不屈の芸術家・田中一村の芸術観と生き様に迫る展覧会が開催
無名のまま、その生涯を閉じた日本画家の田中一村(たなか・いっそん、1908~1977年)。農作業や工場勤務、内職を続けながら生活し、社会的な成功とは無縁だった中、幼少期から晩年までただひたすらに自身の表現を追求し続けた。
苦難の連続であったにもかかわらず、筆を折ることのなかった一村の不屈の情熱の源とは何だったのか。「東京都美術館」の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」では、一村の生きる糧としての芸術、そしてその生き様を追う。
「神童」と呼ばれた幼少期
己の納得できる作品を描けるまで表現を探求し続けた一村は、1958年、50歳で奄美大島に移住した。本展では、自身の芸術の最終形態を目指した一村が、いかにして奄美へ行き着いたのかを時系列でたどる。
彫刻家の父の下に生まれた一村は、幼少期から「神童」と呼ばれ、芸術の才能を発揮していた。冒頭に展示されている6歳から10代にかけての作品からは、確かな筆跡が見受けられる。
17歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも2カ月で退学し、その後はひたむきに独学で制作を続けた。
20代前半の頃の一村は、新しい支援者に自身の芸術が受け入れられなく、画風を変え模索していた。歩みを止めることなく進み続けた、意欲と切実さを詰まる作品群が並ぶ。
こだわり続けた天性の光の画家
戦後、困窮した生活を送る一村は「日展」に何度も挑戦するが、落選し続けた。「第2章 千葉時代 一村 誕生」では、オリジナリティーを形成する時期であった一村の、バリエーション豊かな作品が空間を飾る。
初の入選作品であり、結果的に公募展に入選した唯一の作品となった『白い花』は、光をたたえたチャーミングな作品だ。光に関する深い感受性を天性として持っていたのではと今では評価される一村の、まさに「光の画家」であることが見受けられて興味深い。
一村の芸術は、その苦労ばかりの人生にもかかわらず、苦しみや激しさとは無縁だ。色彩豊かな植物・花・鳥などを主題とし、画面からは澄んだ空気までもが感じられる。植物画家には緑色の使い方が重要であるといわれているが、一村は群青で描いてから緑色を用いることで、ニュアンスに富んだ植物像を生み出している。
また、日展に落選した作品『秋晴』にも注目したい。同展では、現在は行方不明である別の作品が入選するが、『秋晴』の方を自信作とする一村はこれを辞退した。このエピソードからも、こだわりの強さや、自分の信じる絵の在り方に対し、一切の妥協をしない姿勢が感じられる。
終息の地、奄美大島へ
ハイライトは、最終章の「第3章 己の道 奄美へ」だ。己の道を突き進んだ一村は、より強く自然の本質を写し出すため、奄美大島へたどり着く。ブルーに塗られた壁と奄美大島の自然をテーマとした作品によって、会場の雰囲気が一気に変わるのも印象的である。
一村は工場勤務で絵の具代を稼ぎながら、島で南国情緒あふれる作品をいちずに制作した。生命力に満ちた海の生物や草花からは、奄美の豊かな自然の力とともに、一村の最後まで人生をやり抜く力強さと、芸術への執念がひしひしと伝わる。
生涯を通じて実験的に生きたと言ってもいい一村は、納得のいく芸術のため、晩年まで一人黙々と制作し続けた。70歳での個展実現を目指しながら69歳で亡くなり、その数年後に奄美の知人たちの手により、世に知られるようになる。
本展を通し、自身の信じる「芸術」を生きる糧とした一人の作家の情熱の深さを感じ取ってほしい。