」
――本作ではシヴァカールティケーヤンをフィーチャーし、初めてスターが主演する映画を撮ったわけですが、あなたにとってこれまでの映画製作と違う点はありましたか?
本作の前に手掛けた長編劇映画は『マンデラ』だけでした。だから『マーヴィーラン』製作開始時点で、まだ1作分の経験しかなくて……。『マンデラ』の主演はヨーギ・バーブ、コメディアンでした。今回の『マーヴィーラン』は、新しいステップでした。1作目での試行錯誤の後に、2作目のチャンスが巡ってきたんです。正直なところ、スター俳優をどう扱い、ヒーロー映画をどう作るか、まだよく分かっていませんでした。
でもシヴァカールティケーヤンは本当に気さくで、スター風を一切吹かせない人だったので、とてもやりやすかったです。また新たにデビュー作品を撮っているような感覚でした。自由に作りたいものを作れる裁量権がありましたが、実際に撮影をしていく中でスター俳優と大作映画に携わっていることを実感しました。製作陣もヒーローも、脚本の流れをよく理解してくれて、みんなで一丸となって作品に取り組めました。それもまた学びの経験でした。
そして今、第3作目で別の大物俳優と組むことになったのですが(※2)、まだどうすればいいか分かりません。でも、現場でなんとかするつもりです。
※2:『PS』2部作(2022年/2023年)などで知られるヴィクラムとのコラボレーションが発表されている。
――近年のインドでは「スーパーヒーロー映画」が増えて、ヒット作が何本も出ていると観察しています。『マーヴィーラン』もその系譜に連なるものでしょうか。従来の社会派映画ならば、むしろサティヤの父親を主人公にしたのではないかと思えるので。臆病な若者がヒロイックな行いをするというストーリーラインを着想した経緯について教えてください。
トレンドを意識して本作を作ったのではありません。「特定の状況に置かれたときに1人の男がどう行動するか」というアイデアの閃きから始まったんです。本作を、昨今作られているような典型的なスーパーヒーロー映画と呼ぶのは正確ではありません。構想の時点では、単なるファンタジー映画のつもりでした。「臆病者がヒーローになろうと望んでも手だてがなく、語り手がある物語を語るけれども主人公はそれが気に入らず、全く別の話を望んでいる」という設定です。
しかし主人公には他の選択肢がなく、語られる物語の中にいるしかない。これはまるで、神が私たちに次に何が起こるかを告げているような状況です。私たちには従う以外に選択肢がなく、与えられたことをするしかない。私が神を信じていると言っているわけではなく、あくまで比喩ですが。この非常におもしろいハイコンセプトから製作が始まりました。
参考にした作品もありました。『主人公は僕だった』(アメリカ:2006年)や『OBER(原題)』 (オランダ:2006年/未)など、主人公と語り手が映画内に存在する作品です。私の考えは、語り手を画面に登場させるのではなく、ただの声として表現し、語らせることでした。これが出発点での基本コンセプトでした。
脚本を完成させたとき、私はスーパーヒーロー誕生の物語を作っていたことに気づきました。ファンタジーとして始まった脚本が、スーパーヒーロー誕生の物語になり、普通のスーパーヒーロー映画よりもずっと深く現実に根差したものになったのは幸運でした。ですから、一般的なトレンドとはその点で異なり、私の観点からは全く別ものです。このような形で作品を撮れたことを嬉しく思っています。
「主人公=漫画家として落ち着くまでには多くの選択肢がありました」
――主人公が理系技術者でもなく、肉体労働者でもなく、文学・芸術の分野の人であるというのは昨今の南インドの映画では珍しいことではないでしょうか。なぜそういう設定にしたのですか?
