日本人が大切にしてきた<海の恵み>への祈り 地域に根付くクジラを弔う文化とは?
「鯨塚」や「鯨慰霊碑」というものを知っていますか。
呼び名は様々ですが、いずれも共通の目的は同じで<クジラを供養するためのもの>です。
近現代、議論の対象にもなっている日本の捕鯨文化ですが、日本人はなにもやみくもに命をもてあそんできたわけではありません。
日本各地には今も、鯨塚や鯨供養碑が残っています。日本人にとって「捕鯨」は、地域に根付く文化なのです。
各地に残る「捕鯨」の記憶
日本各地の海辺には、クジラを祀った供養碑が今も残されています。
たとえば、和歌山県太地町は捕鯨発祥の地として有名で、町内には複数の鯨塚があり、地元の人々が今も命への感謝を込めて手を合わせています。
和歌山県太地町の燈明崎には、かつて捕鯨の際に指示役が海を見渡していた場所が残っています。
北海道の松前町や羅臼町にも鯨塚があり、寒冷な北の海で打ち上げられたクジラに対して供養が行われてきました。中でも函館市に残る「鯨族供養塔」は、実際に捕鯨に参加していた方が先頭となって建立されたクジラのための供養碑なのです。
その他にも、宮城県石巻市、千葉県南房総市、愛媛県、長崎県壱岐市など、クジラを供養するための建立物は捕鯨や座礁クジラと縁の深い地域に点在しています。
こうした建立物は、クジラがただの「漁獲対象」ではなく、神聖な存在・魂の宿る生き物として見られていたことを物語っています。
クジラがもたらしていた恵みとその価値
捕鯨が本格的に始まった江戸時代には、クジラは肉だけでなく脂、骨、ひげ、内臓までほぼすべての部位が活用されました。
たとえば、脂肪から採れる「鯨油(げいゆ)」は行灯の明かりや工業用油として高価で取引されていましたし、骨は漁に使う道具として活用されていました。今の価値で換算すると、クジラ1頭あたりで得られる物資は数千万円から1億円以上とも言われています。
また、食肉としての価値も高く、クジラ肉は保存性に優れた栄養源として、冷蔵技術のない時代に重宝されました。
皮や筋なども生活用品に加工されており、まさに一頭丸ごとが地域を支える重要な資源だったのです。
かつて「捕鯨」は一大事業だった
近代以前の捕鯨は、現在のように機械や大型船に頼れずに人力のみで行うため、大きな危険が伴う仕事でした。
和歌山・太地の伝統的な捕鯨では、数百人規模の船団が編成され、監視・追い込み・網張り・突き捕りなど、それぞれが陸や海から、役割分担しながらクジラに挑みました。
命がけの作業であることから、捕鯨前には儀式や祈りが欠かせず、クジラが仕留められた後も村をあげての感謝と供養が行われました。「クジラ一頭あれば村全体が1年暮らせる」とも言われるほど、捕鯨は村の命運を左右する大仕事だったのです。
豊かな生活をもたらしてくれるクジラですが、目の前で偉大なクジラが息絶える瞬間を見る人々の胸中は複雑だったに違いありません。そんな良心の呵責が、各地に鯨慰霊碑や鯨塚を建立させたのだと、私は考えています。
生物保護と文化保護のはざまで
現在、商業捕鯨をめぐる国際的な議論は続いており、日本でも賛否が分かれています。
クジラを守るべき「野生動物」として見る立場と、古来からの文化・生業として尊重すべきという立場は、しばしば対立することがあります。
しかし、各地に残る鯨塚や供養碑を見ると、少なくとも過去の日本人はクジラをただの消費ではなく、未来に続く文化的生業対象として見ていたことがわかります。獲って終わりではなく、命に祈りを捧げ、感謝を込めて暮らしていたのです。
こうした文化を知ることは、単に過去を懐かしむためでなく、これからの自然との付き合い方を考えるヒントになるかもしれません。
捕鯨に関わらず、環境汚染や乱獲の問題はいつの時代でも議論されています。ずっと先の未来でも豊かな自然と生き物たちを愛でられるように、いい共生関係を築いて欲しいと願っています。
(サカナトライター:halハルカ)
参考文献
燈明崎-和歌山県太地町観光協会
鯨族供養塔-函館市公式観光サイトはこぶら