人はどれほどの土地を必要とするか/自給自足を夢見て脱サラ農家40年(67)【千葉県八街市】
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自給自足を夢見て脱サラ農家40年 第67回
【写真を見る】人はどれほどの土地を必要とするか/自給自足を夢見て脱サラ農家40年(67)【千葉県八街市】
人は どれほどの土地を 必要とするか
部屋は どれほどの広さが 望ましいか
都市と田園、生と性
ウサギ小屋の記憶
唐突だが、今回は「ウサギ小屋」という言葉でもって始めたい。久しぶりに新聞・テレビで目にし、僕は懐かしかったのだ。若い人には馴染みがあるまい。かつて経済で世界のトップクラスに躍り出た日本という国、しかし、人々が生活するのはウサギ小屋同然の狭い住宅……。国の内外からそう揶揄的に使われたのだった。
そのウサギ小屋が、今頃どうしてメディアに復活したか。
首都圏のマンション高騰と関係がある。
以前の面積では手が出せる人が少ない。もって業者は4年前に比べ11%。狭い割安なものを数多く用意する。
テレビで1DKに親子3人で暮らす家族が紹介された。僕は驚く。その家賃10万円。共働きとはいえ、大きな負担であろう。しかし、カメラに向かって若い妻が口にする不満は金額じゃなく、「この狭さではもう1人子どもがほしいけど無理です……」だった。住宅の狭さは少子化とも関連。もっと子どもはほしいが狭さゆえ断念という家庭の割合は21%もあるらしい。
鶏と暮らす日々
パソコンデスクの訪問者
ここ数日、20度という暖かさが続く。人間もニワトリも心地よい。ミツバチの姿も見える。我がパソコンデスクに、今朝はニワトリが座っている。卵を産もうとしているかと思ったが、どうやらこのブルーの布、電熱器で育てているインゲンの苗に寒さ除けとして夜掛けてやるこの布が心地よかったらしい。
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ニワトリは友、あるいは家族。いっさいの検問なしでパソコン部屋にも寝室にも自由に出入りする。たまに糞を落とす。なあに拭けばいい。人間ならもう中学生という大きな我が子を抱く母鳥。よその子まで世話する母鳥。
この微笑ましい風景の出発点、それは雌鶏の体内に列をなし、排卵という外界への出番を待っている卵(卵子)である。体温43度で21日間母に抱かれた卵、それが可愛いヒヨコになる。卵が冷えてはいけないと、母は1日1回、大急ぎで巣箱から出て食事とトイレをすませる。
目を転じてケージ飼いのニワトリ。住居は狭小だが連日卵を産む。その生活スペースはB5版サイズ。方向転換もできず、なお健気に毎日卵を産む。砂浴びせず、太陽光に当たらず、トサカに赤味なく、羽に艶なく、それでも、いわば自分の不自由さや命との引き換えで我らの必須食品である卵をせっせと産んでくれている。
雪の日の思索
1DKの限界
心地よい光と暖かさで喜んだのも束の間、3月の関東は雪模様となった。東京でも数センチの積雪とテレビは興奮気味に伝えている。当地は雪ではなく雨。日中の気温2度。思い通りに動かぬ手でなんとか仕事をこなす。僕にはおかしな信念がある。きびしくキツイ環境の中でこそ人間の体は強さを増す……。
さて1DK家賃10万円の話をもう少し書く。これから書くことは、ひょっとしたら“放送倫理規定”に引っ掛かるかもしれない。だが、根幹はあくまで生物学的見地からの考察。さまざまな動物を飼ってきた男の真摯な論述だと思っていただきたい。
テレビで、もう1人子どもがほしいですが今の住居の狭さでは不可能です。30代初めの女性は苦笑しながらそう言った。当人も、その言葉を聴く人も、家族3人ですでに満杯の1DKにもう1人の子どもは無理……すなわち物理的空間の問題と捉えたことであろう。