先ほども言ったように、このアイデアは主人公が語り手から自分自身の物語を聞くというものでした。そして、彼が非常に勇敢な人物になるためには、最初は気弱である必要があります。そうして臆病者が英雄になる一部始終が語られる物語になりました。そこで必然的に、主人公がフィクションを書くストーリーテラーになりました。
彼は『マーヴィーラン』というヒーローが人々を救う架空の物語を書きますが、現実の彼は勇者ではありません。彼はフィクションを書きながら、その中で偽りの人生を生きており、現実では自ら立ち上がることのない人物です。これが脚本を書く上での土台でした。
最終的に主人公=漫画家として落ち着くまでには多くの選択肢がありました。ナレーションは何かを語る声として降りてくる必要がありますが、たとえば小説だと非常に長い文章になります。映画でそれを表現するのは難しく、ナレーションは必要ですが、文章は非常に短く簡潔でなければならない。そこで思いついたのが漫画という形式です。
ナレーターが何かを語る吹き出しの説明は非常に小さなもので、2~4語しか入りません。これは私にとって非常に都合のいいもので、ストーリーテリングもナレーションも短くすることができます。また、これを主人公が描くというのは非常にメタ的でもあります。こうしてすべてがフィットしたので、漫画作家という設定を選んだのです。
――主人公に聞こえる“声”は、映画の中で観客に聞こえる声としては時々省略されることがありますが、たとえば船の上での戦いの場面でも、主人公には聞こえていたのでしょうか?
はい、彼はその声を聞いていました。実際のところは、この場面での“声”の省略は後から決めたことで、最初からではありません。とにかくこれは映画で、劇場でサウンドエフェクトなどと一緒に観るものですから、声がずっと続くと観客にとっては少し疲れるんです。特にドルビーアトモスの場合、ほとんどすべての音声が上部チャンネルから聞こえるため「パンドラ効果」(※3)のように感じられ、長い作品の中だと疲れてしまいます。
私たちは“声”が加わるものとして撮影を始めましたが、ボート上の戦闘シーンでは、主人公の戦い方から明らかに「声を聞いている」と理解できるだろうと考えました。ですので、これは後から編集段階で決めたことだったんです。
※3:ここでは「封じられた真実の暴露」という意味で使っているようだ。
――結局“あの声”は何だったのかと質問されることはありますか? どう答えていますか?
それには答えないことにしています。多くの人が「あれは何なのか」と聞いてきますが、要するに彼自身の声なのか、それとも何らかの幻の声なのか、あるいは彼の父親の声なのか。もし父親の声だとしたら、これはホラーになってしまい、もうファンタジーではありません。ですから、“声”の正体が何なのか、何か別の存在の声なのか、観客が映画を見たときの感じ方次第で自由に解釈してほしいと思います。明確に答える必要はないし、具体的に何かを指し示すつもりもありません。
「新聞漫画<カンニ・ティーヴ>はタミル人にとって非常に親しみ深いもの」
――作中に現れるような新聞連載漫画、それも非常に長く続いているものというのは実際に存在するのでしょうか。一枚絵の政治風刺漫画ではなく、ストーリーが続いていく漫画です。もしあるのならば具体名をあげていただけますでしょうか。
はい、タミル語の日刊新聞で連載されている漫画があります。1日あたり5コマの構成で、毎日読むことができます。この漫画は過去60年間続いており、今では伝説的な存在です。ストーリーはまだ完結しておらず、「カンニ・ティーヴ」(乙女の島)というタイトルです(※4)。
私はこの長期連載漫画からインスピレーションを受けました。劇中の主人公の漫画家は最初から携わっていたわけではなく、途中からの参加です。誰が最初にストーリーを作り、最初の漫画を描いたのかについては、明らかにされていません。「カンニ・ティーヴ」はタミル人にとって非常に親しみ深いもので、現在も<タンディ>というタミル語日刊紙で連載が続いています。
※4:「カンニ・ティーヴ(Kanni Theevu)」はタミル語日刊紙<Dina Thanthi(デイリー・メール)>上で1960年に連載が開始され、描き手はリレーしながら現在も続いている。「千夜一夜物語」の中の船乗りシンドバッドのエピソードを基に創作されている冒険譚。なお本作中に登場する架空の新聞社の名前は<Thanath Thee(デイリー・ファイヤー)>。
――本作の成立において、ローケーシュ・カナガラージ監督の助力があったと読みましたが、具体的にはどんな助けだったのでしょう?
