今改めて「あの戦争」をどう見るか?日本人の戦争観を問う。【太平洋戦争への道 1931-1941】
昭和史研究のスペシャリストである半藤一利さん、加藤陽子さん、保阪正康さんの鼎談に、保阪正康さんの解説を加えて刊行した『太平洋戦争への道 1931-1941』は、昭和日本が先の戦争に至った道筋を6つの転換期から検証したロングセラーです。本記事では、改めて「あの戦争」をどう見るかを問うた序章を抜粋・再構成して公開します。
太平洋戦争とは何か
加藤 本日は「太平洋戦争への道」というタイトルでお話ししていますが、実は50年前、このタイトルで本が出ています。日本国際政治学会編の『太平洋戦争への道』という7冊の歴史研究書です。ということは、かなり長い間、我々はこの「太平洋戦争への道」という見方でこの時代を考えてきたわけですね。
半藤 「太平洋戦争」か「大東亜戦争」かという議論がありますね。戦争というのは、戦争相手の国名を入れる場合が多い。たとえば「日露戦争」とか「日清戦争」など。あるいは「関ヶ原の戦い」のように戦争の場所を入れる場合もある。そういう意味で言うと、「あの戦争」は太平洋で戦ったわけですから、私は「太平洋戦争」でいいと思います。
一方の「大東亜戦争」というのは、大東亜共栄圏をつくるという大目的からの名づけですが、戦争目的を戦争の名前にするのはおかしいと私は思いますね。日本の国は太平洋を舞台にして英米と戦ったので、一番正しいのは「対英米戦争」かなとも思いますが、自分自身の中では「太平洋戦争」でよいと、そういうふうに捉えております。
それとあえて言うならば、「日中戦争」と「太平洋戦争」は分けて考えたほうがいいと思っていますけれどね。
保阪 太平洋戦争は日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して始めたわけですが、その4日後の12月12日に「この戦争の名称を大東亜戦争とする。そして、これはすでに始まっている支那事変(日中戦争)なども含む」と政府が発表し、それ以来、「大東亜戦争」が使われてきました。
これに対して戦争が敗戦というかたちで終わった後、アメリカを中心とする連合国が、1945年(昭和20年)12月8日から、今度の戦争については「太平洋戦争」という言葉を使って全国の新聞に連載記事を載せるようにと命じます。これはGHQのスタッフの戦争観、つまりはアメリカの戦争観を載せるようにということですが、そのときに「太平洋戦争」という言葉が使われた。
「大東亜戦争」も「太平洋戦争」も、かたちとして言えば、権力者が決めた名称です。私は1946年に小学校に入りましたが、そのときからアメリカの政策に忠実に「太平洋戦争」という呼称を使ってきました。そして今も「太平洋戦争」と言いますが、それは「日中戦争」も含めての意味で使っています。
保阪 ただ近年は、この「太平洋戦争」をいろいろ変化させて、「十五年戦争」とか「アジア太平洋戦争」といった呼称を用いる人もいます。私はその呼称に反対するわけではありませんが、そこにある種の政治的な意味を持たせていると感じます。私としては若干の疑問は持ちながらも、この言葉を使ってきた世代だという意味も加味して、「太平洋戦争」という言葉を最後まで使おうかなと思っています。
加藤 これは大事な問題だと思います。私たちが「先の戦争」と言うとき、1945年8月15日の終戦記念日で終わった戦争を指すのは確実なのですが、ではその始まりは1941年からの「対英米戦争」なのか、それとも1937年の「日中戦争」からなのかというところを比較的曖昧にして話をしているわけですね。
ただ政府の、たとえば戦没者追悼式典などにおける「遺族」の定義を見ると、1937年の日中戦争からの戦没者ということになっています。つまり、「いつからなのか」「どの地域で戦われた戦争なのか」というのが、いつも曖昧なままに議論されてきたわけですね。
一つ例を挙げたいのですが、2015年(平成27年)4月18日付の「朝日新聞」に、こういう世論調査があります。「日本がなぜ戦争したのか、自ら繰り返し説明する努力を十分にしてきたのか」という設問に対し、「十分にしてこなかった」と答えた方が65パーセントもいる。ということは、「あの戦争、先の戦争というものは何だったのか」ということがまだ明らかになってないということでもあると思います。
戦争体験と戦争観