しかし、僕は別な視点から考えた。子どもが生まれるためにはセックスする必要がある。1DKの空間では、すでに3歳、4歳になっている子をそばにおいて夫婦が交わることは難しい。独立した夫婦の部屋あってこそ可能となる。少子化の原因は一概には言えない。僕の視点では夫婦が気兼ねなく交われるような空間がないことも大きな理由ではないか。
秘め事の文化
男女の交わりを昔は「秘め事」と称した。人目に触れぬようになす二人だけの秘めたる行動。確かなことは分からないが、他人の目に触れぬよう夜の暗い空間で交わる、それはヒトという動物だけではあるまいか。
これは僕が所蔵する写真の中でもとりわけ貴重な1枚である。オスが背後からしっかりメスを抱く。この場面を見ながら生物界における命の連鎖の確かさを想う。カブトムシの一生は短い。わずか1年という寿命のほとんどを幼虫として地中で過ごし、地上で生きるのは3か月と言われる。
社会規範と人間の本能
人間世界におけるセックス、その究極は精神の解放ではないか……78歳という年齢に沿ったそれなりの経験をしてきた僕はそう考える。人間は社会の規範に縛られながら生きている。それはいわば化粧した顔。社会構造が発達し、第一次産業の従事者が減り、都市での生活者が主流となり、彼らが国の経済を牽引する高度な社会になればなるほど人間の行動を縛る規範は増えていく。男女の交わりとは、その社会の規範を捨てた、化粧を拭い取った、スッポンポンの精神、素の顔、それでなされるものだと言えよう。
専業主婦という言葉も今や古臭くなったが、夫婦して外で働くことが一般的となった現在は、男女の秘め事にブレーキを掛ける一因となってはいまいか。夫もしくは妻のどちらかが今夜は秘め事をしたいと望む。が、もうこんな時刻だ、オレは明日は朝一番で取引先のX氏に会わねばならない。ワタシは部内の会議があるわ……そんなこんなの事情でもって一方の欲望を他方が受け容れられない。かようなことは少なくないのではあるまいか。
畑とニワトリ
梅の花とミツバチ
5日ぶりの快晴の朝。また明日の夕刻から雨か雪という予報だが、この久しぶりの豊かな光を、僕もニワトリも、太陽光発電のパネルも梅の花も気分よく楽しんでいる。15本の梅が一斉に花開く。桜に劣らぬ美しい風景である。
梅は昨年ほぼ収穫皆無だった。気候変動。開花期とミツバチの活動がズレたせいだと言われている。ミツバチの助けを借りて授粉するのは梅の他にイチゴ、プラム、アンズ、梨と様々ある。甘い蜜を求めてミツバチが花の上を歩き回る。その活動が授粉を促す。
ミツバチの助けを借りて実りの時を迎える植物。動物としての人間とはかなりの違いがある。授粉の際の梅の花のココロ、快感か安堵か。それは僕にも分からない。人間が秘め事において求めるのは快感であり、いっときの精神の解放であろう。社会生活とは別なゾーンに存在する古来のDNAに刻み込まれた本能の営み。社会の規範や日常生活における様々なルールと対極にある行動。あえて言うなら、その行為は時に滑稽である。でも楽しく幼稚でもある。裸足で野山を行く、手に槍を持つ古代のヒトの姿、それを連想させる原始的なもの。
性的欲求と精神性
男女は交わるために着ているものを全て脱ぐが、精神や気持ちにおいても同様、外の社会から人為的に纏わされているいっさいを脱ぎ捨て、裸の心になって快感の時を共有する(……のが理想)。
むかし読んだ本の中に「離婚の理由で性格の不一致だとされる例が少なくないが、現実には性の不一致であることが多い……」そんな記述があった。僕もこれには同意する。生きる価値観や趣味、その一致も二人には重要。でもそれに劣らず性的欲求の度合い、そこから得る快感の深さ。これが男女イーブンに近ければ近いほどうまくいき、シアワセは長続きする……ように僕は思う。