いやいや、実際には彼は手伝っていません。私たちはとても親しい友達なので、よくアイデアを話し合います。私たちはストーリーについて議論するのが大好きで、彼がストーリーを完成させるたびに、私はそれにコメントします。同じように、私がストーリーを完成させたら、彼に話して聞かせ、彼は提案をくれます。つまり、双方向の関係なのです。
彼は『マーヴィーラン』のシナリオも気に入ってくれて、アクション部分に関して多くの意見を寄せてくれて、たいへん有益でした。ローケーシュとのディスカッションはよくあることで、一緒に映画を作っているようなものなのです。『マンデラ』のときも、彼は最後に髭剃り用の剃刀を使った戦いのシーンを入れるように言ってきました。私はそれをやると伝えました(※5)。私が『マーヴィーラン』で多くのアクション・シーンを入れ、アクション・ジャンルに移行したことを彼はとても喜んでいました。
※5:『マンデラ』を実見すると、該当するような場面はない。
「映画を観ている最中に笑い、後から考えるという2段階で、観客とコミュニケーションができる」
――ムルガダース監督やパー・ランジット監督など、さまざまなスタイルで社会的メッセージを娯楽映画にするタミル語映画の活力には圧倒されます。あなたの場合、社会問題を訴えるためにサタイア(風刺、皮肉)は有効な手段であると思っていますか?
そうですね、社会問題を伝える手段としては風刺が最も効果的だと思います。劇場に行ってチケットを買い、自分の人生の問題をずっと見せられるような映画は観たくないでしょう。私は観ませんし、エンターテインメントが欲しい。風刺ならそれが可能です。
劇場で観客を楽しませ、大笑いさせ、楽しんでもらう。そして家に帰った後、笑ったことを振り返って考えてもらう。笑っていたことが実は重大な問題だったと気付いてもらうのです。これにより、映画が終わってからも観客と対話する余地が生まれます。映画を観ている最中に笑い、後から考えるという2段階で、風刺を通じて観客とコミュニケーションができるのです。
問題をストレートに提示するだけでは、こうはいきません。そしてそこにドラマも加えます。個人的に、あまり生真面目な映画は観ません。だからこそ、ユーモアと風刺たっぷりの脚本を書くのです。
――本作のエンディングは2つのパートに分かれていて、最初のパートでは「フィルモグラフィー」として6作品の名前が挙げられています(※6)が、これはどういう意図ですか?
これらは、私がインスピレーションを受けた映画です。前に話したように、私は観て気に入った全ての映画から何かしらインスピレーションを受けるし、それぞれの作品から何かを得るようにしています。
『主人公は僕だった』を観て、「何かの声が聞こえてきて物語が引き出されるようなファンタジー映画を作れる」という確信を得ました。この作品は非常に素晴らしいインスピレーションでした。観始めた時点で、自分が作る映画は全く異なるものになると分かっていました。なぜなら、『マーヴィーラン』はアクション要素がメインで、耳で聞く小説のようなものではないからです。そこから始まり、全てが違うものです。『マーヴィーラン』にはアクションが必要だったのです。
もう一つ、オランダ映画の『OBER』からもヒントを得ましたし、さらに別の映画では建物の崩壊シーンを研究しました。人々の反応や建物に亀裂が入る様子、その処理方法など、私たちが探求したいと思った要素を実際に取り入れました。
※6:本作のエンディングで名前が挙げられている作品は以下の通り。
①『主人公は僕だった』(米:2006年)https://www.youtube.com/watch?v=0iqZD-oTE7U
②『ガンファイター/天からの声』(米:2014年)※第12回札幌国際短編映画祭(2017年)で上映
https://www.youtube.com/watch?v=cWs4WA–eKU
③『OBER/Waiter』(オランダ:2006年/未)https://www.dailymotion.com/video/x8hqp9u
④『THE FOOL』(ロシア:2014年/未)https://www.youtube.com/watch?v=cy0CgeWWW1w
⑤『カリフォルニア・ダウン』(米:2015年)
▶PrimeVideoで視聴
⑥『THE QUAKE/ザ・クエイク』(ノルウェー:2018年)
▶PrimeVideoで視聴
――色々と教えてくださいまして、ありがとうございました。
7月11日(金)より新宿ピカデリーほかにて公開の『マーヴィーラン 伝説の勇者』は、笑わせ、考えさせ、ともかく楽しませる映画です。どうぞ劇場にいらしてください。
取材・文:安宅直子