保阪 なぜ、日本人の太平洋戦争観、日中戦争観、あるいはそれを含めての大きい意味での戦争観というのは、ぐらぐらと揺れているのか。それはつまり、一つのかたちがつくりえないということだろうと思います。私たちの国は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変というように、ほぼ10年おきに近代戦争を戦ってきましたが、すべて外地での戦争です。1944年(昭和19年)の10、11月から米軍による都市爆撃が始まり、そのときに初めて多くの人が戦争を肌で実感します。
私は戦争体験の話をたくさん聞いてきました。多くの人が「戦争は嫌だ。二度と嫌だ」と言います。さらによく聞いてみると、その嫌だという気持ちの底には、アメリカの爆撃機が来て、爆弾を落としていった記憶がある。私はその記憶だけでは「厭戦」「嫌戦」と言うべきであって、「反戦」「非戦」ではないと思います。
保阪 私たちの国で、「戦争観」というものが国家的、あるいは国民レベルできちんと定着せず、ぐらぐらと揺れているのは、もちろんアジアの国々との関係もあるにしても、私たちが戦争を肌身で知った戦争体験が、わずか1年足らずの空襲体験に多くを拠っているためではないか。そうした限定的な体験で戦争観をつくっているとするならば、基本的に想像力が不足しているし、戦争というものに対する考えの幅が狭いのではないか。「厭戦」や「嫌戦」というのは、戦争観をつくりうる因子としては弱いのではないかと私は思うわけです。
やはり「反戦」「非戦」というかたちにして、戦争の内実を理解するためには、想像力や検証する力というのを持たなければいけませんが、その点がこの社会全体に欠けているのではないか─そんな感じがしますね。
1930年代という時代
加藤 本日は太平洋戦争に至る10年を振り返るという趣旨で話を進めていますが、1930年代とはどのような時代だったとお考えでしょうか。
保阪 世界史的には、1910年代は第一次世界大戦の時代で、その結果として1920年代は国際協調の時代となります。その国際協調の中で、1931年(昭和6年)の満州事変が最初の軍事的行動として国際協調を破ることになりました。そういう意味で言うと、1930年代は国際協調が崩れていく、世界史的に見ても、軍事が前面に出てくる時代だと思います。
私たちの国は、満州事変という、国際協調路線に異を唱えたかたちの軍事行動を起こし、それ以降、軍事行動が国策の中心になっていきました。1930年代とは、ひとことで言えば「政治が軍事に隷属していく時代」ではないかと思いますね。
加藤 当時「ヴェルサイユ・ワシントン体制」ということが国際協調の言葉で言われましたけれども、それに反対を唱える国内勢力などが出てくる「テロの時代」であるとも言えると思います。
1929年の世界大恐慌によって、世界で金本位制という安定した相互依存の経済関係がダメになる。それに対して、国際連盟が有効に機能するかというと、それも難しい。経済がダメになった後に、政治のまとまりがうまく制御できるシステムができていない。それがこの1930年代だというふうに私は思っています。
半藤 日本が軍事的に表へ出ていくのを後押ししたのは、実は日本のマスコミなんですよ。それまで日本は軍縮ブームで、軍部を縮小しろと、日本のマスコミは軍に対してものすごく厳しい目で見ていた。ところが、この満州事変が起きてから、新聞はがらりと論調を変えてしまった。
簡単に言えば、よその国へ軍隊を出して、それがどんどん占領地を拡大していくという動きに対して、マスコミがものすごく応援したんです。国民がそれに煽られ、乗っかっていった。日本は軍事的になりつつあったとされますが、その後ろの国民的支持が非常に大きかったということに私は一番注目しますね。
著者情報
半藤 一利
作家。1930年東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社し、「週刊文春」「文藝春秋」などの編集長を歴任。2021年1月逝去。著書に『日本のいちばん長い日』『ノモンハンの夏』など。
加藤 陽子
東京大学大学院人文社会系研究科教授。1960年埼玉県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。著書に『それでも日本人は「戦争」を選んだ』『昭和天皇と戦争の世紀(天皇の歴史8)』『戦争まで』『とめられなかった戦争』など。
保阪 正康 [編著]
ノンフィクション作家。1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書に『昭和陸軍の研究』『昭和の怪物 七つの謎』『あの戦争は何だったのか』『陰謀の日本近現代史』など。