高騰する野菜
ニワトリとの攻防
前年同期に比べ白菜は4倍以上、キャベツは3倍近く。この高値は3月いっぱい続く。農水省の発表を受けてメディアはそう伝えている。昨秋遅くに苗を植えた我がキャベツ。不運にも、わずかな隙間からニワトリが侵入し齧られた。「葉ものを食べたい」はニワトリの本能。その葉ものが1年で底をつく今の時期、ニワトリたちは必死になってビニールハウスへの侵入を試みるのだ。
ケージ飼いのニワトリ以上に狭い空間で苦しんでいる、それは豚である。先ごろ朝日新聞が世界的潮流となっているアニマルウェルフェア(動物福祉)を主題とする連載をした。豚は妊娠から分娩直前までの114日、分娩から離乳までの20日余り、ストールと呼ばれる金属製の檻に入れられる。その幅60センチ。ほとんど身動きできない。
子豚たちをも過酷な運命が待つ。生まれてすぐ無麻酔で尾を切断され、オスは肉に臭味が出ないよう去勢される。生後20日余りで移される飼育舎のスペースは1頭当たり1平方メートル……。なんという狭さか。僕は胸が痛む。しかし、朝日の連載後半では、豚たちに広く快適な空間を提供する業者も存在することが伝えられ、僕はホッと喜びのため息をついた。
トルストイの問い
人はどれほどの土地を必要とするか
「人にはどれほどの土地がいるか」。文豪トルストイの寓話である。主人公の農民パホームは広い土地さえ持っていれば幸せになれると考えている。そんな彼は、夜明けから日没まで歩いて、印を付けたぶんの土地が自分のものになる、そんなボロい話に遭遇する。懸命に歩く。太陽が沈むまで歩く。疲れ果てて出発点に戻ったパホームだが、そこで倒れ、息絶える。埋葬のために使用人が掘った穴はたったの6フィートだった……。
僕の畑は1500坪。多くの作物が錯綜する夏から秋、もっと広い土地がほしいと以前は思うこともあったが、機械がなく、人力でやるのはこの程度がちょうどよいのかも。今ではいかに効率よく畑を回転させるか、そのやりくりを楽しんでいる。住居は66平方メートルの平屋。6畳が3つ、4畳半がひとつ。それに狭苦しい台所と風呂。築42年。地震台風の被害は業者に修理を頼むこともせず今日まで来たゆえ、まことに無惨なありさまである。
都会と田舎の幸福論
しかし、1DK、家賃10万円に比べたら広くて快適である。雨漏りとニワトリたちが落とす糞、それに目をつぶりさえすれば家賃も共益費もいらないのだから。都会生活は便利で多くのエンタテイメントがすぐそばにある。僕は……市役所は7㎞先、いちばん近いスーパーでも3㎞、ホームセンターは6㎞。目指す品物がない場合には大きなホームセンターまで軽トラを9㎞走らせる。カフェも映画館もない。こんな我が田舎暮らしは、部屋は狭い、でも東京の真ん中、楽しく便利に生活する人にはたぶん実感できまい。
ニワトリたちものびやかに暮らす。大量の堆肥を施したその下から出て来る虫がお目当てだが、性欲旺盛な若い雄鶏は近くに寄って来た雌鶏にさっと乗っかる。今はそんな気分じゃないわ、食べる方が先よと拒否するのもたまにいる。でも日々産卵し、次世代を作るための精子を求めている雌鶏は自分から腰を落として積極的に交尾の姿勢をとる。
最後に睦まじい“男女”の姿をお見せする。雄鶏は力ずくで交尾に及ぼうとする粗暴の一方、雌鶏に好かれたい一心での優しさも持つ。初産の雌はどこに卵を産むか迷う。それを察知した雄はあちこちを探索し、心地よく安全な場所を見つける。まず自分がそこに入り、ここでよしと決めたら甘やかな声で雌を呼ぶ。そのシーンがこの上の写真である。